人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

カン Can - フューチャー・デイズ Future Days (United Artists, 1973)

カン - フューチャー・デイズ (United Artists, 1973)

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カン Can - フューチャー・デイズ Future Days (United Artists, 1973) Full Album: https://youtu.be/wQxMB4Wk_y8
Recorded at Inner Space Studio, Cologne, 1973
Released by United Artists August, 1973
All songs written and composed by Can.

(Side 1)

A1. Future Days - 9:30
A2. Spray - 8:29
A3. Moonshake - 3:04

(Side 2)

B1. Bel Air - 19:51

[ Can ]

Holger Czukay - bass, double bass
Michael Karoli - guitar, violin
Jaki Liebezeit - drums, percussion
Irmin Schmidt - keyboards, synthesizers
Damo Suzuki - vocals, percussion

(Original United Artists "Future Days"LP Liner Cover & Side A Label)

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 カンの最高傑作をどれとするかは評者によって票が割れますが、『Future Days』は必ず上がるアルバムです。ダモ鈴木在籍時のフルアルバムとしては最後の作品で、『Tago Mago』『Ege Bamyasi』に続く3作目になります。この3枚はどこの音楽サイトでも満点を獲得しており、マルコム・ムーニー在籍時(発掘盤、一時的再結成除く)唯一のアルバムでカンのデビュー作『Monster Movie』もクラウトロックの起点とされる傑作ですが、現在ではダモ在籍時に評価のウェイトがかかっていて、『Monster Movie』はダモ三部作の次点とされているようです。マルコムが2作、3作と在籍していたら評価も違っていたかもしれません。ダモ在籍時は名実ともにカンを代表する傑作が連発されており、当然ダモの貢献度も高くなっています。カンを創設したドイツ人メンバー4人だけではバンドにマジックが起きないのか、かろうじて次作ではテンションを維持しましたが、ヴァージン・レコーズに移籍して国際市場を意識したバンドのコンセプト見直しからレゲエ~アフロビートなど同時代のエスニック・ビートを意図的に取り入れるようになると、もともと音楽的には変態ファンク・バンドだったカンには親和性が高すぎて、マルコム~ダモ在籍時の異能性はメンバーも予期しないうちに摩滅してしまったのが後期カンでした。

 もともと演奏はうまく、サウンド構成のセンスは抜群だっただけに、フュージョン化しても並みのバンドにはならなかったカンでしたが、アフロビートの強化のためにトラフィックからロスコー・ジー(ベース)とリーバップ(パーカッション)の2人の黒人メンバーを迎えてホルガー・シューカイがエンジニアに専念するようになると、プロのミュージシャンだったロスコーやリーバップではマルコムやダモのような異化効果は起こらず、バンドのフュージョン化がさらに進んで居場所がなくなったシューカイも一時的にカンを離れてしまいます。結局カンはシューカイを呼び戻し、解散アルバム『Can(Inner Space)』1979で最後にやりたい放題のアルバムを発表して10年の歴史に幕を下ろしました。ダモ脱退後のアルバムもよく聴けば『Future Days』の余韻があり、後期カンはおおむね『Future Days』と4人になってからの初のアルバム『Soon Over Babaluma』で到達した音楽をいかに応用していくかを解散までの5枚のアルバムで試行していました。その点で、『Monster Movie』や『Tago Mago』『Ege Bamyasi』よりも『Future Days』はカンのアルバム系列では大きな結節点になっています。

