人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン Thelonious Monk with John Coltrane (Jazzland, 1961)

セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン (Jazzland, 1961)

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セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン Thelonious Monk with John Coltrane (Jazzland, 1961) Full Album : https://youtu.be/F1ALT0vuS9M
Recorded in April 12, 1957/June 26, 1957/July, 1957
Released by Riverside Records, Jazzland-46 , Early October 1961
All selections by Thelonious Monk except as indicated.

(Side one)

1. Ruby, My Dear - 6:17
2. Trinkle, Tinkle - 6:37
3. Off Minor - 5:15

(Side two)

1. Nutty - 6:35
2. Epistrophy (Kenny Clarke, Monk) - 3:07
3. Functional - 9:46

[ Personnel ]

Thelonious Monk - piano, unaccompanied piano on "Functional" (April 12, 1957)
on "Ruby, My Dear," "Trinkle, Tinkle", "Nutty" (date unknown, July, 1957)
John Coltrane - tenor saxophone
Wilbur Ware - bass
Shadow Wilson - drums
on "Off Minor" and "Epistrophy" (June 26, 1957)
Ray Copeland - trumpet
Gigi Gryce - alto saxophone
Coleman Hawkins, John Coltrane - tenor saxophone
Art Blakey - drums

(Original Jazzland "Thelonious Monk with John Coltrane" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 本作の『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン(Thelonious Monk and John Coltrane)』というタイトルは実は半分ハッタリなのですが、それにはけっこうややこしい事情があります。セロニアス・モンク(ピアノ・1917-1982)は麻薬所持容疑の冤罪で5年間ニューヨークのミュージシャン組合からジャズ・クラブ出演を謹慎処分され、数少ないレコード発売で糊口をしのいでいましたが(母堂と夫人が家計を支えていました)、モンクと専属契約していながら仕事を干していたプレスティッジ・レコーズから、モンクの大ファンであるジャズ批評家オリン・キープニーズが経営していたリヴァーサイド・レーベルに移籍した1955年からアルバムの評価も高まり始めました。キープニーズはモンクの契約解除に伴う違約金までプレスティッジに支払って自社に迎え、プレスティッジ同様社長が一人で運営している弱小インディーズながら全力でモンクの新作のプロモートに勤め始めます。キープニーズはまずモンクのエキセントリックな自作曲は後回しにして、エリントン曲集『Thelonious Monk Plays the Music of Duke Ellington』(1955年録音)とオーソドックスなスタンダード集『The Unique Thelonious Monk』(1956年録音)の2組のピアノ・トリオ・アルバムを制作発売し、それらの好評を受けて制作された2管クインテット編成の、短いソロ・ピアノ以外は全曲オリジナルによる意欲作『ブリリアント・コーナーズ(Brilliant Corners)』(1956年録音)の発表で飛躍的に評価が高まり、ソロ・ピアノ集『Thelonious Himself』(1957)の頃にはジャズ界最注目ミュージシャンになっていました。モンクは20歳頃には若手ジャズマンとして頭角を現し、コールマン・ホーキンス(テナーサックス・1904-1969)らのバンドを経てブルー・ノート社から自作曲でデビューしたのは1947年でしたが、それから10年、40歳にしてようやくその実力を認められたことになります。

 その後セロニアス・モンクはリヴァーサイド社から一連の傑作アルバムを発表、1962年には全米レコード会社最大手のコロンビア・レコーズに移籍してニューヨークから全国区に進出し、週刊誌『タイム』の表紙を飾った4人目のジャズマンにもなりました(モンク以前にはルイ・アームストロングデューク・エリントンデイヴ・ブルーベックのみで、モンクの後にはウィントン・マルサリスしかいません)。メジャーのコロンビアでモンクに求められたのは、インディー・レーベルのブルー・ノート、プレスティッジ、リヴァーサイドで発表してきたレパートリーの網羅的な再録音が優先され、新曲はアルバム毎に1、2曲、というものでした。モンクの名声を高めたのはリヴァーサイド時代のアルバムであり、コロンビア時代のアルバムは円熟期のモンクを示すものでしょう。リヴァーサイド時代のアルバムをリストにしてみます。

1. Thelonious Monk Plays the Music of Duke Ellington (1955)
2. The Unique Thelonious Monk (1956)
3. Brilliant Corners (1956 recording with Sonny Rollins, Ernie Henry and Clark Terry)
4. Thelonious Himself (unaccompanied solo piano, 1957)
5. Monk's Music (1957, with Coleman Hawkins, John Coltrane and Art Blakey)
6. Mulligan Meets Monk (1957, with Gerry Mulligan)
7. Thelonious in Action (1958, live at the Five Spot with Johnny Griffin)
8. Misterioso (1958, live at the Five Spot with Johnny Griffin)
9. The Thelonious Monk Orchestra at Town Hall (1959, Charlie Rouse joined the band then)
10. 5 by Monk by 5 (1959, with Thad Jones)
11. Thelonious Alone in San Francisco (unaccompanied solo piano, 1959)
12. Thelonious Monk at the Blackhawk (1960, with Harold Land and Joe Gordon)
13. Thelonious Monk with John Coltrane (1957 recordings, 1961 issue) – Inducted into the Grammy Hall of Fame in 2007.
14. Monk in France (recorded in 1961)
15. Thelonious Monk in Italy (recorded 1961, released 1963)

 上記リストのうち13と14、15はモンクのコロンビア移籍が決定してからの発売で、14と15は新作の録音を拒否したモンクのマネジメント側(マイルス・デイヴィスと同じハロルド・ラベット)がヨーロッパ公演のライヴ録音を契約満了のためリヴァーサイド社に送りつけてきたものでした。キープニーズは直接モンクと新作の交渉をしようとしましたが、モンクはすべてをコロンビアとの契約を取りつけてきた敏腕マネジャーに任せきりにしてリヴァーサイド社に見切りをつけました。しかしリヴァーサイド社には最後の切り札がありました。それが未発表録音集『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』で、発表は1961年10月上旬ですが、録音された1957年にはまだマイルスやモンク門下の新進有望テナー奏者程度の認知度だったジョン・コルトレーンは、1961年10月にはマイルスやモンクと並ぶ一流ジャズマンとして時の人になっていました。

 1959年8月発売のマイルス・デイヴィス『Kind of Blue』への一時参加を最後にマイルスのバンドから独立したコルトレーンはアトランティック・レコーズから『Giant Steps』(1960年1月発売)、『Coltrane Jazz』(1961年2月発売)、『My Favorite Things』(1961年3月発売)と話題作を連発、特に『My Favorite Things』はタイトル曲が異例のシングル・ヒットとなります。アトランティックはワーナー・ブラザース社傘下の黒人音楽レーベルでしたが、コルトレーンの人気に目をつけた大手のABCパラマウント社は新しく設立したジャズ・レーベルのインパルス!にコルトレーンを看板アーティストとして迎えます。そのインパルス移籍第1作『Africa/Brass』は鳴り物入りで61年11月に発売されました。お蔵入りになっていた4年前の録音とはいえ、『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』は1961年10月に発売されるや全ジャーナリズムからジャズ史に残る名盤とされ、以来その評価は揺るぎなく、2007年(録音50周年)にはグラミー賞の殿堂入りアルバムに表彰されました。

 冒頭で触れたモンクのクラブ出演謹慎処分は、リヴァーサイドからのアルバムの好評や批評家や組合員の働きかけで1957年にようやく解除されました。モンクはテナーサックス+ピアノ・トリオのカルテット編成を望んでいました。その頃ジョン・コルトレーンは1955年から加入していたマイルス・デイヴィスのバンドをクビになっていました。コルトレーンがマイルスのバンドの在籍中に、コルトレーンが楽屋でマイルスに鉄拳制裁を受けている現場にたまたま訪ねてきたモンクが割って入り、マイルスのバンドなんか辞めて自分のバンドに来い、と誘った経緯もありました。これはマイルス自身が晩年の自伝で証言しています。マイルスの鉄拳制裁はコルトレーンの酒癖が悪く、飲酒してステージに上がるからでしたが、コルトレーンは禁酒してモンクのカルテットに加入することになり、7月に始まった週6日のクラブ出演はモンク人気の上昇とジャズ雑誌や一般誌からの大絶賛で飛び飛びに12月までの半年のロングラン公演になりました。コルトレーンもこの間に初リーダー作『Coltrane』をプレスティッジ・レコーズからリリースしており、マイルスのカルテットではまだ力量について評価の定まっていなかったコルトレーンも、モンクのカルテットでようやく有望な新進テナーとの定評を得ました。

 リヴァーサイドのキープニーズは当然このカルテットのスタジオ録音を企画しましたが、アルバム半分相当になる3曲を録音したもののコルトレーンが参加を渋りました。コルトレーンはプレスティッジとの専属契約があり、先約には57年9月に録音予定のブルー・ノート社とのワンショット契約アルバム『Blue Trane』もあって、『Blue Trane』はプレスティッジの拙速セッションではできないオリジナルで固めた勝負作でもありました。プレスティッジは曲の著作権まで買い取りだったので、コルトレーンはあえてプレスティッジではオリジナル曲を録音せず移籍後までストックしていたほどです。アトランティック移籍後はコルトレーンはほぼ毎回オリジナル曲で固めたアルバム制作に移り、スタンダード曲は狙いを定めたものしか取り上げなくなります。翌1958年にはマイルスは再びコルトレーンを呼び戻したので、モンクはリヴァーサイド専属のジョニー・グリフィン(元ジャズ・メッセンジャース)をテナーに迎えましたが、その頃には1957年のコルトレーン入りカルテットの演奏は伝説化しつつありました。

 1993年にコルトレーン元夫人の録音したライヴ・テープが発見されましたが、当初1957年夏の録音とされた同ライヴは1958年のステージでグリフィンの代役にコルトレーンが参加したものと判明しました。2005年には国会図書館の記録テープでカーネギー・ホールの黒人音楽祭に1957年のモンク・カルテットが出演したライヴが発見されました。どちらも発見されてすぐにCD発売されましたが、前者は1958年メンバー、後者はクラブ出演とは大きく異なる演奏環境で、1957年カルテットのクラブ出演の衝撃的(だったらしい)演奏を伝えるものとは言えません。1957年のコルトレーン入りモンク・カルテットが正式にスタジオ録音したのは日付不明の57年7月の3曲、この「Ruby, My Dear」「Trinkle, Tinkle」「Nutty」の本作収録ヴァージョンしかありません。曲はいずれもモンク自身のピアノ・トリオで初演されていた既成曲で、「Ruby~」は1947年にブルー・ノート、「Trinkle~」は52年・「Nutty」は54年にプレスティッジに録音されていました。「Nutty」は主旋律と副旋律が応答するテーマなのでピアノ・トリオよりもテナーサックス入りの方がキャッチーですが、1958年のライヴ盤『Misterioso』のジョニー・グリフィンのくつろいだ演奏に較べるとコルトレーン参加時のヴァージョンは生硬に聞こえます。またテーマ・メロディーにも変更が見られます。「Trinkle~」の打楽器的テーマはテナー入りよりピアノ・トリオの方が自然で、テナー入りのヴァージョンはライヴならともかくスタジオ録音では、テナーとピアノがもつれあう無茶なテーマ・アンサンブルを楽しむような、まだよく練れているとは言えないアレンジです。

 このアルバムは3曲ではアルバムにならないので、コルトレーンも参加した1957年6月録音の『Monks Music』セッションからの没テイクが「Off Minor」と「Epistrophy」の2曲足してあります。同アルバムはオールスター・セッションでトランペット、アルトサックス、2テナーの4管セプテットですが、テナーサックスの父ことモンクの青年時代のボスでもあるコールマン・ホーキンスをフィーチャーしており、「Off Minor」はコルトレーンのソロはありません。「Epistrophy」はコルトレーンの先発ソロの直後に中断した没テイクを、完奏テイクにつなげて編集したテイクが収められています。『Monk's Music』にもホーキンスの1ホーンで「Ruby, My Dear」が収められており、本作収録のコルトレーン版の同曲と比較すると新旧世代ならではの違いを楽しめます。それでも収録時間が短いので、本作にはソロ・ピアノ作品『Thelonious Himself』1957から1曲、モンクの自作ブルース「Functional」の未発表のテイク1を加えています(つまりこの曲ではコルトレーン不参加です)。通常ブルースはAAB=12小節かAAB+AAB=24小節ですが「Functional」はAAB+A'A"B'=24小節と異なるブルース2曲を合体させた作りで、事前に作曲されていない即興ブルースと思われます。よって展開の練れたテイク2が『Thelonious Himself』に採用されていました。テイク1でも同一のAABが反復されないブルース、というこの曲の中心になっているアイディアは十分にわかります。

 以上のような別々のアルバム用の3セッションからの未発表曲の寄せ集めアルバムが本作で、リヴァーサイド社も遠慮してサブ・レーベルのジャズランドからリリースしたほどなのですが、ひょっとしたら数あるリヴァーサイドでの傑作もブルー・ノート、プレスティッジ、コロンビアの全時代のモンク作品でも屈指の高評価、ジャズ史の里程標的名作とされているのは、やはりコルトレーン入りカルテットの唯一の公式録音がアルバムの核になっているからでしょう。カルテット録音に先立つ『Monk's Music』はコルトレーン参加とはいえホーキンスとアート・ブレイキーがフィーチャーされ、才人ジジ・グライス(アルトサックス)とレイ・コープランド(トランペット)による4管アレンジが聴きどころのアルバムでした。その『Monk's Music』ではコルトレーンのソロが聴けるのは「Epistrophy」だけなので、この別テイクでも「Off Minor」ではコルトレーンはテーマ・アンサンブルのみの演奏です。逆に「Epistrophy」は前述の通り中断テイクを編集でつないだもので、この別テイクではホーキンスのソロはありません。完奏テイクは『Monk's Music』で聴けますが、この曲はプレイヤー泣かせの難曲のためホーキンス、ブレイキー、何より率先してモンク自身がコード進行を見失ってしまって大変な演奏になっており、かえってコルトレーンが正確に小節構成を押さえた冷静な演奏を聴かせてくれます。オリジナル・アルバムというより没テイクのコンピレーションである本作が録音50周年を記念したグラミー賞の殿堂入りアルバムを表彰されたのは、モンクとコルトレーンの業績を改めて讃えたい現代ジャズ界からの声が反映されたのでしょう。本作を殿堂入りさせればモンクとコルトレーンまとめて表彰できるという割と都合の良い受賞だったと思われます。確かにモンクとコルトレーンから学んでいないジャズマンなど今では考えられませんが、それはあくまでProfessional Ratingであり、ビ・バップ系列のモダン・ジャズはポピュラー音楽全般でもごく一部のリスナーにしか聴かれていない、という現状があります。この拾遺集アルバムはモンクを聴くにもコルトレーンを聴くにも食い足りない落ち穂拾い的作品ですが、その力みのなさにかえって親密な味わいがあり、モダン・ジャズの心の故郷みたいなのどかさがあります。テナーサックスのソロのバックではほとんどピアノを弾かないモンク・カルテットのスタイルはもう出来上がっています。このカルテット録音が日付不明なのはリハーサルを兼ねたテスト録音だったからとも推定され、コルトレーンのプレスティッジとの契約上、リヴァーサイド社のキープニーズも録音当初はアルバム・リリースを諦めていたようです。本格的にリリース前提でセッションが組まれたらさらに2~3曲が録音され、本作収録分の3曲も複数テイクが録音されたとしても、雰囲気はかなり異なっただろうと想像されます。だとしたら本作にはリハーサル録音や没テイクならではの好ましい緩さがあり、時たま聴き返すたびに拍子抜けするのも本作ならではの愛嬌かもしれません。

(旧稿を改題・手直ししました)

堀川正美「新鮮で苦しみおおい多い日々」(詩集『太平洋』昭和39年=1964年刊より)

『太平洋 詩集 1950-1962』思潮社 ・昭和39年=1964年刊
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『堀川正美詩集 1950-1977』れんが書房新社・昭和53年=1978年刊
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(堀川正美<昭和6年=1931年2月17日生~>)
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新鮮で苦しみおおい日々

堀川正美

時代は感受性に運命をもたらす。
むきだしの純粋さがふたつに裂けてゆくとき
腕のながさよりもとおくから運命は
芯を一撃して決意をうながす。けれども
自分をつかいはたせるとき何がのこるだろう?

恐怖と愛はひとつのもの
だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。
精神と情事ははなればなれになる。
タブロオのなかに青空はひろがり
ガス・レンジにおかれた小鍋はぬれてつめたい。

時の締切まぎわでさえ
自分にであえるのはしあわせなやつだ。
さけべ、沈黙せよ。幽霊、おれの幽霊
してきたことの総和がおそいかかるとき
おまえもすこしぐらいは出血するか?

ちからをふるいおこしてエゴをささえ
おとろえてゆくことにあらがい
生きものの感受性をふかめてゆき
ぬれしぶく残酷と悲哀をみたすしかない。
だがどんな海へむかっているのか。

きりくちはかがやく、猥褻という言葉のすべすべの斜面で。
円熟する、自分の歳月をガラスのようにくだいて
わずかずつ円熟のへりを噛み切ってゆく。
死と冒険がまじりあって噴きこぼれるとき
かたくなな出発と帰還の小さな天秤はしずまる。

(詩集『太平洋 1950-1962』思潮社 ・昭和39年=1964年刊より)

◎堀川正美

 堀川正美(ほりかわまさみ、昭和6年=1931年2月17日生~)は、日本の詩人。男性。東京生まれ。早稲田大学文学部露文科中退。1954年水橋晋、江森國友、三木卓らと『氾』を創刊。1961年『現代詩』編集委員。64年詩集『太平洋』を発表。71年、詩集『枯れる瑠璃玉』で第1回高見順賞候補。吉増剛造はじめ多くの詩人に影響を与えたが、1979年の『詩的想像力』以降は執筆活動から離れた。

◎著書

『太平洋 詩集 1950-1962』思潮社 1964
『枯れる瑠璃玉 詩集1963-1970』思潮社 1970
『堀川正美詩集』思潮社 現代詩文庫 1970
『現代詩論 4 (谷川雁,堀川正美)』晶文社 1972
『堀川正美詩集 1950-1977』れんが書房新社 1978
『詩的想像力』小沢書店 1979
(ウィキペディアより)

 この堀川正美(1931-)の第1詩集『太平洋』1964からの一篇は戦後現代詩屈指の傑作として揺ぎない評価を得ていますが、現代詩に興味のない人にはさっぱり知られていない詩人でしょう。数年前まではウィキペディアにすら載っていなかった詩人です。ですが詩の世界では絶大な尊敬を得ている詩人でもあります。詩集『大平洋』はヴォリュームも内容も巨大なスケールを誇り、日本の現代詩でも孤立した巨峰といえる戦後詩の伝説的古典です。この詩人は寡作で第2詩集『枯れる瑠璃玉』1970、第3詩集(全詩集)『堀川正美詩集』1978と詩論集「詩的想像力」1979の後は40年あまり沈黙を守っています。ハート・クレイン、ディラン・トマスなどの英米モダニズムの夭逝詩人に影響を受けた人ですが、事実上、自らも詩的夭逝を選んだ人でもありました。外国語的(翻訳詩的、いわゆる欧文脈的)な比喩や文体が好悪や評価を分けるかもしれませんが、詩誌「荒地」の詩人、ことに鮎川信夫の詩法が現代詩に定着し、鮎川の「繋船ホテルの朝の歌」(昭和24年=1949年)に見られる暗喩(メタファー)の詩的技法が頂点に達したものと見ることができるのがこの「新鮮で苦しみおおい日々」です。

 この「新鮮で苦しみおおい日々」は初出誌をつまびらかにしませんが、「繋船ホテルの朝の歌」の発表翌年から堀川正美の詩作発表は始まっているので、1950年代~1960年代の日本の現代詩=戦後詩は一方に鮎川信夫、他方に『僧侶』(昭和33年=1958年)の吉岡実を据え、背景に室生犀星西脇順三郎金子光晴三好達治ら長老詩人たちの旺盛な詩業を置いて喩法を確立したとも言えます。堀川の場合、第1詩集の刊行は30代半ばと遅れたものの、『太平洋』は第2詩集『枯れる瑠璃玉』や第3詩集(全詩集)『堀川正美詩集』の新詩集分と較べると詩集3~4冊分の大冊なので、鮎川に代表される戦後詩の詩的技法をあまりに強く第1詩集で達成したために寡作と絶筆が早く訪れたとも思えるので(『枯れる瑠璃玉』や『堀川正美詩集』の新詩集分では喩法のミニマル化、短詩化が目立ちます)、それが堀川正美を戦後詩から出発した世代のもっとも優れた代表的詩人にもしていれば、堀川より10歳あまり年長で戦前すでにモダニズム詩から出発していた鮎川信夫吉岡実よりも柔軟な発展を欠き、早く筆を折る結果になったのは惜しまれてなりません。また40年来新作を発表しない堀川が未発表のまま詩作を続けているとすればその内容は予測もつかないので、沈黙によって現役詩人としての存在感を保っているとも言える稀有な詩人でもあります。それが「新鮮で苦しみおおい日々」の延長上にある詩なのか、それともまったく一変した作風なのか、40年あまり前の全詩集『堀川正美詩集』と全批評集『詩的想像力』を持ってしても堀川正美の詩業が残した詩的可能性はまだ完結していないのです。

(旧稿を改題・手直ししました)

ラゴーニア Laghonia - グルー Glue (MaG, 1969)

ラゴーニア Laghonia - グルー Glue (MaG, 1969)

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ラゴーニア Laghonia - グルー Glue (MaG, 1969) Full Album : https://youtu.be/eP-4tgUYXJQ
Se solte por Discos MaG LPN-2403, 1969
Todas las canciones escritas y arregladas por Laghonia.

(Lado A)

A1. Neighbor - 3:20
A2. The Sand Man - 3:24
A3. Billy Morsa - 4:16
A4. Trouble Child - 2:48
(Lado B)
B1. My Love - 4:50
B2. And I Saw Her Walking - 3:18
B3. Glue - 3:14
B4. Bahia - 4:24

[ Miembros ]

Saul Cornejo - guitarra, piano, voz primer
Davey Levene - guitarra primer, coros, voz primer (A1,B2)
Eddy Zarauz - bajo
Carlos Salom - organo, piano (A2)
Manuel Cornejo - bateria, vibes (A3,B2)
Alex Abad - percussion

(Reissued "Glue" LP Liner Cover & Original Lado A Label)

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「1967年に結成、翌1968年デビューしたペルーのロック・バンド、トラフィックサウンドは1972年の解散までに4枚のアルバムを残しました。シングル6枚・12曲のうちアルバム未収録曲が6曲あります。アルバムはいずれも1990年代半ばまではペルー国内盤のみで再発されていましたが、1990年代末からようやくアメリカ、イギリス、イタリアのサイケデリック・ロック復刻レーベルから国際的に紹介され、再評価が高まるようになりました。」
[ Traffic Sound Album Discography ]
1. A Bailar Go Go (Discos MaG, 1969)
2. Virgin (Discos MaG, 1970)
3. Traffic Sound (a.k.a. III) (a.k.a. Tibet's Suzettes) (Discos MaG, 1971)
4. Lux (Discos Sono Radio, 1972)

 というのがつい先日、トラフィックサウンドのアルバムをご紹介した時の要約になります。ペルーにロックがあったと知って驚かない人でも、実際ペルーのバンドの名前をいくつも上げられ、主要なアルバムは当然聴いているという方もいらっしゃると思いますが、これほどオリジナリティがあって質の高いロックがペルーにあったとつくづく思わせるのがトラフィックサウンドの諸作です。特にセカンド・アルバム(1は英米ロックのカヴァー・シングル集なので、全曲オリジナルの実質的ファースト・アルバム)『ヴァージン(Virgin)』が素晴らしく、同じ名称のイギリスのロック・レーベルがありますが、同日の談ではないほど瑞々しいアルバムです。これだけの作品が単独で出てくるわけがないからペルーのロック遺産は相当なものと推測されます。なにしろ元インカ帝国なのです。しかし南米のロックは最大の大国ブラジル、次いでアルゼンチンと、もともとスペインとアメリカ合衆国との植民地紛争の土壌だったメキシコを例外に、資料がほとんどありません。

 日本の非英米圏ロック好きの人に人気が高いのは'60年代からロックが盛んだったフランス、ドイツ、イタリアで(この3国は世界三大映画祭国でもあるように、世界的な文化輸出入国です)、次いで北欧諸国、それから東欧と南欧諸国といったところで、南米大陸ラテンアメリカ全体の首都ともいうべきブラジルとアルゼンチンか、アメリカと接していることもあってメキシコに集中しています。また'60年代~'70年代に至っても政情不安定な国が多かったのも、国際的知名度の高いアーティストが生まれない原因になっていたでしょう。世界的に最大の成功をおさめた南米出身のポピュラー音楽アーティストは、メキシコ移民のカルロス・サンタナです。しかしサンタナの音楽はロサンゼルスの音楽産業規格にチューンナップされたもので、アメリカ人のイメージする架空のラテン・ロックとして生まれたものでした。サンタナ一家がメキシコからカリフォルニアに移住してきたのがカルロス15歳の時ですが、カルロスの父ホセはメキシコ時代から観光客相手のマリアッチのバンドでヴァイオリン奏者をしており、サンタナの音楽がメキシコを出自としてもそれはいわば観光客向け、輸出商品としてのラテン・ロックでした。サンタナの場合はそれでいいでしょう。ですがトラフィックサウンドはペルー人のバンドがペルー人リスナーのためにやっているロックだったことにアイディンティティがありました。

 トラフィックサウンドについて調べ、いくつかのペルーのロックのコンピレーション盤を聴くと、ウィ・オール・トゥゲザー(We All Together)、またその前身のラゴーニア(Laghonia)というバンドがトラフィックサウンドと同格に位置づけられています。手持ちのコンピレーションで聴くと、ウィ・オール・トゥゲザーはビートルズ(特にポール・マッカートニー)直系のサウンドです。ウィキペディアで調べるとウィ・オール・トゥゲザーはスペイン語(ペルーの公用語。南米は元ポルトガル領で今もポルトガル公用語のブラジル以外はぜんぶスペイン領なのでスペイン語公用語)、英語、イタリア語、ノルウェー語版に載っています。トラフィックサウンドスペイン語版と英語版しか載っていません。ラゴーニアは(Laghonia=ラゴーニアという読みも発音記号を見て知った)、はスペイン語ウィキペディアのみです。要するにウィ・オール・トゥゲザーは国際進出を果たしましたが、前身バンドのラゴーニアは南米スペイン語圏でしか聴かれていないということで、とりあえずスペイン語ウィキペディアのラゴーニアの項目を全訳します。

(スペイン語ウィキペディアより全訳・前半)
●ラゴーニア
 ラゴーニア(Laghonia)は1965年にリマで結成されたロック・サイコデリコとプログレッシーヴォのバンドで、1969年に最初のアルバムを発表するまではニュー・ジャグラーサウンド(New Juggler Sound)名義で活動していた。最初のアルバムはブリティッシュ・ビート・グループからの影響が強いが、セカンド・アルバムではより実験的なサイコデリコとロック・プログレッシーヴォに向かい、バンドが解散した1971年以降の音楽的流行を先取りしていた。ペルーのロック運動が伝説化した後で、ラゴーニアのアルバムはドイツ、スペイン、アメリカ合衆国、イギリス、ペルー本国でようやく知られるようになった。

◎ラゴーニア
◎概要
ラゴーニア (Laghonia)
出身 - ペルー共和国・リマ
国籍 - ペルー共和国
音楽ジャンル - ロック・サイコデリコ Rock Psicodelico、ロック・プログレッシーヴォ Rock Progresivo、ロック・ラティーノ Rock Latino、ロック・アンド・ロール Rock and roll
活動期間 - 1965年-1971年
レコード会社 - MaG、Electro Harmonix、Lazarus Audio Products、World in Sound、Repsychled Records
交流関係 - We All Together、Jean Paul "El troglodita"、Traffic Sound
メンバー - サウル・コルネーホ Saul Cornejo (ギター、ピアノ、ヴォーカル)
デイヴィー・レーヴェン Davey Levene (ギター、コーラス)
エディー・ザラウス Eddy Zarauz (ベース、~1969年)
アーネスト・サマメ Ernesto Samame (ベース、1970年~)
カルロス・サロム Carlos Salom (オルガン)
マニュエル・コルホーネ Manuel Cornejo (ドラムス)
アレックス・アバド Alx Abdd (パーカッカッション)
カルロス・ゲレロ Carlos Guerrero (バックグラウンド・ヴォーカル、コーラス、1970~)

◎経歴
○前期 : ニュー・ジャグラーサウンド (1965年-1968年)
 バンドは1965年にギターとヴォーカルのサウル・コルネーホ、ドラムスのマニュエル・コルホーネ、ベースのエディー・ザラウスを中心に結成され、リード・ギターを探してアルベルト・ミラーを迎え、さらにロス・ジャガーズ(Los Jaguar's)からパーカッションのアレックス・アバドが加入した。バンドは新しいレパートリーと音楽性を模索してニュー・ジャグラーサウンドのバンド名で活動し、この時期にはザ・ビートルズザ・ローリング・ストーンズ、ザ・ホリーズザ・ビーチ・ボーイズ、ジ・アニマルズ、ザ・キンクス、そしてザ・ヤードバーズら、主にイギリスのバンドからの影響の強い音楽を演奏していた。彼らはまだその音楽に商業性がなかった1966年にアンダーグラウンドな活動を開始し、少数の理解者によって少しずつ受け入れられるようになっていった。1967年半ばにニュー・ジャグラーサウンドラファエロ・ヘイスティングに見出され美術展の期間中に演奏する機会を得て、新聞の三面記事に「ヒッピー、リマを侵略す」と話題を提供することになった。
 1968年6月にはシングル「Baby Baby / I Must Go」が、その3か月後には「Mil millas de amor(愛の1000マイル) / Sonrisa de cristal(微笑みの結晶)」が発売され、そのうち前者は英語詞によるものだった。シングル発売の同月末にアルベルト・ミラーがバンドを去り、リード・ギターにはエドゥワルド・ザラウスの友人のデイヴィー・レーヴェンが加入した。レーヴェンのフェンダーストラトキャスターによるサウンドとリズム・アンド・ブルースへの造詣はバンドの音楽性を大きく転換させ、ブルース色を増して、バンドはRCAレコードからMaGレコードへと移籍することになる。
◎New Juggler Sound - Baby Baby (RCA, 1968, Single-A Side) : https://youtu.be/fXRRJACvq0k
◎The New Juggler Sound - I Must Go (RCA, 1968, Single-B Side) : https://youtu.be/nt3CKx66bY8