 簡単に『Future Days』の特徴を言ってしまうと、前作『Ege Bamyasi』収録の「One More Night」「Vitamin C」「Spoon」などで現れてきた浮遊感のあるポップなカン流ファンクをアルバム全体で展開したもので、『Monster Movie』や『Soundtracks』『Tago Mago』にもそうした片鱗はありましたが、どちらかといえばヘヴィなアシッド・ロック的ムードの方が支配的でした。その点では『Ege Bamyasi』は過渡的な位置にありましたし、過渡的だからこそ『Tago Mago』と『Future Days』のどちらの特徴も兼ねていました。『Future Days』でもヘヴィで実験的な「Spray」がありますが、素晴らしいオープニングのタイトル曲「Future Days」とダモ時代の曲でももっともキャッチーな「Moonshake」に挟まれているため聴き流せてしまえます。これは聴き流せる曲が必要か、いっそ実験的な曲は外した方が良かったかは考慮の余地がありますが、A面全体の流れとしてはポップな2曲に実験的な曲を1曲挟む構成は成功しています。また、このA面3曲の構成は『Monster Movie』と『Tago Mago』のそれぞれのA面を踏襲しており、意図的な配曲なのは明らかです。

 ファンクと言っても実は「Future Days」はジャズ・サンバのリズムを使っている曲ですが、同様にアルバムのB面は片面すべてを使った「Bel Air」で、カン全作品中もっとも天上的に甘美な1曲ながらよく聴くと4ビートのスロウなジャズ・ボッサです。カンは基本的にファンク・バンドですからこれらの黒人音楽系リズムはどれもお手の物です。B面1曲の大作も『Monster Movie』B面全面の「You Doo Right」、『Tago Mago』B面全面の「Halleluhwah」を思い出させるようになっています。ロックバンドに限らず、アーティストが自他ともに代表作と認める作品に意図的に似せた作品を制作するのは、自己模倣や反復よりもかつての代表作を乗り越え、更新しようという積極的な意志あってのことでしょう。カンはマルコムからダモにヴォーカリストが交替してすぐに「Mother Sky」(『Soundtracks』収録)でLPのB面のほとんどを占める大作を試し、『Tago Mago』では『Monster Movie』と同じ構成で2枚組LPの1枚を制作しているます。また、こうした大胆なアルバム構成も『Future Days』が最後になることから、カンにとって強烈なキャラクターを持つヴォーカリストの有無がどれだけ重要で、ダモ鈴木脱退後に創立メンバー4人のみでバンドを継続するのがほとんどバンドの根本的な立て直しになったのも想像されます。ヴァージンに移籍し『Landed』から始まった後期カンを高く買わない評者からも、その労力がなんとか後期カンのアルバムを、カンの名義に耐えるだけの内容にしていたのは認められています。

 今日『Tago Mago』『Ege Bamyasi』『Future Days』をカン3大傑作とする評価の例を上げると、シカゴのオンライン音楽誌「Pitchfork Media」が2004年6月に「Top 100 Albums of 1970s」の特集を組んでおり、カンのアルバムでは上記3作が入選しています。『Future Days』が56位(57位がポール・サイモンPaul Simon』1972、55位がニック・ドレイク『Bryter Layter』1970)、『Tago Mago』が29位(30位がマイルス・デイヴィス『On the Corner』1972、28位がザ・ビートルズ『Let It Be』1970)、『Ege Bamyasi』が19位(20位がT.レックス『Electric Warrior』1971、18位がマイルス・デイヴィス『Bitches Brew』1970)となっており、前後に並ぶアーティストやアルバムからも、カンが国際的に'70年代最重要バンドのひとつに位置づけられていることがわかります。トップ100中3枚、しかもそれぞれ60位以内、30位以内、20位以内に入っているのです。ちなみに100位はブライアン・イーノ『Before and After Science』1977、90位がフェラ・クティ『Zombi』1977、80位がデイヴィッド・ボウイ『Hunky Dory』1971、70位がピンク・フロイド『Dark Side of the Moon』1973、60位がジョン・レノンJohn Lennon/Plastic Ono Band』1970、50位がティム・バックリィ『Starsailor』1970、40位がザ・モダン・ラヴァーズ『The Modern Lovers』1977となっています。30位、20位は先に触れました。

 このPitchfork Mediaはなかなか面白いオンライン音楽誌で、イギリスの「Q」誌と並んで相当な見識があり、偏向やムラのある「Rolling Stone」誌より先進的です。Allmusic.comは包括的ですから欧米諸国のウィキペディアではAllmusic.comを指標的評価にしている場合がほとんどですが、Allmusic.comは公約数的評価の反映であって、批評性は稀薄です。Pitchfork Mediaには積極的に批評的な観点を感じます。ちなみにPitchforkの'70年代アルバムのトップ10は、10位『Another Green World』1975(ブライアン・イーノ)、9位『Unknown Pressure』1979(ジョイ・ディヴィジョン)、8位『Entertainment!』1979(ギャング・オブ・フォー)、7位『IV』1971(レッド・ツェッペリン)、6位『Trans-Europe Express』1977(クラフトワーク)、5位『Blood on the Tracks』1975(ボブ・ディラン)、4位『There's a Riot Goin' On』1971(スライ&ザ・ファミリー・ストーン)、3位『Marquee Moon』1977(テレヴィジョン)、2位『London Calling』1979(ザ・クラッシュ)、と続いて、1位にはデイヴィッド・ボウイの『Low』1977が上がっています。先に上げた100位~20位圏の諸作を見てもこのトップ100入りのアルバムは泣く子も黙る名盤揃いで、ダモ鈴木期のカンが3作入選の評価は相当なものでしょう。

 メンバー自身は『Future Days』をシンフォニックになりすぎた、とそれほど好んでいないそうです。ダモ鈴木はカンではこれ以上のものはできないだろう、と考えて脱退したと発言しています(また、結婚してエホヴァの証人の布教活動に専念するためでもありました)。これまでになく透明感があって美しいサウンドのために、従来のカンのアルバムでは気にならなかった瑕瑾がなくもありません。タイトル曲「Future Days」では突然バランスと音質が変化して編集の痕跡がありありと見える個所が隠しきれていませんが、これは意図的にサウンドの遠近感を編集で演出しようとして成功も失敗もしています。前作までのカンなら混沌とした方向で統一できたでしょうが、今回作り出そうとしたサウンドは濁りのない、シンプルで美しいものなので継ぎ目が目立つのです。

 同様にB面の大作「Bel Air」も編集の跡がずいぶん目立ちます。この「Bel Air」はマイルス・デイヴィスのジャズ・ロック・アルバム『In A Silent Way』1969からの影響の大きさが感じられ、いくつかのパートは同じ演奏を使い回して20分の大作に拡張していると思われます。また、別録りしたパート同士を組みあわせて使い回しの演奏の展開部に使用するなど、これまでのカンの感覚優先の編集から構成のための編集に変化しています。これまでは感覚を強調することで自然な構成感を生み出してきましたが、もっと構成に狙いを絞ることで感覚が呼び起こすように発想の順序が逆になっています。出来自体は成功しており「You Doo Right」や「Halleluhwah」とは違ってサウンドは美しいのですが、作り物めいたぎこちなさも感じます。無理がないのは小品「Moonshake」や実験的な「Spray」ですが、それらはアルバムの主眼ではありません。ですがカンの場合、『Future Days』のように整理されたアルバムではある種の不自然さも伴うのは仕方がなく、その上でなお傑作といえる作品になっているのですから欲目を言えばきりがないでしょう。

 また、Pitchfork Media選出の1970年代アルバム・ベスト100の第1位は、ボウイの『Low』1977ですが、このベルリン録音ではボウイとプロデューサーのイーノは当然カンを聴いていたに違いありません。ボウイ自身がクラフトワークとノイ!からの影響を公言しています。カンのアルバムを3枚も'70年代のベスト100に選んだはPitchforkその点でも選出基準の一貫性が認められます。『Future Days』と『Low』は確かに同じカテゴリーの音楽で、未来のポピュラー音楽を先取りしたサウンド感覚にあふれています。それだけにカンもボウイもその後に苦戦を強いられることになりますが、少なくともカンは本作の路線から次作『Soon Over Babaluma』をダモ鈴木抜きで制作し、十分な面目を保ちます。