(スペイン語ウィキペディアより全訳・後半)
◎ロック・ペルアーノ Rock Peruano(ペルー・ロック)のサイコデリコな旅 : ラゴーニア (1968年-1971年)
 1968年にMaGレコードはバンドの売り出しにかかり、「Glue / Billy Morsa」「And I saw her walking / Trouble child」そして「Bahia / The Sandman」と、3枚のシングルを発売した。バンド名がラゴーニア(Laghonia)と決まったのはこの年の後半で、彼らがもっとも影響を受けたザ・ビートルズがまもなく解散間近とのニュースにメンバーたちが悲嘆(La Agonia)に暮れたことからバンド名を決定した。また、バンドはジャズとブラジル音楽に詳しいキーボード奏者のカルロス・サロムを迎えてハモンド・オルガンを使用した「Neighbor」と「My love」で新機軸を生み出す。そしてMaGからニュー・ジャグラーサウンド名義で発表していた前記シングル3枚の6曲をカルロス・サロム加入後に再録音し、ラゴーニア名義の初のアルバム『Glue』1969の全8曲が完成した。
 ラゴーニアは当時のペルーはおろかラテンアメリカ全体でもハモンドB-2オルガンをレコーディングに使用した数少ないバンドだった。この新しい方向性で録音された1970年5月のシングル「World full of nuts / We all」は話題を呼び、驚異的なサイケデリコのレコードとして記憶され、狂気じみたほどに歪曲された作風の最終段階を記録したものになった。
◎Laghonia - World Full Of Nuts (MaG, 1970, Single-A Side) : https://youtu.be/mFV27au-H-E
◎Laghonia - We All (MaG, 1970, Single-B Side) : https://youtu.be/WOew60AOFVQ
 ベーシストのエディー・ザラウスは1970年に旅行のために脱退した。後任にはエルネスト・サマメが加入した。1971年に、ラゴーニアはセカンド・アルバム『Etcetera』を発表した。カルロス・ゲレロがコーラスで全面参加したこのアルバムは、ラゴーニアがヒューズのついたサイコデリコとプログレッシーヴォの複雑な混合を高いレヴェルでなしとげたもので、同時代の権威あるどんなイギリスのバンドにも匹敵するのを示すものだった。アルバム・ジャケットの表と裏を埋めつくすサイコデリコなコラージュはマニュエル・コルホーネによる。だがアルバム発表後デイヴィー・レーヴェンがアメリカ合衆国に帰国し、アレックス・アバドが別のバンドに去った後、ラゴーニアはカルロス・ゲレロをリーダーにウィ・オール・トゥゲザー(We All Together)として再デビューすることになる。

 2004年にはRepsychledレコードがMCAスタジオからマニュエル・コルホーネによってバンドの残した未発表デモ・テープ、インストルメンタル・トラック、ジャムセッションを発掘し、アルバム『Unglue』として発表した。2010年3月にはミラフロア・ペルー/イギリス文化センターで、サウル・コルネーホ、エディー・ザラウスマニュエル・コルホーネ、そしてアレックス・アバドが一時的なラゴーニア再結成コンサートを行い、メンバーの健在ぶりを示したのは記憶に新しい。

ディスコグラフィー
○シングル
・"Baby Baby" / "I must go" (RCA Victor 1967 - New Juggler Sound名義)
・"Glue" / "Billy Morsa" (MAG 1969 - New Juggler Sound名義)
・"And I saw her walking" / "Trouble child" (MAG 1969 - New Juggler Sound名義)
・"Bahia" / "The Sandman" (MAG 1969 - New Juggler Sound名義)
・"World full of nuts" / "We all" (MAG 1970)
○スタジオ録音アルバム
・Glue (MAG 1969)
・Etcetera (MAG 1971)

未発表発掘アルバム
・Unglue (MCA & Repsychled 2004)
(Original Discos MaG "Glue" LP Lado A e Lado B Label)


 以上でスペイン語ウィキペディアのラゴーニアの項目を全訳しましたが、先にトラフィックサウンドの名作『Virgin』『Traffic Sound』『Lux』を聴いている人には華やかなトラフィックサウンドに較べて全然地味じゃないか、と期待外れの思いをしたかもしれません。再発CDは全10曲入りで、ニュー・ジャグラーサウンド名義のデビュー・シングル「Baby Baby / I Must Go」で始まりますが(アルバム『Glue』本編は全8曲です)、初期メンバーのアルベルト・ミラーとサウル・コルネーホの共作のこの2曲には既視感を覚えます。日本の過小評価GSの代表格、アウト・キャストの代表曲「友達になろう」「ふたりの秘密」にそっくりなのです。アウト・キャストはメンバーのオリジナル楽曲で通したバンドでギタリストの水谷公生(当時水谷淳名義)、キーボードの樋口雄右を擁し、タイガースのアルバムの影武者録音をしていたことでも名高い実力派バンドでした。メンバーは70年代以降のポップス界でも渡辺プロ~堀プロダクションをマネジメント運営、作編曲家、スタジオ・ミュージシャンとして支える重鎮になりました。
◎アウト・キャスト - 友達になろう (テイチク, 1967, シングルA面) : https://youtu.be/UoE4-b0W-lI
◎アウト・キャスト - ふたりの秘密 (テイチク, 1968, シングルB面) : https://youtu.be/ohrXog6KfdE

 初期アウト・キャストから脱退したメンバーが結成したバンドがザ・ラブ、アルバムを1枚残して解散したアウト・キャストの後身はアダムズになったが、ザ・ラブの唯一のシングルも曲調・サウンドともにMaG移籍後のニュー・ジャグラーサウンドに酷似しています。
◎ザ・ラブ - イカルスの星 (エクスプレス, 1969, シングルA面) : https://youtu.be/Xi6bGslV_po
◎ザ・ラブ - ワンス・アゲイン (エクスプレス, 1969, シングルB面) : https://youtu.be/Oi6TFO37yVY

 ビートルズ直系の曲調、ブルース・ロック~サイケデリック・ロック期特有の特徴を持ちますがハードロックには行かないギター・サウンドなど、ラゴーニアのデビュー・アルバムは日本のGSの最良の部分と地球の反対側で同時に同じことをしていたのを示すバンドがまだあります。ザ・ビーバーズは後にフラワー・トラヴェリン・バンドのギタリストになる石間秀樹が在籍。ヤンガーズは斬新な構成が光るビート・バラード、ハプニングス・フォーのアルバム曲「東京ブーガルー」は『グルー』1曲目のダンス・ナンバー「Neighbor」と双生児と言えるものですが、リンクが引けなかったので同系統の「すてきなブーガルー」を上げます。
ザ・ビーバーズ - 君なき世界 (セブンシーズ, 1967, シングルA面) : https://youtu.be/tIfCGLHMgi8
◎ザ・ヤンガーズ - マイ・ラブ・マイ・ラブ (フィリップス, 1968, シングルA面) : https://youtu.be/_M22Mk9fYdw
◎ハプニングス・フォー - すてきなブーガルー (エキスプレス, 1968, シングルB面) : https://youtu.be/LF83TdlGyDU

 アルバム『グルー』はトラフィックサウンドの『ヴァージン』ほどのインパクトやオリジナリティはなく一聴して地味なブリティッシュ・ビート系アルバムですが、聴くほどに非英米圏ならではの歌謡センスと巧みな作曲、アレンジが丁寧な演奏に結実しているのがわかる逸品です。シングル既発売の曲を再録音した手間をかけただけはあります。名曲「And I Saw Her Walking」は'60年代モータウン・ソウル調ですがエンディングのギターの巧みにトーンを切り替えたロング・ソロが素晴らしいし、デイヴィー・レーヴェンのリード・ギターはクリーム解散後のエリック・クラプトンをポップに消化しています。また名曲「Trouble Child」も、ラヴィン・スプーンフルのデビュー全米トップ10ヒット、
◎Lovin' Spoonful - Do You Believe In Magic (Karma Sutra, 1965, Single-A Side) : https://youtu.be/JnbfuAcCqpY
 が明らかに下敷きになっていますが、パクリでは終わらない味があります。美メロのバラードA2、B1も冗長な泣きに流れず、アルバムを締めくくるB3、B4ではラゴーニア流ラテン・ロックのグルーヴ感が追求されます。こうしてみると『グルー』の良さを感じとれるかは聴き手の聴修経験次第でずいぶん違ってくるようにも思えます。一見没個性な作風が実は相当なセンスに支えられているのがじわじわと沁みてくるアルバムです。トラフィックサウンドの『バイラー・ア・ゴーゴー』と同年と思うと、日本のロックとペルーのロックの平行進化を思わずにはいられません。なお『グルー』は1968年発売説、1969年発売説、1970年発売説、1971年発売説と資料によってまちまちなのですが、トラフィックサウンドの作風の推移と照らしあわせて1969年発売説を取りました。ちなみにMaGレコードはペルーの当時の中堅メジャー・レーベルだったそうですが『グルー』のプレス枚数は300枚、売り上げは260枚だったといいます。ペルーの国内バンド需要を物語るエピソードでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)

鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」(『荒地詩集』昭和24年=1949年刊より)

(鮎川信夫<大正9年=1920年生~昭和61年=1986年没>)
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繋船ホテルの朝の歌

鮎川信夫

ひどく降りはじめた雨のなかを
おまえはただ遠くへ行こうとしていた
死のガードをもとめて
悲しみの街から遠ざかろうとしていた
おまえの濡れた肩を抱きしめたとき
なまぐさい夜風の街が
おれには港のように思えたのだ
船室の灯のひとつひとつを
可憐な魂のノスタルジアにともして
巨大な黒い影が波止場にうずくまっている
おれはずぶ濡れの悔恨をすてて
とおい航海に出よう
背負い袋のようにおまえをひっかついで
航海に出ようとおもった
電線のかすかな唸りが
海を飛んでゆく耳鳴りのようにおもえた

おれたちの夜明けには
疾走する鋼鉄の船が
青い海のなかに二人の運命をうかべているはずであった
ところがおれたちは
何処へも行きはしなかった
安ホテルの窓から
おれは明けがたの街にむかって唾をはいた
疲れた重たい瞼が
灰色の壁のように垂れてきて
おれとおまえのはかない希望と夢を
ガラスの花瓶に閉じこめてしまったのだ
折れた埠頭のさきは
花瓶の腐った水のなかで溶けている
なんだか眠りたりないものが
厭な匂いの薬のように澱んでいるばかりであった
だが昨日の雨は
いつまでもおれたちのひき裂かれた心と
ほてった肉体のあいだの
空虚なメランコリイの谷間にふりつづいている

おれたちはおれたちの神を
おれたちのベッドのなかで締め殺してしまったのだろうか
おまえはおれの責任について
おれはおまえの責任について考えている
おれは慢性胃腸病患者のだらしないネクタイをしめ
おまえは禿鷹風に化粧した小さな顔を
猫背のうえに乗せて
朝の食卓につく
びわれた卵のなかの
なかば熟しかけた未来にむかって
おまえは愚劣な謎をふくんだ微笑を浮かべてみせる
おれは憎悪のフォークを突き刺し
ブルジョア的な姦通事件の
あぶらぎった一皿を平らげたような顔をする

窓の風景は
額縁のなかに嵌めこまれている
ああ おれは雨と街路と夜がほしい
夜にならなければ
この倦怠の街の全景を
うまく抱擁することができないのだ
西と東の二つの大戦のあいだに生れて
恋にも革命にも失敗し
急転直下堕落していったあの
イデオロジストの顰め面を窓からつきだしてみる
街は死んでいる
さわやかな朝の風が
頸輪ずれしたおれの咽喉につめたい剃刀をあてる
おれには堀割のそばに立っている人影が
胸をえぐられ
永遠に吠えることのない狼に見えてくる

(『荒地詩集』昭和24年=1949年10月発表、『鮎川信夫詩集』昭和30年=1955年11月刊収録)


 戦後日本の現代詩屈指の一篇をご紹介します。鮎川信夫(大正9年1920年生~昭和61年=1986年没)は東京に生まれ育ち、戦前から詩作を始め、戦時中は兵役に就き、除隊後に詩誌「荒地」の中心となりました。作風はエリオット、オーデンら20世紀のイギリス詩人の影響が強く、戦前にはモダニズムの詩を指向していましたが、イギリスとモダニズム詩人同様世界大戦に直面した経験から手法的には理知的なモダニズム詩、作品の指向は非常に批評的な思想詩に向かうことになります。このブログでは明治20年代から平成初頭までさまざまな作風の詩人をご紹介してきましたが、現実の理想化でも逃避でもなく、真正面から現実を高度な修辞で作品化し、廃船の繋船ホテルでの陳腐な情事を敗戦日本の荒廃そのものとして描き出したこの一見するとリアリズムの詩が達成したのは明治以降の日本の現代詩人たちがさまざまな手法で試みて、鮎川信夫によって初めて成功したと言ってもいいほどのもので、以降の日本の現代詩は第二次世界大戦前の多くの日本の優れた詩よりも鮎川信夫を中心とした思想的文明批評詩を水準とすることになります。

 文語詩から口語自由詩までの現代詩の言語水準の進展の上で大きく明治20年代以降現在までの150年間近い現代詩史をとらえれば、鮎川信夫は現代詩の分水嶺として萩原朔太郎中原中也以上の存在です。発表当時即現代詩の古典と認知されたこの「繋船ホテルの朝の歌」がすでに72年前に書かれた詩であること、これが題材こそ敗戦後の世俗ですが文体・語彙とも最新の詩として通用するだけの鮮度と訴求力を備えていることが驚異なので、72年後、2092年にも通用する詩が現在どれだけ書かれ得るかを考えると鮎川の詩のおそるべき射程の長さがわかります。また日本の詩が乱世の時代にこそ痛烈なエピックたる詩を生み出してきた歴史を思うと、こういう詩はまたとないからこそ時代の里程標となったとも言えるかもしれません。そうした意味でも、この「繋船ホテルの朝の歌」は何度でも立ち返って読まれるだけの意義を持った詩です。ちなみに詩誌「荒地」の詩人は女性にモテる人ばかりだったようですが、「繋船ホテル~」当時の鮎川信夫は女性に冷たくすればするほどウンコにハエがたかるようにモテるタイプの色男だったようです。しかも死線を潜ってきた元軍人で都会人の大卒エリートです。掲載した30代の鮎川信夫の写真を見ると何だかわかるような気がします。

(旧稿を改題・手直ししました)

ソニー・ロリンズ&カンパニー Sonny Rollins & Co. - 橋 The Bridge (RCA-Victor, 1962)

ソニー・ロリンズ&カンパニー - 橋 (RCA, 1962)

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ソニー・ロリンズ&カンパニー Sonny Rollins & Co. - 橋 The Bridge (RCA-Victor, 1962) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PL0q2VleZJVEljT52xpNPlT2zyXvMNrvSA
Recorded at RCA-Victor Studio B, New York City, January 30 (B2) and February 13 (A2, A3, B3), 14 (A1, B1), 1962
Released by RCA-Victor LPM-2527, early april 1962

(Side 1)

A1. Without a Song (Edward Eliscu, Billy Rose, Vincent Youmans) - 7:28
A2. Where Are You? (Harold Adamson, Jimmy McHugh) - 5:10
A3. John S. (Sonny Rollins) - 7:43

(Side 2)

B1. The Bridge (Rollins) - 6:00
B2. God Bless the Child (Arthur Herzog Jr., Billie Holiday) - 7:27
B3. You Do Something to Me (Cole Porter) - 6:48

[ Sonny Rollins & Co. ]

Sonny Rollins - tenor saxophone
Jim Hall - guitar
Bob Cranshaw - bass
Ben Riley - drums
Harry "H.T." Saunders - drums (replaces Riley on "God Bless the Child")

(Original RCA-Victor "The Bridge" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 ソニー・ロリンズ(テナーサックス・1930-)は説明不要の大物ジャズマンですが、ニューヨークのビ・バップ最高潮の時期に幼なじみで同年輩のジャッキー・マクリーン(アルトサックス)やケニー・ドリュー(ピアノ)、アート・テイラー(ドラムス)らと有望少年ジャズマンとしてデビューし、バド・パウエル『Amazing Bud Powell』1951やマイルス・デイヴィス『Dig』1951への参加で早くも新鋭テナーNo.1の声望を得た早熟の天才型プレイヤーでした。ですが大胆奔放なプレイの裏には相当ナイーヴな性格があり、1952年と1955年には短期間ずつ消息不明になっていて、ロリンズを常連メンバーにしていたマイルスは52年はマクリーン、55年にはジョン・コルトレーン(テナーサックス)をロリンズの代役に起用し、その代役抜擢もマクリーンやコルトレーンが一流プレイヤーへの足がかりをつかむきっかけになりました。1956年からのロリンズはマックス・ローチクインテットのレギュラー・メンバーを兼任する一方で自己名義でも驚異的名盤を連発し、押しも押されぬモダン・ジャズ現役No.1テナーの座につき、今日に至るまでジャズのテナーサックス奏者で一番偉い人の筆頭株に上げられています。唯一その座が揺らいだのは爆発的創造力を示したジョン・コルトレーンの晩年期(1959年~1967年)であり、コルトレーン没後はウェイン・ショーター(1933-)、ジョー・ヘンダーソン(1937-2001)がNo.2、No.3といったポジションでしたが、キャリアの長さ、多産さ、スター性、ポピュラリティでロリンズを上回るモダン・ジャズのテナーマンはデクスター・ゴードン(1923-1990)、スタン・ゲッツ(1927-1991)の歿後は長命な先輩奏者のユーゼフ・ラティーフ、ベニー・ゴルソンなど別格的なヴェテランだけになりました。20代後半には巨匠となっていたロリンズはさらに1959年春~1961年秋と1969年冬~1971年の2回、完全な音楽活動休止期間がありました。1969年冬~1971年の活動休止は休養が目的でしたが、1959年春~1961年秋は音楽的な模索が原因のトレーニングのための隠棲でした。隠棲期間はブルックリン橋の上で練習していたのが話題になっていたことから、ひさびさのカムバック・アルバムである本作は『橋(The Bridge)』とタイトルがつけられました。

 本作を愛聴してきた人には掲載した曲目データとリンクに引いた音源リストに違和感を感じる人もいるでしょう。現行の輸入CDもそうですが、オリジナル盤初回プレスLPからこのアルバムはアメリカ盤と国際規格では上記の通りの曲順で、日本盤の初回盤もアメリカ盤と同一でした。それがいつからか日本盤では以下のように曲順が変わり(日本独自の改変か、アメリカからのマスターが改変されたかはわかりません)、CDでも21世紀のリマスター盤でオリジナルの曲順に戻されるまで、日本盤ではLPでもCDでも1990年代のリリースまでは『橋』は長い間異なる曲順で発売され愛聴されてきました。全6曲の曲目は同じなのですが、このアルバムは曲順だけで相当印象が違ったものになります。旧来の日本盤はLPもCDも以下の通りの曲順でした。
(Side 1)
A1. ゴット・ブレス・ザ・チャイルド
A2. ジョン・S
A3. ユー・ドゥ・サムシング・トゥ・ミー
(Side 2)
B1. ホエア・アー・ユー
B2. ウィザウト・ア・ソング
B3. 橋

 改編された曲順ではビリー・ホリデイ作のバラードA1の印象が強いので、アイク・ケベック(テナーサックス・1918-1963)のやはりピアノレス・ギタートリオ作品『Blue & Sentimental』63.6(録音61年12月)を連想するようなムードです。このビリーの曲はジャズマンによるオリジナル曲がスタンダード化した楽曲として多くのカヴァー・ヴァージョンを生んでおり、楽曲そのものが素朴な感動を呼ぶ名曲ですからよほどのしくじりさえなければ聴きごたえはありますが、逆にビリーのオリジナル・ヴァージョンを超えるヴォーカル・ヴァージョンは難しく、エリック・ドルフィー無伴奏バス・クラリネット演奏(1961年7月)ほど強力な再解釈がされないと原曲を離れられない名曲ならではの弊もありました。本作のカルテットはアドリブを一切排してテナーサックス+ギタートリオだけでストレートなテーマ演奏に徹しており、それだけで十分にビリーのオリジナル・ヴァージョンとも、デフォルメの限界まで行ったドルフィー版とも拮抗する美しいヴァージョンを生み出しています。

 このアルバム『橋』のキーパーソンは素晴らしいギタリストのジム・ホール(1930-2013)でした。ロリンズとホールとの共演は本作と次作『ドント・ストップ・ザ・カーニバル(What's New?)』1962だけですが、ロサンゼルス出身の白人ギタリストのホールはそれまで在籍したチコ・ハミルトン・クインテットやハンプトン・ホウズ・カルテットで、人種混交都市ロサンゼルスならではの多人種混交バンドで多様なスタイルに対応する幅広いアプローチを体得していました。リズム・セクションのメンバーがいないジミー・ジュフリー・トリオ時代(1956年~1959年)で見せた驚異的なプレイ(「おかげで禿げちゃったよ」というのがホールの自虐ギャグでした)でトップ・ギタリストになったホールは、やはり白人ながら人種混交バンド経験者ピアニストのビル・エヴァンスと並ぶ1960年代初頭の最先端ジャズマンと評価されました。実際ホールとエヴァンスは共演も多く、デュオ・アルバムの名盤もあり、共演ミュージシャンの好みも共通しています。もっとも堅実な性格のホールに対してエヴァンスの私生活は滅茶苦茶で、家賃滞納でアパートを追い出され一文無しで路上で泣いていたエヴァンスをホールが居候させたという涙ぐましいエピソードもあります。

 ロリンズの『橋』への参加はホールの名声を決定的なものにし、以降ホールはアート・ファーマー(トランペット)、ポール・デスモント(アルトサックス)らのバンドを経てリーダー・ミュージシャンになりますが、エヴァンスを別にすればホールの参加作はピアノレスが前提で、しかもワンホーン・アルバムの企画がほとんどでした。ホールのギターは第2ホーンの役割とピアノの役割を同時に求められたことになり、ホーン奏者のバックアップではおそろしいほど耳が良く、ホーン奏者のアドリブに対して最適なシングル・ラインやコードを即座かつ最小限に提示するという小憎らしいほど達者なプレイを易々とやってのけていました。それは『橋』を聴いてもすぐわかります。ホールとの共演が次作までになったのはまさにホールが有能すぎたためで、本来ロリンズのアドリブはもっと行き当たりばったりに聴こえてくる(そして聴き終えると見事に構成されているのがわかる)のが普段の調子なのですが、ホールのサポートがあまりに達者なためにまったく破綻がなく、ロリンズとしてはアルバム2枚でホールとはやり尽くしてしまったのでしょう。たまにホールが予測してくり出したコードからロリンズが外れるとロリンズ側のミストーンに聴こえるのも面白いのですが、そんなところもアルバム2枚でロリンズには先が見えてしまったらしく、ホールとの次作『ドント・ストップ・ザ・カーニバル』も本作に勝るとも劣らないポップで楽しいジャズ・サンバ・アルバムの快作なのですが、ホールとの共演のあとロリンズはオーネット・コールマン・カルテットのドン・チェリー(トランペット)と組んだカルテットで一直線にフリー・ジャズに進むのです。

(旧稿を改題・手直ししました)

尾形龜之助詩集『雨になる朝』(昭和4年=1929年刊)後編

尾形龜之助第2詩集『雨になる朝』

昭和4年(1929年)5月20日・誠志堂書店刊/著者自装・ノート判54頁・定価一円。
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 今回は尾形亀之助の第2詩集『雨になる朝』(全48篇・昭和4年=1929年)から詩集後半の24篇をご紹介します。今回のセクションの詩集中盤には特に短い詩ばかりで、長めの詩の多い宮澤賢治や逸見猶吉ならば1編で中盤12編を合わせたよりも長い行数になるでしょう。これは極端な短詩で印象派的効果を狙った北川冬彦安西冬衛らのモダニズム詩人らとも異なる発想によるものなのは明瞭で、実験的意図に由来するものではありません。

 尾形亀之助の戦後の包括的な再評価は創元社の「全詩集大成・現代日本詩人全集」全15巻の第12巻「草野心平高橋新吉八木重吉中原中也尾形亀之助・逸見猶吉集」(昭和29年=1954年4月刊)に『色ガラスの街』『雨になる朝』『障子のある家』の全3詩集が採録されたのが最初になります。この第12巻は「歴程」詩人集なのが人選からも明らかで、通常「歴程」の詩人とは限定されない中原がこの巻に入り、生前刊行の2詩集しか採録されていないのに較べ、夭折後に歿後同人の形で遺稿を預かった八木重吉は歿後の未発表詩集までくまなく集められています。宮澤賢治の収録巻、立原道造の収録巻では歿後全集の未刊詩集まで採録されたにもかかわらず、全集の出ていた中原中也の未刊詩集が無視されているのは「歴程」の中では中原もまた一介のマイナー・ポエットと位置づけられていたということでしょう。『尾形亀之助全集』の刊行は昭和45年(1970年・思潮社)ですので、「全詩集大成・現代日本詩人全集」の時点では未刊詩集はまとめられていませんでした。

 この創元社の全集は草野心平金子光晴三好達治、村野四郎の意見を強く反映して伊藤信吉が調整したものと思われ、全巻解説も伊藤が執筆しています。伊藤は三好達治とともに萩原朔太郎の秘書を勤め、「歴程」同人の中では硬派な社会主義詩人でしたが、逸見猶吉をいち早くデビューさせるなど慧眼の批評家でもありました。詩的出発はアナーキズム詩人だったのでダダイズム系統・モダニズム系統の新たな詩的表現への理解もありました。その伊藤による尾形亀之助評は、簡略に言えばダダイズムの陥ったデカダンスという否定的評価です。伊藤は中原中也についても童謡性・小唄性に現代詩としての資格を疑っています。

 伊藤の見解は傾注するに値するものですが、詩人ではなく意外なジャンルから尾形亀之助の再評価を試みた画期的な批評が昭和44年(1969年)になって発表されました。劇作家 別役実の第1戯曲集『マッチ売りの少女/象』(同年7月刊)で、別役氏は「あとがき」として異例の「研究 それからその次へ」で尾形亀之助論をあとがきにし、尾形亀之助について論じることで自分の劇作家とのしての姿勢と方法を語っています。これは宇野浩二が第1短編集『蔵の中』で「近松秋江論」を後書きにした以来の珍しい例で、別役氏はさらに詳しく伊藤信吉の詩論集に当たって伊藤の尾形論に食いついています。この時点で別役氏が読んでいたテキストは「全詩集大成・現代日本詩人全集」の尾形亀之助集しか考えられないので、同全集の解説から伊藤信吉による尾形評価に疑問を抱いたと思われます。翌昭和45年(1970年)初の『尾形亀之助全集』が刊行されますが(1998年復刊)、それに先立ち現代日本最高の劇作家(つまり日本最高の文学者)の最初の著作に尾形亀之助論がマニフェストとして掲げられていることは注目されるべきでしょう。

 この後編で尾形亀之助詩集『雨になる朝』は全編をご紹介することになります。尾形亀之助は現代詩でもとりわけ読者に解読不可能性を感じさせる詩人で、解釈以前に茫洋としてその詩が存在しているようなとらえどころのない実在感を与えます。このような詩人の作品は実物を読むしかないありません。昭和45年(1970年)思潮社より刊行の1巻本全集は平成10年(1998年)にも復刻されていますが少部数で高価な上、古書価も安くありません。手頃なのは思潮社の「現代詩文庫・近代詩人編」第5巻の『尾形亀之助詩集』で、生前刊行の詩集全3冊全編、詩集未収録詩編が詩集1冊分、小説・エッセイの主要なものが収録され、ほとんど全集に準じるものになっています。今回ご紹介した別役実尾形亀之助論に加え、尾形亀之助年譜と鈴木志郎康による書き下ろし解説も併載されており、ハードカヴァーの大冊の全集よりもハンディな「現代詩文庫」版の方がお勧めできます。「現代詩文庫・近代詩人編」は第1巻が北村透谷、2が釋超空(折口信夫)、3が中原中也で4が石川啄木ですから、第5巻が尾形亀之助というのも大したものだという気がします。

 尾形亀之助の詩は西行に遡る隠者の詩とも言え、散文体の文体から系譜をたどれば『徒然草』『方丈記芭蕉の紀行文など世捨人の人生観をエゴイズムの放下の心境の中で綴ったものでもあります。通常クリエイティヴな作業である創作では作者の姿勢は生の拡充に向かいますし、詩人としての北村透谷や石川啄木だってそうでしたし、尾形より年少でダダイズムから出発した中原中也ですらそうでした。ですが尾形の詩作は、まるで尻尾で足跡を消しながら去っていく小心な犬のように心情を打ち消していくものでした。生活も逝去の状況も尾形とそっくりに世を去った日本のダダイスト辻潤がいます。坂口安吾辻潤を日本のダダイズムの脆弱さを体現していたと批判しましたが、辻潤尾形亀之助を脆弱と言ってもそれは本質的な批判にはならないのです。

(尾形龜之助<明治33年=1900年生~昭和17年=1942年没>/大正12年(1923年)、新興美術集団「MAVO」結成に参加の頃)
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 暮春


私は路に添つた畑のすみにわづかばかり仕切られて葱の花の咲いてゐるのを見てゐた
花に蝶がとまると少女のやうになるのであつた
夕暮
まもなく落ちてしまふ月を見た
丘のすそを燈をつけたばかりの電車が通つてゐた


 秋日

一日の終りに暗い夜が來る

私達は部屋に燈をともして
夜食をたべる

煙草に火をつける

私達は晝ほど快活ではなくなつてゐる
煙草に火をつけて暗い庭先を見てゐるのである


 初冬の日

窓ガラスを透して空が光る

何處からか風の吹く日である

窓を開けると子供の泣聲が聞えてくる

人通りのない露路に電柱が立つてゐる


 戀愛後記

窓を開ければ何があるのであらう

くもりガラスに夕やけが映つてゐる


 いつまでも寢ずにゐると朝になる

眠らずにゐても朝になつたのがうれしい

消えてしまつた電燈は傘ばかりになつて天井からさがつてゐる


 初夏無題

夕方の庭へ鞠がころげた

見てゐると
ひつそり 女に化けた躑躅がしやがんでゐる


 曇る

空一面に曇つてゐる

蝉が啼きゝれてゐる

いつもより近くに隣りの話聲がする


 夜の部屋

靜かに炭をついでゐて淋しくなつた

夜が更けてゐた


 眼が見えない

ま夜中よ

このま暗な部屋に眼をさましてゐて
蒲団の中で動かしてゐる足が私の何なのかがわからない


 晝の街は大きすぎる

私は歩いてゐる自分の足の小さすぎるのに氣がついた
電車位の大きさがなければ醜いのであつた


 十一月の電話

十一月が鳥のやうな眼をしてゐる


 十二月

炭をくべてゐるせと火鉢が蜜柑の匂ひがする

曇つて日が暮れて
庭に風が出てゐる


 十二月

紅を染めた夕やけ

風と


ガラスのよごれ


 夜の向ふに廣い海のある夢を見た

私は毎日一人で部屋の中にゐた
そして 一日づつ日を暮らした

秋は漸くふかく
私は電燈をつけたまゝでなければ眠れない日が多くなつた


 夜

私は夜を暗い異様に大きな都會のやうなものではあるまいかと思つてゐる

そして
何處を探してももう夜には晝がない


 窓の人

窓のところに肘をかけて
一面に廣がつてゐる空を眼を細くして街の上あたりにせばめてゐる


 お可笑しな春

たんぽぽが咲いた
あまり遠くないところから樂隊が聞えてくる


 愚かなる秋

秋空が晴れて
縁側に寢そべつてゐる

眼を細くしてゐる

空は見えなくなるまで高くなつてしまへ


 秋色

部屋に入つた蜻蛉が庇を出て行つた
明るい陽ざしであつた


 幻影

秋は露路を通る自轉車が風になる

うす陽がさして
ガラス窓の外に晝が眠つてゐる
落葉が散らばつている


 雨の祭日

雨が降ると
街はセメントの匂ひが漂ふ

×

雨は
電車の足をすくはふとする

×

自動車が
雨を咲かせる

街は軒なみに旗を立てゝゐる


 夜がさみしい

眠れないので夜が更ける

私は電燈をつけたまゝ仰向けになつて寢床に入つてゐる
電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のやうに細長くなつて
その端に電車がゆはへついてゐる