石原吉郎「位置」「事実」(詩集『サンチョ・パンサの帰郷』より)

石原吉郎(大正6年=1915年11月11日生~昭和52年=1977年11月14日没)
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位置

 石原吉郎

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

(初出・昭和36年=1961年8月「鬼」)

事実

 石原吉郎

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罰を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうして
うすらわらいまでしている

(初出・昭和31年=1956年2月「文章倶楽部」)


 以上2篇、第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(昭和38年=1963年12月25日・思潮社刊)より。石原吉郎(1915-1977)の詩は以前、晩年の壮絶な心中詩「相対」をご紹介した際に簡略に経歴も記しましたが、再度触れておきましょう。石原吉郎は静岡生まれの詩人で、23歳で受洗し宣教師になるため退職、神学校に入学直前の昭和14年(1939年)に召集を受け、ハルピンに派遣されました。敗戦によってソヴィエト軍に部隊ごと捕虜にされ、シベリアでの強制労働から帰国したのはスターリン死去による特赦を受けた昭和28年暮れのことで、24歳から30歳までを軍人、さらに38歳までをシベリア抑留兵として過ごしたことになります。帰国した石原吉郎は翌年から詩作を始め、雑誌への投稿詩が即座に特選となり、会社員生活のかたわら旺盛な詩作を続け、昭和38年には帰国10年目にして48歳で第1詩集『サンチョ・パンサの帰還』を刊行し、第一線の現代詩人の地位を築きました。石原は晩年には奇行が目立ち、60代にしてますます旺盛な詩作に連れて狂言自殺をくり返すようになりましたが、昭和52年11月に新作詩集2冊の編集を完了する間際に入浴中に心不全で急逝しました。

 石原吉郎は日本の昭和の歴史の犠牲者と呼んでいいような生涯を送った人でした。青年~壮年時代をまるごと兵役と捕虜に奪われた上に、帰国した石原に支払われた8年間の軍人棒給は4万円に過ぎず、しかも朝鮮戦争の開戦に応じた日本の再軍備(自衛隊発足)とともにレッド・パージの風潮が起こっていた時期だったので、シベリア抑留兵にはソヴィエトでの共産主義洗脳疑惑がかけられ、正規の再就職もままなりませんでした。39歳で詩作を始めた石原の投稿詩は選者の鮎川信夫谷川俊太郎に即座に「投稿詩のレベルどころではない」と認められて第一線級の詩人とされましたが、石原吉郎立原道造(1914-1939)と同世代なのを思うと、石原が48歳にして刊行した第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』は戦前の抒情詩とも、また戦後の「荒地」同人や詩誌「ユリイカ」に拠った詩人とも異なる異様な作風を確立したかを思い知らされます。

 今回上げた2篇のうち「位置」は詩集刊行に近い昭和36年(1961年)に、「事実」は詩人としてデビューしてからまだ3年目の昭和31年(1956年)の作品ですが、象徴詩ともシュルレアリスムともまったく無関係に平易で日常的な言葉と文体で書かれているにもかかわらず、詩の伝える緊張感は異常と言っても良いほどです。石原吉郎は兵役~捕虜体験を通じて生死の境を10年あまり強制されてきた人でした。しかしそうした伝記的な背景を知らずとも「位置」「事実」はぎりぎりの限界までに圧迫された精神状態(当然それは肉体的な死にもつながります)を切り詰めた語彙と文体で伝えてくるので、これらの詩の生まれた背景にはどれほど常人には耐えがたいほどの危機があったのだろうと読者を唖然とさせるものがあります。石原吉郎は生前あまりに存在感が大きかった詩人だけに、没後は現代史の風化とともに閑却されがちになっていますが、叫びになる一歩手前で押し殺したようなこの緊張感はおそらくいつの時代の人間にも隣り合わせのもので、石原吉郎自身も帰国後に詩人として身を立ててからも最晩年までその地獄に身を置いていたのが生涯の全詩集からうかがえます。これらは詩が詩として成り立つぎりぎりの線で成立していますし、抒情詩でも人生訓でも心境詩でもありません。しかもここには一種の軍人的な危うさ、一人一殺的な刹那への任侠的指向があり、決定的に大らかさを欠いている点で人を追い詰めるような性格の詩になっているのも否定できません。