 夢

眠つている私の胸に妻の手が置いてあつた
紙のやうに薄い手であつた

何故私は一人の少女を愛してゐるのであつたらう


 雨が降る

夜の雨は音をたてゝ降つてゐる

外は暗いだらう

窓を開けても雨は止むまい

部屋の中は内から窓を閉ざしてゐる


後記

 こゝに集めた詩篇は四五篇をのぞく他は一昨年の作品なので、今になつてみるとなんとなく古くさい。去年は二三篇しか詩作をしなかつた。大正十四年の末に詩集「色ガラスの街」を出してから四年経つてゐる。
 この集は去年の春に出版される筈であつた。これらの詩篇は今はもう私の掌から失くなつてしまつてゐる。どつちかといふと、厭はしい思ひでこの詩集を出版する。私には他によい思案がない。で、この集をこと新らしく批評などをせずに、これはこのまゝそつと眠らして置いてほしい。

(以上詩集『雨になる朝』昭和4年(1929年)5月20日・誠志堂書店刊、後半24篇+後記)

(旧稿を改題・手直ししました)

尾形龜之助詩集『雨になる朝』(昭和4年=1929年刊)前編

(尾形龜之助<明治33年=1900年生~昭和17年=1942年没>/大正12年(1923年)、新興美術集団「MAVO」結成に参加の頃)
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 宮城県生まれの詩人・尾形龜之助(明治33年=1900年12月12日生~昭和17年=1942年12月2日没)は明治33年(1900年)生まれで仙台で育ちました。大正10年(1921年)大学を落第、大学の後すぐに最初の結婚と上京、裕福な実家からの経済的支援を受けながらボヘミアン生活を送り、前衛美術運動への参加を経て詩作に転じ、大正14年11月に第1詩集『色ガラスの街』を自費出版して草野心平高村光太郎の知遇を得ます。最初の結婚で1男1女を得ましたが昭和3年(1928年)に離婚、翌年第2詩集『雨になる朝』を刊行、詩人仲間の女性と2人目の結婚をしましたが昭和5年(1930年)頃からは餓死自殺をしきりに吹聴し、同年8月に第3詩集『障子のある家』刊行とともに家財道具一切を処分して年末まで放浪。この第3詩集が実質的に詩との訣別になりました(その後も草野心平からの「歴程」の依頼には時折書きましたが)。翌年にはほとんどの詩人仲間と交際を絶ち、昭和7年(1932年)には仙台の実家所有の借家に陰棲します。昭和11年(1936年)までに2人目の夫人との間に3男1女を得ましたが実家の財政悪化、37歳にして初めて市役所税務課の臨時雇のサラリーマン生活を送ります。昭和16年(1941年)までには夫人の3回におよぶ出奔、また喘息、腎臓炎など数々の持病の悪化に悩まされ、実家は膨大な借財を抱え込んでいました。

 昭和17年(1942年)、尾形は持家を売却し単身下宿生活に入りますが、喘息の悪化から摂食障害に陥ります。喘息と栄養失調と全身衰弱から孤独死したのは12月2日と推定されています。日本の現代詩史的には大正末~昭和初頭のダダイズムの詩人と位置づけられていますが、典型的なダダイズム詩人とされる高橋新吉萩原恭次郎でもなければダダイズムを先取りしたとされる山村暮鳥宮澤賢治ダダイズムとの直接・間接的な類縁が草野心平中原中也、逸見猶吉らの誰とも似ない風格があります。解説めいたご紹介は詩の後に回して、全48編が収められた第2詩集『雨になる朝』を24編ずつ、前後編に渡ってご紹介します。この詩集は、先に詩人本人の肉声が聞ける「後記」をご覧いただくと入っていきやすいと思います。

後記

こゝに集めた詩篇は四五篇をのぞく他は一昨年の作品なので、今になつてみるとなんとなく古くさい。去年は二三篇しか詩作をしなかつた。大正十四年の末に詩集「色ガラスの街」を出してから四年経つてゐる。
この集は去年の春に出版される筈であつた。これらの詩篇は今はもう私の掌から失くなつてしまつてゐる。どつちかといふと、厭はしい思ひでこの詩集を出版する。私には他によい思案がない。で、この集をこと新らしく批評などをせずに、これはこのまゝそつと眠らして置いてほしい。

尾形亀之助第2詩集『雨になる朝』

昭和4年(1929年)5月20日・誠志堂書店刊/著者自装・ノート判54頁・定価一円。
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雨になる朝

尾形龜之助


この集を過ぎ去りし頃の人々へおくる

序  二月・冬日

 二月

 子供が泣いてゐると思つたのが、眼がさめると鶏の聲なのであつた。
 とうに朝は過ぎて、しんとした太陽が青い空に出てゐた。少しばかりの風に檜葉がゆれてゐた。大きな猫が屋根のひさしを通つて行つた。
 二度目に猫が通るとき私は寢ころんでゐた。
 空氣銃を持つた大人が垣のそとへ来て雀をうつたがあたらなかつた。
 穴のあいた靴下をはいて、旗をもつて子供が外から歸つて来た。そして、部屋の中が暗いので私の顔を冷めたい手でなでた。

 冬日

 久しぶりで髪をつんだ。晝の空は晴れて青かつた。
 炭屋が炭をもつて來た。雀が鳴いてゐた。便通がありさうになつた。
 暗くなりかけて電灯が何處からか部屋に來てついた。
 宵の中からさかんに鶏が啼いてゐる。足が冷めたい。風は夜になつて消えてしまつた、箪笥の上に置時計がのつてゐる。障子に穴があいてゐる。火鉢に炭をついで、その前に私は坐つてゐる。
           千九百二十九年三月記


 十一月の街

街が低くくぼんで夕陽が溜つてゐる

遠く西方に黒い富士山がある


 花

街からの歸りに
花屋の店で私は花を買つてゐた

花屋は美しかつた

私は原の端を通つて手に赤い花を持つて家へ歸つた


 雨になる朝

今朝は遠くまで曇つて
鶏と蟋蟀が鳴いてゐる

野砲隊のラツパと
鳥の鳴き聲が空の同じところから聞えてくる

庭の隅の隣りの物干に女の着物がかゝつてゐる


 坐つて見てゐる

青い空に白い雲が浮いてゐる
蝉が啼いてゐる

風が吹いてゐない

湯屋の屋根と煙突と蝶
葉のうすれた梅の木

あかくなつた畳
昼飯の佗しい匂ひ

豆腐屋を呼びとめたのはどこの家か
豆腐屋のラツパは黄色いか

生垣を出て行く若い女がある


  落日

ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる

部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる


 晝寝が夢を置いていつた

原には晝顔が咲いてゐる

原には斜に陽ざしが落ちる

森の中に
目白が鳴いてゐた

私は
そこらを歩いて歸つた


 小さな庭

もはや夕暮れ近い頃である
一日中雨が降つてゐた

泣いてゐる松の木であつた


 初夏一週間(戀愛後記)

つよい風が吹いて一面に空が曇つてゐる
私はこんな日の海の色を知つてゐる

齒の痛みがこめかみの上まで這ふやうに疼いてゐる

私に死を誘ふのは活動写真の波を切つて進んでゐる汽船である
夕暮のやうな色である

×

昨日は窓の下に紫陽花を植ゑ 一日晴れてゐた


 原の端の路

夕陽がさして
空が低く降りてゐた

枯草の原つぱに子供の群がゐた
見てゐると――
その中に一人鬼がゐる


 十二月の晝

飛行船が低い

湯屋の煙突は動かない


 親と子

太鼓は空をゴム鞠にする
でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つてゐた子をおこしてしまつた

飴売は
「今日はよい天気」とふれてゐる
私は
「あの飴はにがい」と子供におしへた

太鼓をたゝかれて
私は立つてゐられないほど心がはずむのであつたが
眼をさました子供が可哀いさうなので一緒に縁側に出て列らんだ

菊の枯れた庭に二月の空が光る

子供は私の袖につかまつてゐる


 晝

太陽には魚のやうにまぶたがない


 晝

晝の時計は明るい


 夜 疲れてゐる晩春

啼いてゐる蛙に辭書のやうな重い本をのせやう
遲い月の出には墨を塗つてしまふ

そして
一晩中電燈をつけておかう


 かなしめる五月

たんぽぽの夢に見とれてゐる

兵隊がラツパを吹いて通つた
兵隊もラツパもたんぽぽの花になつた


床に顔をふせて眼をつむれば
いたづらに體が大きい


 無聊な春

鶏が鳴いて晝になる

梅の實の青い晝である
何處からとなくうす陽がもれてゐる

×

食ひたりて私は晝飯の卓を離れた


 日一日とはなんであるのか

どんなにうまく一日を暮し終へても
夜明けまで起きてゐても
パンと牛乳の朝飯で又一日やり通してゐる

彗星が出るといふので原まで出て行つてゐたら
「皆んなが空を見てゐるが何も落ちて来ない」と暗闇の中で言つてゐる男がゐた
その男と私と二人しか原にはゐなかつた
その男が歸つた後すぐ私も家へ入つた


 郊外住居

街へ出て遲くなつた
歸り路 肉屋が萬國旗をつるして路いつぱいに電燈をつけたまゝ
ひつそり寢靜まつてゐた

私はその前を通つて全身を照らされた


 家

私は菊を一株買つて庭へ植ゑた

人が來て
「つまらない……」と言ひさうなので
いそいで植ゑた

今日もしみじみ十一月が晴れてゐる


 白に就て

松林の中には魚の骨が落ちてゐる
(私はそれを三度も見たことがある)


 白(仮題)

あまり夜が更けると
私は電燈を消しそびれてしまふ
そして 机の上の水仙を見てゐることがある


 雨日

午後になると毎日のやうに雨が降る

今日の晝もずいぶんながかつた
なんといふこともなく泣きたくさへなつてゐた

夕暮
雨の降る中にいくつも花火があがる

(以上詩集『雨になる朝』昭和4年(1929年)5月20日・誠志堂書店刊、前半24篇)


 宮城県生まれ、仙台生まれの詩人・尾形龜之助は明治33年(1900年)生まれ。大正10年(1921年)大学を落第、その後すぐに最初の結婚と上京、裕福な実家からの経済的支援を受けながらボヘミアン生活を送り、前衛美術運動への参加を経て詩作に転じ、大正14年11月に第1詩集『色ガラスの街』を自費出版して草野心平高村光太郎の知遇を得ます。最初の結婚で1男1女を得ましたが昭和3年(1928年)に離婚、翌年第2詩集『雨になる朝』を刊行、詩人仲間の女性と2人目の結婚をしましたが昭和5年(1930年)頃から餓死自殺をしきりに吹聴し、同年8月に第3詩集『障子のある家』刊行とともに家財道具一切を処分して年末まで放浪。この第3詩集が実質的に詩との訣別になりました。翌年にはほとんどの詩人仲間と交際を絶ち、昭和7年(1932年)からは仙台の実家所有の借家に陰棲します。昭和11年(1936年)までに2人目の夫人との間に3男1女を得ましたが実家の財政悪化から37歳にして初めて市役所税務課の臨時雇のサラリーマン生活を送ります。昭和16年(1941年)までには夫人の3回におよぶ出奔、また喘息、腎臓炎など数々の持病の悪化に悩まされ、実家は膨大な借財を抱え込んでいました。昭和17年(1942年)、尾形は持家を売却し単身下宿生活に入りますが、喘息の悪化から摂食障害に陥り、喘息と栄養失調と全身衰弱から孤独死したのは12月2日と推定されています。

 以上冒頭掲載した略歴の再掲載ですが、こういう詩人の作品に解説が必要かどうか迷った挙げ句、経歴自体が作品解説になると考え再掲載した次第です。尾形はダダイズムの詩人とされますが、それはダダイズムの新興美術集団「MAVO」への参加や当時主流だった象徴詩系抒情詩とはまったく反する作風によるもので、前衛美術との関わり以外尾形にアヴァンギャルドへの志向は稀薄でした。第1詩集『色ガラスの街』には多少既成の抒情詩への反抗が見られる程度です。尾形の3冊の詩集はいずれも些細な日常の断片を切り取ったものですが、『色ガラスの街』はまだ歌い上げるような調子であったものが『雨になる朝』では呟きになり、『障子のある家』は淡々とした散文詩集になります。『色ガラスの街』と『雨に、朝』では詩型や文体に一見変化がありませんが、この第1詩集と第2詩集の間に起こった決定的変化があります。『色ガラスの街』では尾形は尾形なりの詩人であろうとしていました。『雨になる朝』では尾形は自分が詩人であることも、詩そのものもすでに信じていません。

 だから第3詩集『障子のある家』が散漫な日常エッセイ集のような散文詩集であるのは当然の帰結であり、30歳をもって尾形は詩作に見切りをつけてしまいます。草野心平の「歴程」の依頼には時折エッセイや新作詩の筆を取りましたが、昔の友人たちとの内輪の近況報告のようなものです。日本の元祖ダダイスト辻潤の発狂(尾形歿後に餓死による孤独死)、『亜寒帯』の詩人で身体障害者だった石川善助の転落事故死など、在京時代の友人たちの不幸はそのまま尾形自身に起こりうる不幸でした。『雨になる朝』からご紹介する前半の今回は、詩集でも代表作で尾形の真髄をなす「親と子」「晝」「日一日とはなんであるのか」「家」「白に就て」などが含まれています。

晝の時計は明るい
 (「晝」全行)

松林の中には魚の骨が落ちてゐる
(私はそれを三度も見たことがある)
 (「白に就て」全行)

 この放心の先に予感され、待ち構えているものは何かは言うまでもないでしょう。そして尾形の生涯はその通りの道をたどりました。

(旧稿を改題・手直ししました)

ウォルター・ビショップ・Jr.・トリオ Walter Bishop Jr. Trio - スピーク・ロウ Speak Low (Jazztime, 1961)

ウォルター・ビショップ・Jr. - スピーク・ロウ (Jazztime, 1961)

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ウォルター・ビショップ・Jr.・トリオ Walter Bishop Jr. Trio - スピーク・ロウ Speak Low (Jazztime, 1961) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLmiW6Lr0S9Bcvd-oaMzojqYeon_Jox1k6
Recorded at Bell Sound Studio, NYC, March 14th, 1961
Released by Jazztime Records JT-002, 1961

(Side A)

A1. Sometimes I'm Happy (Caesar, Youmans) - 6:25
A2. Blues In The Closet (O. Pettiford) - 3:57
A3. On Green Dolphin Street (B.Kaper, Nancy Washington) - 9:45

(Side B)

B1. Alone Together (A.Schwartz) - 6:45
B2. Milestones (M.Davis) - 4:45
B3. Speak Low (K.Weil, O.Nash) - 9:20

[ Walter Bishop Jr. Trio ]

Walter Bishop Jr.- piano
Jimmy Garrison - bass
G. T. Hogan - drums

(Original Jazztime "Speak Low" LP Liner Cover & Side A Label)

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 本作はあージャズ聴いてて良かったなあ、としみじみ思わせてくれるアルバムと日本では'70年代から定評があります。ピアノ・トリオのアルバムですからまず主役のウォルター・ビショップJr.(1927-1998)を讃えますが、本作ほどチャーミングな演奏は同世代のどんなバップ・ピアニストにも聴けないものです。ビショップさんは決して二流ピアニストではなく、マイルス・デイヴィスの『Dig』1951、チャーリー・パーカーの『Plays Cole Porter』1954からジャッキー・マクリーンの『Swing, Swang, Swingin'』1959や『Capuchin Swing』1961、ケン・マッキンタイア(ウィズ・エリック・ドルフィー)の『Looking Ahead』1960まで参加している第一線のピアニストですが、ビ・バップに憧れてビ・バップ衰退期にデビューして以来一流ジャズマンと見なされたことは一度もありませんでした。10年以上地道にホーン奏者のサイドマンを勤めてきて、ようやくこのアルバムが新興弱小レーベルのJazztimeの第2弾でリリースされたのが最初のリーダー作である本作です。ちなみに同レーベル第1弾JT-001は幻のテナーマン、ロッキー・ボイドの『Ease It』で、やはりビショップさんがピアノで参加しています。

 その『Ease It』もそうですが、1970年代の日本やヨーロッパでは本場アメリカのジャズがエレクトリック化、フュージョン化する一方に不満が高まり、オーソドックスなスタイルを守り続けたヴェテランや埋もれた往年のジャズマンを再評価する動きが起きました。判官贔屓の面があったのも否めませんが、'50年代~'60年代のジャズは濫作されていた上にアメリカ本国で過小評価に甘んじてきたためそれまでアメリカ国内外でもほとんど知られなかったアルバムが膨大にあり、特に短命な弱小インディー・レーベルの作品などはよほどの輸入盤マニアしか聴きようがありませんでした。日本のジャズ雑誌でひっきりなしに「幻の名盤」特集が組まれ、それがヨーロッパにも飛び火して廃盤アルバムの復刻や、引退も同然の状態だったジャズマンのカムバック録音が行われるようになりました。この『スピーク・ロウ』は「幻の名盤」中の名盤とされ、日本発売されるや高まるだけ高まっていた期待を上回る素晴らしい内容にロングセラーを記録することになったアルバムで、今なお人気の衰えないピアノ・トリオの名盤です。

 ウォルター・ビショップ・Jr.は世代的にはハード・バップのジャズマンに足をかけていますが、キャリアのスタートがビ・バップのぎりぎり末期に間に合ったため、ハード・バップとは一線を画すビ・バップ・ピアニストとして硬派の風格があります。ビ・バップ期にデビューしたピアニストでもよりコマーシャルなハード・バップに流れて行ったジャズマンが多い中で、ビショップさんの楽歴は流行を追わずにビ・バップの牙城を守ったものでした。セロニアス・モンクバド・パウエルを継ぐバップ・ピアニストの正統として、ビショップさんはチャーリー・パーカー(アルトサックス、1920-1955)との共演を目標にしていました。しかし1953年にマイルス・デイヴィスがリーダーのセッションで、新鋭ソニー・ロリンズとの2テナー要員に現れて初共演したパーカーは泥酔状態でスタジオに現れ、10インチLP用に録音した「Compulsion」「The Serpent's Tooth」(2テイク)、「Round About Midnight」の3曲では余裕でロリンズを圧倒する演奏を見せつけたもののすでに全盛期の面影はありませんでした。この録音もパーカー没後に別セッションの追加曲とまとめられた12インチLP『Collectors' Item』1956までお蔵入りしてしまいます。

 次いで全チャーリー・パーカー・ファンにとって悪夢と名高い『プレイズ・コール・ポーター』セッションが来ます。これはパーカーのラスト・アルバムになったものですが(翌55年3月急逝)、ミュージカルの大家コール・ポーターのヒット曲集で、それまでにもパーカーは弦楽オーケストラやビッグバンドでポーターの曲を演奏していたので無難な企画になるはずでした。1954年3月に4曲、12月に2曲がパーカーのワンホーンにギター、ピアノ、ベース、ドラムスがバックの編成で録音し、3月・12月ともピアノはビショップさんが勤めましたが、内容はビショップさん自身が「長年の夢が実現するのが遅すぎた」とのちにインタビューで嘆いた通りの、大量の没テイクからOKテイクを選ぶのも困難なほどパーカー史上もっとも目もあてられない演奏でした。ビショップさんが敬愛する先輩ピアニストのモンクは相変わらず仕事を干されており、バド・パウエル精神疾患の病状に左右された不安定な活動を続けていた時期です。黒人ジャズはアドリブ勝負の実験的なビ・バップより要所要所をアンサンブルで決めて聴きやすいスタイルにしたハード・バップに主流を移しつつあり、それはビショップさんが参加したマイルス・デイヴィスの『Dig』1951セッションが先鞭をつけたものでもありました。

 このアルバムがジャズタイム・レーベルから制作・発売当時された当時には時代錯誤な作品とされたのは想像に難くありません。当時すでにセロニアス・モンクは現役最高のジャズマンとして全米的な知名度が浸透し、ビル・エヴァンスセシル・テイラーマッコイ・タイナーら新世代のピアニストが'60年代ジャズを担う人材と注目されていました。バド・パウエルはパリに移住して久しく、バド自身が初期の正統的ビ・バップからあまりに個人的なスタイルに変貌していました。このアルバムは、それこそビショップが晩年のパーカーのバックを勤めた1954年前後ぎりぎりにふさわしいモンクやバド直系のビ・バップ・ピアノ作品で、『The Genius of Bud Powell』1950-1951や『Thelounius Monk Trio』1952-1954、『Duke Jodan Trio/Jordu』1954や『Hampton Hawes Trio, Vol.1』1955と同種の音楽をやっています。ですが、やはりパーカーのサイドマン出身のジョーダンやホウズがカムバックまで極端に録音に恵まれないピアニストになったよりもさらに恵まれず、ビショップは自己名義のアルバムを制作する機会のないまま、'50年代のハード・バップ時代を仕事の乏しいサイドマン活動に費やしていました。

 だからこそこの『スピーク・ロウ』は積年の不遇に耐え抜いた末のファースト・アルバムになったのです。ビショップさんはこの頃短期間ですがベースのジミー・ギャリソン(1934-1976)、ドラムスのG.T.ホーガン(1929-2004)とはレギュラー・トリオを組んでいました。ギャリソンは1962年からジョン・コルトレーン・カルテットに1967年のコルトレーンの急逝まで在籍、ランディ・ウェストン(ピアノ・1926-2018)のレギュラー・ドラマー出身のホーガンはビショップとのトリオの後レイ・チャールズのバックバンド・リーダーのハンク・クロフォード(アルトサックス・1934-2009)のバンドに参加しました。このアルバムの素晴らしい躍動感はジミー・ギャリソンのうねりをあげるベースに依るところが大きいのですが、ホーガンはバド・パウエル、エルモ・ホープとの共演経験もあって、ベースとピアノの両者をともに立てた堅実なドラムスを聴かせてくれます。ギャリソンの最大の業績はコルトレーン・カルテットでの演奏ですが、『スピーク・ロウ』はベーシストのリーダー作と言われて聴かされても信じてしまうくらい、ベースの存在感が大きいアルバムでもあります。

 この全6曲のアルバムは、アナログ時代の再発盤でも現在流通しているCDでも「Sometimes I'm Happy」「Blues in the Closet」「Speak Low」の別テイクが入って全9テイクになっている仕様が多いのですが、「Sometimes I'm Happy」と「Blues In the Closet」はバド・パウエルの得意曲、「Alone Together」と「On Dolphin Street」はタイトル曲「Speak Low」と並んでスタンダード中のスタンダード、「Milestones」はマイルス・デイヴィスの1958年の同名アルバムのタイトル曲でマイルスのオリジナル曲と、選曲だけで親しみやすい曲が揃っている上に、ではこれらをストレートなビ・バップのピアノ・トリオのアルバムで聴けるかというと、本作以外にそう見当たりません。バド・パウエルの得意曲にあえて挑戦して独自の味を引き出すのは相当の自信がないとできませんが、ギャリソン&ホーガンの新しい感覚がうまくビショップのオーソドックスなプレイにはまって、二番煎じ的なビ・バップ演奏には陥っていないのも本作を名盤たらしめています。

 スタンダードとマイルス曲も、1961年ならビル・エヴァンスの影響を受けないでいられる若手ピアニストはいなくなっていました。エヴァンスの「Milestones」はライヴ盤『Waltz For Debby』1961のクロージング曲になっていますが、エヴァンスはモンク、バド以降最大の影響力を誇るピアニストになったのも当然と思える斬新な和声感覚、音楽の空間性を打ち出していました。ビ・バップ系統のピアノはエヴァンスに較べれば奥行きを欠いた平坦で直線的でしかないものに聴こえてしまっていた時期です。しかしモンクやバドにはそうした限界はあったかと思うと、ビ・バップ・ピアノにも豊かな空間性と柔軟な感覚があり、ビショップのピアノは淡い色彩ながらビ・バップに準拠しつつもエヴァンスの新しいスタイルに遜色ない瑞々しさをたたえています。ビショップは生涯に16枚、うち'60年代の3枚以外は'70年代以降にマイペースなアルバム発表を続けましたが、すべてはこの『スピーク・ロウ』で確立した生粋のビ・バップ・ピアニストとしての信頼感によってファンに支えられてきたジャズマンでした。これほどジャズマン本人とリスナーの絆を結んだアルバムは、ピアノ・トリオのジャズが大好きな日本にもめったにありません。

(旧稿を改題・手直ししました)

佐藤春夫詩集『我が一九二二年』全篇(大正12年=1923年刊)

(佐藤春夫<明治25年=1892年生~昭和39年=1964年歿>)
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『詩文集・我が一九二二年』

大正12年(1923年)2月18日・新潮社刊・装画=岸田劉生
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我が一九二二年

目次

秋刀魚の歌
秋衣の歌
憂たてさ
浴泉消息
或る人に
冬の日の幻想
同心草拾遺
 つみ草
 別離
 龍膽花
散文(掲載略)
 蓴雨山房の記・あぢさい・杏の實をくれる娘・高橋新吉のこと

 私達の友人は既に、彼の本性にかなはない總ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥りぞけた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉體以上にさへ彼らしい輕羅をのみ纏ふて今、彼一人の爽かな徑を行つてゐる。
 他の何人に對してよりも、自分自身に對して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた藝術を要求することは固より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)藝術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。
 彼の藝術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。
 今の詩壇に対する彼の詩は、餘りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、餘りにも溌溂たるが故に未來派的時代錯誤であることを免れない。
 嗚呼、この心憎き、羨望すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。
『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける總ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。
 一九二三年一月十四日  生田長江


月をわび身を佗びつたなきをわびてわぶとこたへんとすれど問ふ人もなし。
芭蕉翁尺牘より

「秋刀魚の歌」


あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬかの團欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
證(あかし)せよ かの一ときの團欒ゆめに非ず と。

あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ、
夫に去られざりし妻と
父を失はざりし幼児(をさなご)とに
傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか鹽つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
(大正十年十月)

(初出「人間」大正10年=1921年11月)

「秋衣の歌」

その一


去年立秋ののち旬餘の或る日、机に凭りて「情史」を繙き偶々巻二十四を開きしになかに洞庭劉氏といふ一項あり、
「洞庭劉氏 其夫葉正甫 久客都門 因寄衣而侑以詩曰、情同牛女隔天河 又喜秋來得一過 歳歳寄郎身上服 絲絲是妾手中梭 剪聲自覺如腸斷 線脚那能抵涙多 長短只依先去様 不知肥痩近如何。」
これに比ぶれば謝恵連が擣衣の篇のごとき徒らに美辭を弄(もてあそ)ぶものといふべし。われは三誦して秋夜の寡居に感はことのほか深かり。

 織姫と身をなして
 おもふ人いと遠し、
 歎きつつ織るものは
 なつかしき人に着られよ。

 幾とせぞ 天の川
 逢ふことぞ待たるるよ、
 秋ごとに君に行き
 君にそふ衣ころもねたまし。

 絹裂けば音(ね)にぞ聞く
 わが胸の千々(ちぢ)の切なさ、
 縫ひゆけばなみだ落ち
 縫ひきしむ針ぞ憂たてき。

 桁丈(ゆきたけ)は昨(きぞ)のままぞも
 わが心咋のままぞも、
 憂れたくも痩せ給へりや
 憂れたくも肥え給へりや。

もとより即興の戯れにして原詩の哀切に對して恥づ。

その二


洞庭劉氏の詩を三誦してよりのちまた月余、或るゆふべ身に秋冷をおぼえて自ら秋衣をさぐるに事によりてわが思ひ凄然たるものあり。その夜筆をとりて「秋衣の歌」をつづれども意はありて詩は遂に成らず。これを筐底に投じ去りぬ。今年また秋衣の候となる。われは假そめながら病に伏して他家に身を寄せたり。秋宵只一人の為めに長く孤愁は時に甚だ堪ふべからず。つれづれのあまり旧稿を思ひ出でて再び見んことを願へども協はず。蓋し轉轉たるわが流寓のうちに失はれたるなり。乃ちこゝろにこれをたづねつつ漫吟し得て些いささか意を遣りぬ。詞の稚拙は既に恥ぢざるなり。

 灯かげとどかぬ小暗(をぐら)さに
 さすらひ人の行李(かうり)より
 ひとり索ればわびしさよ
 秋風に著る秋ごろも、

 劉氏を妻に持たぬ身の
 わがとり出づる古ごろも
 ころもをとればそぞろにも
 おもかげぞ立つ 憂き人は。

 わりなきことを言ひいでて
 恨むよしなき佳き人よ
 汝がいとし子の秋ごろも
 裁つ手をしばしやめよかし、

 絹を二つに裂かんとき
 こほろぎの音をしばし聴け
 そのかそけさを胸に知れ
 つれなき人とならじかし。

 人目を怖おぢて 汝れはそも
 あわただしくも運ぶ手に
 そのほころびをつくろひし
 ころもは曾て無かりしか、

 今日をかぎりの別れの日
 吐息とともに汝が置きて
 くつがへりたる味噌汁に
 しとどなる膝なかりしか。

 劉氏は人の妻なれば
 ひとりとり出しわがころも
 濯(そそ)ぐべき人もとめねば
 絲目もふるし古ごろも、

 秋の灯かげにすわるとき
 新らしく着る古ごろも
 膝なる汚點(しみ)はわりなくも
 いみじき汝を怨めとぞ。
(大正十一年九月)

(初出「中央公論大正11年=1922年10月)

「憂たてさ」

(アアネスト ダウスン)

我は悲しめりとには非(あら)ず、我は泣くこと協(かな)はず
わが思ひ出のすべては、はた、眠につきつつ。

見守りつ、ゆく水の白く異(あや)しくなりまさりゆくさま、
日ねもす夕暮まで我は見守りつ、川面(かはのも)の変りゆくさま。

日ねもす夕ぐれまで我は見守りつ、雨の
窓がらすのうへ打ちたたくそのうれたさ。

我は悲しめりとにはあらず、ただ我は
かつてわが願ひなりしもの皆に倦(う)んじ果てぬ。

かのひとの脣や、かのひとの眼や、ひねもす
わが身には影の影なるものとはなりつ。

君がこころに焦がるるわが渇きは、ひねもす
忘れられしものとはなりつ、夕べの來るまでは。

かくて我は悲みのさなかに遺されつ、泣かんとす
夕べは目覺めそむるわが思ひ出はかずかず。

(初出「新潮」大正11年=1922年8月・原詩 = アーネスト・ダウスン「Spleen」)

「浴泉消息」

1 大ぶん熱が出ました


隣室の客は男ふたりだ。
酒をのんで、いつまでも
何だかくだらない議論をしやがつた。
やつと寝たと思つたら
ひとりは直ぐと怖ろしいいびきだ
ひとりは又すばらしい齒ぎしりだ
これではまるでさつきの議論のつづきぢやないか。
そのいびきをかうして聞いてゐると
自然、豚のことが思ひ出されるし
齒碾(はぎしり)の方はまるで柱時計のぜんまいを巻いてゐるやうだ。
おれは豚小屋の番人になつて
番小屋の柱時計に油の足りないねぢをかけてゐるのか知ら………
ゆうべの寝汗のしみ込んだこの掛ぶとん
何だかほし草のにほひがして來た……

2 だんだんよくなつて來るのです


浴泉は毎日わたしのおできの
岩苔のやうにこびりついた奴を洗ひ落すが
谷川の水は毎晩、私の心に流れこんで
それが心の古疵(ふるきず)に何としみるかよ。
ひとりぼつちの部屋へ月がさすから
電燈を消したら
おれの目から温泉が出たつけ。

3 よほど快方に向ひました


秋になつたら
小さな家を持たう、
小榻一椽書百巻
さうして
煙草とお茶とのいいのが飲みたい、
そこには花畑がいる、
妻はもういらない
童子を置いて住まう、
童女でも惡くはない、
さうだ、それよりさきに
一度、上海へ行つて
支那童女を買つて來よう、
おもちやのやうに、着飾つた
十三ぐらゐのがいい、
木芙蓉の莟(つぼみ)のやうな奴はいくらぐらゐするだらう?
(大正十一年八月)

(初出「明星」大正11年=1922年9月)

「或る人に」


あなたの夢は昨夜で二度しか見ないのに
あなたの亭主の夢はもう六ぺんも見た。
あなたとは夢でもゆつくり話が出來ないのに
あの男とは夢で散歩して常談口を利き合ふ。
夢の世界までも私には意地が惡い。だから
私には來世も疑はれてならないのだ。
あなたの夢はひと目で直ぐさめて
二度とも私はながいこと眠れなかつた。
あなたの亭主の夢はながく見つづけて
その次の日には頭痛がする………
白状するが私は 一度あなたの亭主を
殺してしまつたあとの夢を見てみたい、
私がどれだけ後悔してゐるだらうかどうかを。
(大正十一年十二月)

(初出「東京朝日新聞大正12年=1923年1月・原題「ある人に」)

「冬の日の幻想」


霜ぐもる十二月の空は
干ものやくにほひにむせび
豆腐やのちやるめら 聞けば
火を吹いておこすこの男の目に ふと
どこかの 見たこともない田舎町の場末の
古道具屋の四十女房がその孕みすがたで
釣ランプをともすのだ。
かかるゆふべの積み累ねに
聖(ひじり)ならぬわが厭離(おんり)のこころはきざした。
 (大正十一年十二月)

(詩集書き下ろし)

「同心草拾遺」

「つみ草」


 風 花 日 将 老
 佳 期 猶 渺 渺
 不 結 同 心 人
 空 結 同 心 草

しづこころなくちるはなに
なげきぞながきわがたもと
なさけをつくすきみをなみ
つむやうれひのつくづくし

(初出「蜘蛛」大正10年=1921年8月・原題「支那の詩より」)

「別離」


人と別るる一瞬の
思ひつめたる風景は
松の梢のてつぺんに
海一寸に青みたり。

消なば消ぬべき一抹の
海の雲より洩るやらむ、
焦點とほきわが耳は
人の嗚咽(をえつ)を空に聞く。

(初出「明星」大正11年=1922年11月)

「龍膽花」


山路きて 君が指すままに
わが摘みしむらさきの花、
君が問ふままに その名を
わがをしへたるりんだうの花、
そのかの秋山のよき花を 今は
ただしばしば思ひ出でよとぞ
わが頼むことは わりなき。

(初出「明星」大正11年=1922年11月・原題「龍膽の花」)

我が一九二二年 畢

(大正十二年二月)


 佐藤春夫は広く知られた作家で、その経歴と業績もウィキペディア等の電子辞書メディアに手際よくまとめられています。大正~昭和にかけてもっとも粋な存在感と顔の広さで「門弟三千人」と呼ばれた文壇のご意見番でしたが、その権威は作者健在の間に限り、晩年~歿後は急激に古い時代の詩人・小説家として読まれなくました。歿後すぐに刊行が開始された全12巻の全集の完結が結局10年近くかかり、1998年に完全版全集が企画されたら3倍の分量の全36巻に昇ったことでも晩年すでに過去の作家と見なされていたことがわかります。もっともこれは佐藤に限らず、鴎外・二葉亭・漱石露伴・鏡花などを除き明治大正の作家の全集の多くは実質的には代表作の選集でした。再評価されて完全版全集が出ると数倍の規模に昇るのは珍しくはありませんし、選集程度の全集がある作家も多くはないのです。

 大正時代すでに萩原朔太郎が佐藤の詩の古めかしさを指弾したのは有名で、一方佐藤は短詩によって萩原の批判を一蹴しています。大正15年(1926年)時点での全詩集『佐藤春夫詩集』(第一書房)初秋の「申し開き」がそうです。

 夢を見たら囈語(うわごと)を言いませう、
 退屈したら欠伸をしませう、
 腹が立つたら呶鳴りませう、
 しかしだ、萩原朔太郎君、
 古心を得たら古語を語りませう
 さうではないか、萩原朔太郎君。

 萩原は1886年生れ、6歳も年長なのに上から目線です。萩原が同人詩誌にデビューしたのは27歳と遅く、一方佐藤は10代で与謝野鉄幹・晶子や石川啄木(萩原と同年生れ)から新鋭詩人として注目されていましたから偉そうなのです。しかもこの詩の直前に並んでいるのは人を食った偶成詩(即興的戯詩)の「なぞ/\」です。

 やきもちやきの女とかけて何と解く。
 闇に怯えてたける小犬と解く。
 そのこころは?
 うるさい。ばかばかしい。腹が立つ。
 ねむれない。それでゐて不憫なのです。

 うるさがたの日夏耿之介(1890年生れ、佐藤より2歳上)ですら、昭和5年早稲田大学文学部講義録をまとめた『日本近代詩史論』(角川書店・昭和24年刊)所収の「大正詩壇の概見」の章で「大正十五年間の時代精神を抒情詩の発展に於てよく歌ひ得たるものは、萩原と高村(光太郎)と佐藤と日夏の四人であつた。外の何者でもなかつた。萩原は感覚的に佐藤は情緒的に高村齒感情的に日夏は神経的に大正の時代相を分担した。宰量した。表現した」と自讃がてら認めています。

 中原中也(1907年生れ)は佐藤春夫辻潤(1884-1944)と高橋新吉(1901-1987)の後見人的存在だったことから敬意を持ち続けていたので、日記にも佐藤への言及が頻出します。「佐藤春夫のいふことは、何だつて大抵賛成だ。併し岩野泡鳴だけは、佐藤春夫が考えるよりよつぽど好いものがあつた」(昭和2年1月24日)、「佐藤春夫のこと覚書」(同年1月30日)、「退屈読本 佐藤春夫 面白し愉快なり」(「一月の読書」6冊のうち。同年1月31日)、「玉仙花 佐藤春夫」(「二月の読書」9冊のうち。同年2月27日)、「指紋 佐藤春夫詩集 窓展く 佐藤春夫」(「三月の読書」13冊のうち。同年3月31日)、そして4月12日には「佐藤春夫の詩が象徴とならないのは彼の孤独が淡泊だからだ。純粋性がまだ足りないからだ。情熱の争闘から生れる詩だ。理性とやらが、含まれてることになる。理性とは私にとつて悉皆マンネリズムだ。けれどもなほ且彼の詩を私が手許へ置く所以は東洋的緻密さとたしかに濾されたものだからだ。美しい!」とあります。前後の7日には「人よポオを読まう」、11日には「ペエターなんてやはりつまらない」13日には「日夏耿之介は馬鹿だ」「堀口大學(中略)品性下劣」(一般的には日夏は佐藤の盟友、大學は私生活に至るまで佐藤の無二の親友と知られています)、14日には「野口米次郎--この馬鹿奴!」、16日には「リルケ詩抄を読む。(中略)こ奴には血がないのだ」、23日には「世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。/ヴェルレェヌ/ラムボオ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり」と中原流の詩人観が集中し、6月4日には「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治」と書きつけられています。岩野泡鳴は蒲原有明の親友で象徴詩から豪快な自伝的私小説作家に進み47歳で急逝するまでスキャンダラスな文壇の名物男だった詩人・小説家で、三富朽葉はいち早くランボーとラフォルグを紹介し消化した作風を示しながら27歳で事故死した詩人です。この昭和2年は中原20歳で、代表詩「朝の歌」を書いて詩人としての確信を深めた重要な年でした。

 また、萩原朔太郎を唯一の師として日夏や中原など眼中になかった西脇順三郎(1894-1982)は大学で2年後輩、同じ大学の教授に従事したことから佐藤と交際が深く、佐藤の急逝の際には「短歌の流れをくむ情念の詩人」「日本最大の天才的歌謡詩人」と微妙な称賛を捧げています。日夏、西脇、中原には詩観に何の共通点もないにもかかわらず、佐藤がこの曲者三者から一致して称揚されているのは他の詩人にはめったに見られない現象でしょう。

 中原が指摘している佐藤の資質は、例えば次の「十三時」のような詩でしょう。これも『佐藤春夫詩集』初収録の短詩です。

 客よ おどろくな
 十三時だ。時には
 二十三時も打つ。

 だが針を見ろ 十一時だ。
 このキテレツな時計こそ
 部屋の主(あるじ)とおんなじだ。

 かんぢやうは出鱈目の
 メチャクチャだが
 理性の針は正しいよ。

 (原文では「かんぢやう」には傍点つき)

 なんとなくおわかりいただけたでしょうか。気が利いていて品のよい程度に新しく、愛想も味もありますが、それだけなのです。岩野泡鳴や辻潤高橋新吉のような本物のニヒリズムはなく、宮澤のような広大な想像力もなく、朽葉のような実存的な陰翳もありません。本質的には佐藤春夫の詩は不毛なのですが、先に引いた萩原朔太郎佐藤春夫の応酬は萩原が大正14年に詩誌「日本詩人」7月号に発表した批評「一九二五年版『日本詩集』の総評」で佐藤に触れて「散文作家として今の日本文壇に珍しい詩人であり、私の畏敬する第一人者である」「しかし『詩壇の詩人』として佐藤春夫は過去の人である。第一に、彼の詩の言葉それ自体、言語の感覚それ自体が古臭いので、今の詩壇から本質的に遅れている」と書いたことに発します。これは原稿段階で佐藤に知らされたらしく、翌月号にはすぐに佐藤の反論「僕の詩に就て~萩原朔太郎君に呈す」が掲載されました。この反論文は中原中也の日記に出てきたエッセイ集『退屈読本』(大正15年=1926年11月刊、つまり中原は最新刊として読んだのです)に収録されています。この反論で佐藤は「貴君は、僕の詩を目して十年以前のものだと言はれた。残念ながらこの評語は当つてゐるとは同感しがたい。若し吾が高橋新吉の詩が今日のものであるならば十年以前のものは寧ろ貴君のものではないであらうか」「さうして僕のものは?/僕の詩はアアネスト・ダウスンとともに千八百九十年代以前のものであらう。多分三四十年以前のものであらう。僕自身はそのつもりである」と堂々と宣言しています。
 さらに佐藤は「昨日の思い出に僕は詩人であり、今日の生活によつて僕は散文を書く。詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である」「実に僕は古典派の詩家である。しかし僕はダダの詩をも、ヱスプリヌウボオの詩徒をも愛好する」と表明しています。これはダダやエスプリヌウボオ(モダニズム)に批判的だった萩原への皮肉でもあるでしょう。この論争は西脇順三郎による佐藤春夫追悼文にも引用されていますが、西脇はこの佐藤の発言の解説として佐藤は「詩作というと主として抒情詩で古文体で書き、その内容となる発想は和歌または俳句的なものであった。西洋的な詩情が表現されているのは小説か論説であって、皮肉な現象が起こっている」と的確に指摘しています。また佐藤が大東亜戦争~太平洋戦争中に多作した戦争賛翼詩集に就いても佐藤自身の自序にある「我等詩を志す者にありては、天は絶好の詩題を課して丈夫の歌を成さしむといふべし」(詩集『大東亜戦争昭和18年刊)に伝統的な歌人的性格(和歌は本来国家の繁栄と伝統的美意識を詠う文芸ジャンルです)を中立的に偏見なしに見ています。西脇自身は、戦時中は一切の詩作を行わなかった人でした。

 西脇順三郎が感嘆し、日夏耿之介中原中也からも佐藤春夫の詩に賞賛が留保つきだったのは、まさに「詩人は僕の一部分である」という全人性の欠如にあったでしょう。萩原朔太郎が「言語の感覚それ自体が古臭い」「今の詩壇から本質的に遅れている」と不服を唱えたのも、萩原や萩原が先人として崇拝する石川啄木、尊敬する先輩の高村光太郎(萩原を師とする西脇順三郎高村光太郎中原中也を敵視していましたが)など、現代詩は技巧中心の発想から全人性の実現へと向かうというロマン主義的理想があったからです。それは形式や内容の匿名的な普遍性に向かう古典主義とは相容れないものでした。しかし自我の発露を願うロマン主義は形式の不安に常に悩まされているので、古典主義の安定性への愛憎半ばすることになります。佐藤春夫は古典主義とロマン主義の両方を巧みに着こなし、自己の手中であつらえられる領分でしか詩作しなかった人でした。その詩は本人の宣言する通り「僕の一部分」でしたから、詩人の実在そのものの永眠した後はますます自立性の乏しい、作者の姿の見えない詩の典型のようになったのです。

 西脇が中立的に「天才的歌謡詩人」と呼んだのも万能である代わりに変化も発展も欠いたこの如才なさであり、それは萩原がどうしても宥せなかった佐藤の楽天的かつ受動的な融通性でした。古典主義もロマン主義ダダイズムエスプリ・ヌーヴォーも可、というのは一見感性が幅広く寛容であるようでいて、そのいずれもに自己を託さない享楽主義的立場です。萩原や中原にとって詩はそれぞれに絶体絶命のものであり、日夏や西脇の詩は誰の理解も求めないものでした。佐藤は現代詩にあって意図的なアナクロニズムに徹することで例外的な詩人になったのです。今回ご紹介するのは大正12年(1923年)に刊行された佐藤の第2詩集『我が一九二二年』で、収録詩編は全9編(他4編のエッセイは後に『退屈読本』に転載されました)。三段組みの文学全集類では全編で3ページ強しかありません。これも現代詩の古典的詩集の一冊であり、善かれ悪しかれ一時代を画した作品です。大正12年刊行の詩集には萩原朔太郎『青猫』、金子光晴『こがね虫』、そして『ダダイスト新吉の詩』があります。それらがすべて自費出版で『我が一九二二年』が大手出版社刊行だったのが大正12年という時代だったのです。なお後に佐藤は詩篇だけを独立して本作を詩集としていることもあり、散文は掲載を略しました。

(旧稿を改題・手直ししました)

逸見猶吉「ウルトラマリン」(同人誌「學校詩集」昭和4年=1929年より)

(逸見猶吉<明治40年=1907年生~昭和24年=1949年没>)
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「報告」  逸見猶吉

(ウルトラマリン第一)

ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
レダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
 《血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル
 北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ----》
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ 舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ轉落スル 鴉ト時間ト アトハ
サガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク
凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ 野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鐵柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ
苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地點カラ標的ニサレタオレダ
アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覺デアツタラウカ
彈創ハスデニ彈創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉體ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ齒ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク 彌漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ オレノヤリキレナイ
イツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
アゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ スベテ痩セタ肉體ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
 《ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付
 ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――――》
イカナル眞理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ

(昭和4年=1929年10月「學校」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

「兇牙利的」  逸見猶吉

(ウルトラマリン第二)

レイタンナ風ガ渡リ
ミダレタ髪毛ニ苦シク眠ル人ガアリ
シバラク太陽ヲ見ナイ
何處カノ隅デ饒舌ルノハ氣配ダケカ
毀ワレタ椅子ヲタタイテ
オレノ充血シタ眼ニイツタイ何ガ残ル
サビシクハナイカ君 君モオレヲ對手ニシナイ
窓カラ見ル野末ニ喚イテル人ガアリ
ソノ人ハ顔ダケニナツテ生キテユキ ハツハ
オレハ不逞々々シクヨゴレタ外套ヲ着テル
醉フタメニ何ガ在ル
暴力ガ在ル 冬ガ在ル 売淫ガ在ル
ミンナ悪シキ絶望ヲ投ゲルモノニ限リ
悪シク呼ビカケルモノニ限リ
アア レイタンナ風ガ渡リ
オレノ肉體ハイマ非常ニ決闘ヲ映シテヰル

(昭和4年=1929年12月「學校詩集」)

「死ト現象」  逸見猶吉

(ウルトラマリン第三)

雲母(キララ)ノ下ノ天末線(スカイライン)
曝サレテヰル骨ノ自暴
ソコニ死ノヤウナモノガアル
ヤミガタイ息ヅマル堅勒ノ胸盤ガアル
 《硝子ノ翼・硝子ノ血 コノ感情ニナダレコム冬》
透明ノ底ニ擴ガルモノ 滲ミ入ルモノ
機械ノ一點ニ恒ニレイゼント狙ハレテアルモノ
アア世界ヲ充顛スル非情ノ眼ヨ
君ハ見ルカ 君自身ノ狂愚ヲ蹴落スコトガ出來ルカ
君ノ内部ニ氾濫スルマラリアノ愛 ソレスラモナホ季節ハ残シテユク
ウルトラマリンノ風ガ堕チ
ウルトラマリンノ激シイ熱ノ勃ルトコロ
ヤガテハ燃焼スル
彼處荒茫タル風物ノ奥デ ソノスルドキ怒リニ倒レテアルモノハ何カ
俺ハ感ジル 石炭ノヤウニツライ純潔ヲ ソノ火力ヲ
俺ハ知ル 海豹ノヤウニ齒向フ方角ヲ ソシテ今
冬ハアレラ傷メル河河ニ額ヲヌラシテヰルノダ
北地ノバリバリシタ氣圏ノナカ ソノキビシイ肩ヲスベリ
際涯トホク沈ム汽車ノ隅カラ俺ハ遙ルカナ雲ヲ測ロウ
 ★
凄イ暴力ハナイカ
自分ヲ視ルコノ瞬間ハ恐ロシイ
ソレハ苦痛ヨリモ絶體デアル 風ニ靡ヒテ何處ヘ往ク
原因ノアル處ニ生キテ逆轉セザル妄想ヲ深メテ生ノ荒々シイ殺倒ノ底
 ★
タトエナキ抛物線ノ挺轉 流レ去ル粗悪ノ地理・停車場
コノ重々シイ空間ニ懸垂スルモノ 充血スル顔ヨ
ナントイフ極度ノ貧困デアラウカ
傾ムク黒イ汽車ノ一隅 ソコニハナンノ夢モナイノダ
俺ハ君ヘ語リカケ 君ハ横ヲ見テ微笑スルバカリデアラウカ
十二月・雲母(キララ)ノ下ノ天末線(スカイライン)鐵ノヤウニソレハ
背ヲ向ケル無表情 天來ノ酷薄

(昭和4年=1929年12月「學校詩集」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)


 逸見猶吉(明治40年=1907年生~昭和24年=1949年没)の生前に自選詩集としてまとめられたのは合同詩集「現代詩人集3』(昭和15年=1940年7月・山雅房)収録の小詩集『ウルトラマリン』18編だけで、序文に「満州國に移り住んで四年、この間のものは全くこの集にいれなかつた。深い理由はない。仮に『ウルトラマリン』と題したのも、以前詩集を出さうと考へた時この言葉を思ひついたからで、今になれば一寸した愛情である」と書かれています。同書は岡崎清一郎、菱山修三、藤原定、菊岡久利、草野心平ら同人詩誌「歴程」の詩人たちの合同作品集でした。逸見は昭和10年草野心平と「學校」「銅鑼」らの同人誌を統合した同人詩誌「歴程」の創刊メンバーで、草野心平が引き継ぐ昭和12年までは逸見猶吉が「歴程」の編集発行人だったのです。昭和10年は逸見猶吉は戦時下の満州で物資配給の官吏職に就いた年で、草野に編集発行人を譲ったのも満州現地の職務の多忙からでした。「歴程」に至るまでに「學校」「銅鑼」の同人として高村光太郎金子光晴、吉田一穂、高橋新吉、尾形龜之助、伊藤信吉、中原中也山之口獏らと交流があり「歴程」は彼らが一堂に会し、「歴程」創刊時には逝去していましたが「學校」「銅鑼」時代の宮澤賢治八木重吉らも遺族から未発表遺稿を託されて歿後同人としていました。「歴程」は高村光太郎宮澤賢治高橋新吉を師表にしていましたが基本的には一人一派の流儀で、逸見猶吉は中原中也と同年生まれですが、中原のように高橋新吉宮澤賢治への傾倒よりも萩原朔太郎を尊敬していたといいます。

 昭和4年10月草野心平編集「學校」掲載の「報告(ウルトラマリン第一)」、またすぐ12月の伊藤信吉編集『學校詩集』に一挙掲載された「報告(ウルトラマリン第一)」「兇牙利的(ウルトラマリン第二)」「死ト現象(ウルトラマリン第三)」の3編の発表は「學校」「銅鑼」周辺の詩人たちにとって事件でした。草野心平は「あの詩を読んだ時私は寒気がした。私は感動で震えた。その当時、あれ程私を驚かした詩といふものは他になかつた」と昭和23年(1948年)7月の「歴程」逸見猶吉追悼号のエッセイ「生き返したい」で回想し、同じ号に戦時中の疎開以来岩手独居中の高村光太郎も「今座右に一篇の彼の詩もない。しかし曾てよんだ彼の詩のひびきはりんらんと耳朶をうつてやまない」と追悼文「逸見猶吉の死」を寄せています。高村も昭和4年に草野から逸見に引き合わされ、高村歿後の全集編纂時には敗戦後に「歴程」周辺の詩人たちに頻繁に消息の連絡を取りつつ、ことに満州の逸見猶吉の消息を心配する文面が多数の書簡に残されています。高村は同追悼文で「彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充實して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところへ出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示すやうな彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き聲をきかない」と優れた理解を示しています。

 逸見猶吉には単行本未収録の少なくない散文もありました。宮澤賢治についてのエッセイもあり、昭和9年(1934年)5月の「三田文學」掲載の「修羅の人-宮澤賢治氏のこと-」がそれですが、数年前(昭和3年)の3月と同年秋に函館に遊興した、「(その時の心境は)酷かつた、まつたくあの頃もいまもなんといふ月竝みの酷さだ。醒めてることの稀ないまいましさ。その兩度の旅に、おもへば詩集『春と修羅』が鞄の底にたしか藏はれてゐたやうな氣がするのだ」「『春と修羅』の背後に立つて、或ひは考へ深さうな微笑を泛べてゐる宮澤賢治氏がはつきりと見えて、なにか注意を受けるやうな又冷淡につき離されさうな具合で、無頼な私の生活がなんとも堪らなくなつてきた」「だが「死ト現象」などに没頭してゐた私は、ああ、いいな「小岩井農場」「オホーツク挽歌」と思ひながらも、何故か茫漠とした虚しさにおそはれて、謀叛氣のやうなものを感じてしまふのだつた」と宮澤賢治の詩への距離感を語っています。宮澤賢治昭和8年9月に亡くなっているのでこれは追悼文として書かれたものですが、宮澤賢治の詩に一種の潔癖症的な教条性を感じているならば、人格的には面識から敬意を持っていても高村光太郎の詩にも同種の「謀叛氣」(反感)を感じていなかったとは限りません。

 逸見猶吉の評価を決定的にしたのは吉田一穂が昭和5年(1930年)3月の「詩と詩論」に書いた時評「詩集に関するノート」で、安西冬衛『軍艦茉莉』、北川冬彦『戦争』、春山行夫『植物の断面』に並べて『學校詩集』を採り上げた絶賛でした。『軍艦茉莉』『戦争』『植物の断面』は「詩と詩論」発行元の東京厚生閣のシリーズ「現代の芸術と批評叢書」からの刊行で「詩と詩論」同人による話題の新作でしたが、一穂は『學校詩集』に他の3冊を合わせた以上の分量を割き「私はこの中から初めての詩人・逸見猶吉の詩『ウルトラマリン』を声をあげて推讃する。その最も新しい尖鋭的な表現・強靭な意志の新しい戦慄美、彼は青天に齒を剥く雪原の狼であり、石と鐵の機械に擲彈して嘲ふ肉体であり、ウルトラマリンの虚無の眼と否定の舌、氷の齒をもつたテロリストである」と讃辞を送りました。「詩と詩論」は最も進んだ前衛エリート集団と見られていたので、外郭同人の吉田一穂が「詩と詩論」の中心メンバーたちの新作以上と評価した逸見猶吉は「學校」「銅鑼」周辺に止まらない最大の新人と注目されたのです。一穂は後輩詩人では多作な岡崎清一郎(1900-1986)、急逝(事故死)後に草野心平・逸見猶吉・宍戸儀一編で唯一の詩集『亜寒帯』昭和11年(1936年)がある石川善助(1901-1932)に慕われ、逸見猶吉も一穂の厳格な詩法には真剣に兄事しましたが(一穂詣では若い詩人たちの度胸試しで、中原中也が「(一穂が出してくれる)茶が苦くてなあ」とぼやいて誰もが苦笑していたそうです)、友人・宍戸儀一への書簡で一穂の新作詩編に触れ「近業『鴉を飼ふツアラトウストラ』を見れば、氏にとつて当然な道だとしてもニルヴアナ(解脱)に近い自覺が均整と數理美とを示してゐる。感嘆すべく醒めたる人の姿だ。だが己はむしろ、酩酊(數としての)なかに入るだらう。群のなかを堕ちてゆくだらう」と書き送っています(昭和7年=1932年5月17日付)。逸見は一穂が「詩と詩論」を離れ、対抗誌として主宰した「新詩論」(昭和7年=1932年10月~昭和8年=1933年10月、全3冊)にも参加しましたから一穂への敬意は変わらなかったでしょう。一穂ははるか後のエッセイで(「地獄の骰子」読売新聞・昭和42年=1967年9月6日)詩集の刊行ブームに触れて「マラルメも逸見猶吉も生前、一冊の集も持たなかつた。(中略)堕天使といはれたシェリーが地中海で溺死した時、あるサチリストが『奴の骨は地獄の骰子になつてゐるだらうよ』といつた。いや詩人とは自分の骨を削つた骰子で、一か八か、生涯を賭けて勝負するものである」「詩を書くことは本然の生を生きたことだ。その行為がそのまま報いであるのだ」と書いています。逸見が高村光太郎、、宮澤賢治よりも吉田一穂に親近感を抱いていたのは違いないと思われるゆえんです。

 日本による傀儡政権下の満州で配給管理に従事していた逸見猶吉こと本名・大野四郎は帰国もかなわないまま、敗戦から1年の昭和21年(1946年)5月、栄養失調による肺結核の悪化から病没します。夫人と小学生の女児の遺児も同地で病没し、男児3人は養家を得て帰国しましたがうち1児は児童のうちに事故死しました。逸見猶吉は既発表作品の手入れ原稿を詩集刊行を想定して友人に託しており、その半数が初の単行詩集として刊行されたのが『逸見猶吉詩集』(全38編/昭和23年=1948年6月・十字屋書店)です。草野心平の「覚え書」を付したこの詩集は少部数出版でしたが、初めての逸見猶吉の単行詩集として画期的な意義を持ちました。逸見猶吉の著作で惜しまれるのは、比較的早く十字屋書店版『逸見猶吉詩集』に恵まれた替わりに本格的な全詩集『定本逸見猶吉詩集』が遅れ、これにも収録洩れの詩や雑誌掲載型から大きく改稿された作品が多く、草野心平が「全集も何れは出る機會があるだらう」と期待したにも関わらず相当の分量のある散文(批評、エッセイ、書簡、雑篇)を集成した逸見猶吉全集はいまだに未刊です。十字屋書店は戦中(昭和14年/1939-昭和19年/1944)に、昭和10年(1935年)から文圃堂から刊行されながら中絶していた宮澤賢治の歿後全集を草野を中心とした歴程グループの尽力を得て完結させた実績があり、宮澤賢治を国民的童話作家・詩人にしたのはこの十字屋書店版全集です。また同書店は昭和22年(1947年)7月には初版以来30年以上経つ山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』を草野心平の再編集で復刻したばかりでした。敗戦直後の時勢では散文を含めた準全集の刊行は難しかったでしょう。現在でも逸見猶吉の散文は、研究書の主なものである菊池康雄『逸見猶吉ノオト』昭和42年(1967年)、森羅一『逸見猶吉の詩とエッセイと童話』昭和62年(1987年)、尾崎寿一郎『詩人 逸見猶吉』平成23年(2011年)に転載・引用されているもの以外には一般の読者には容易に読めません。逸見猶吉詩集も現在手軽に普及している版はありませんから、せめて全集ではなくても詩集と散文を合わせた選集くらいは望まれます。

 前述の通り十字屋書店版詩集と『定本逸見猶吉詩集』は前者が全38編、後者が40編増補・逸見自身による改稿を含む全78編と倍以上の増補がありますが、逸見唯一の生前の自選集である山雅房刊『現代詩人集3』昭和15年(1940年)収録の小詩集『ウルトラマリン』全18編に、同時期の未収録詩編と『ウルトラマリン』以後の時期からの増補20編から成る十字屋書店版『逸見猶吉詩集』で逸見作品の珠玉は尽くされているでしょう。この十字屋書店版『逸見猶吉詩集』はのち『全詩集大成・現代日本詩人全集12』(十字屋書店版『逸見猶吉詩集』全編再録・昭和29年=1954年4月・創元社刊)で比較的広く流布されることになりました。逸見生前の『現代詩人集3』収録の小詩集『ウルトラマリン』は昭和11年(1936年)頃までの作品集で、同年以降は逸見猶吉は満州駐在になり、『逸見猶吉詩集』は満州時代以降の作品は少数が厳選され補遺程度と言って良く(ただし厳選された分佳作揃いで、『定本』で読める遺漏詩編の大半は十字屋書店版未収録になったのも納得の凡作です)、逸見と同年生まれの中原中也(1907-1937)の生前刊行2詩集、逸見より1歳上で萩原朔太郎の激賞により世に出た伊東静雄(1906-1953)の最初の2詩集と『ウルトラマリン』は完全に同時代の作品ですが、中原中也のようにポピュラーな詩人にも伊東静雄のような玄人好みの詩人にも成り得ない激越な攻撃性、狂気、難解さは『ウルトラマリン』成立から80年を経た今日でも読者の安易な理解を拒んでいます。

 宮澤賢治山村暮鳥も難解な詩人ながら感覚的に馴れることはまだ可能ですが、逸見作品の宮澤や暮鳥とも異なる圧倒的な詩行の密度は取りつく隙を与えない硬質さを感じさせます。ここでは十字屋書店版『逸見猶吉詩集』の巻末の草野心平による「覺え書」を転載しておきます。友人の弁として情理兼ね備えた、貴重な一文であり無駄のない名文で、十字屋書店版詩集はこの跋文によって決定版選詩集の風格を備えたとも言えるほどです。

「覺え書」

 逸見猶吉詩集は彼の友人二、三によつて編纂されたものである。晩年、満州での作品の拾遺、また逸見以前の本名での同人誌二冊なども編纂後現はれたがそれらやまた數多くないエッセイなども網羅しての全集も何れは出る機會があるだらうと思ひ、この詩集には収録しなかつた。
逸見猶吉の大概は、一九二八年若冠二十歳、ウルトラマリンに始まり満州の地理を一聯に終るとみるのが至當であつて、だから本詩集は彼の作品の全貌ではなくとも全貌に近い。傑汁はすべて収められてゐると思ふ。
 彼の作品の一部は曾つて「現代詩人集」の第三巻に掲載されたが、獨立した詩集としてはこれが最初であり、ランボウの系譜が、異なつた資質に於て日本に出現したのもこの詩集が最初である。
 詩作二十年の結果のおほよそがこの一巻であることは彼の寡作を物語つてゐるが、ぎしぎし音たてる充溢とその氾濫は、比を逆にして獨自な天稟を雄辯に語つてゐる。
 わが国一流の詩人としての、あの特異な顔貌もすでにない。けれどもいまは一つの象徴として「牙のある肖像」が立つてゐる。
(一九四八・一・二〇 草野心平)

(旧稿を改題・手直ししました)