タッド・ダメロン・ウィズ・ジョン・コルトレーン Tadd Dameron with John Coltrane - メイティング・コール Mating Call (Prestige, 1957)

タッド・ダメロン・ウィズ・ジョン・コルトレーン - メイティング・コール (Prestige, 1957)

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タッド・ダメロン・ウィズ・ジョン・コルトレーン Tadd Dameron with John Coltrane - メイティング・コール Mating Call (Prestige, 1957) Full Album : https://youtu.be/YuWFCZgpV0U
Recorded at The studio of Rudy Van Gelder in Hackensack, New Jersey, November 30, 1956
Released by Prestige Records Prestige PRLP7070, March 1957
All music composed by Tadd Dameron

(Side A)

A1. Mating Call - 5:57
A2. Gnid - 5:07
A3. Soultrane - 5:24

(Side B)

B1. On a Misty Night - 6:23
B2. Romas - 7:45
B3. Super Jet - 6:00

[ Personnel ]

Tadd Dameron - piano
John Coltrane - tenor saxophone
John Simmons - bass
Philly Joe Jones - drums

(Original Prestige "Mating Call" LP Front Cover & Side A Label)
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タッド・ダメロン(Tadd Dameron)ことタドリー・ユーイング・ピーク・ダムロン(Tadley Ewing Peake Dameron, 1917年2月21日 オハイオ州 クリーヴランド - 1965年3月8日)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニストおよび作曲家・アレンジャー。ミュージシャンとしてはジョージ・ガーシュインデューク・エリントンの影響を公言し、デクスター・ゴードン(テナーサックス・1923-1990)からも「ビバップロマン主義者」と評される一方で、allmusic.comのジャズ部門主筆批評家のスコット・ヤーノウをして「ビバップ時代を決定した作編曲家」と言わしめている。ビバップ時代最高のアレンジャーだったがスウィングやハード・バップのアーティストにもヒット曲を提供しており、カウント・ベイシーやアーティ・ショウ、ジミー・ランスフォード、ディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタインらのバンドのアレンジを手がけた。R&Bの大物ブル・ムース・ジャクソンにもアレンジを提供している。」

 というのがウィキペディアタッド・ダメロンの項目の前文になっています。1917年生まれとはセロニアス・モンク(ピアノ・1917-1982)やディジー・ガレスピー(トランペット・1917-1992)と同年で、ダメロンが名を上げたのはディジーが1944年12月にサラ・ヴォーン(ヴォーカル・1924-1990)を専属歌手に立ち上げ、チャーリー・パーカー(アルトサックス・1920-1955)とのクインテットを挟んで1949年7月まで率いていたビッグバンドの主力アレンジャーとしての業績でした。ダメロンは早くからビ・バップの作曲家としても多くのオリジナル曲を発表しましたが、ディジーとの仕事から独立して1948年に小規模~中規模バンドを興すと次々と有望な新人を輩出し(後述)、作曲家としてもサラ・ヴォーンの代表曲「If You Could See Me Now」、ガレスピー&パーカー・クインテットの代表曲「Hot House」、ガレスピー・ビッグバンドの「Our Delight」、カウント・ベイシーに提供した「Good Bait」、自己のバンドで名演を残した「Lady Bird」などさまざまなジャズマンが取り上げ、改作を生み出し、現在でも演奏され続けられている美しい名曲を残しています。

 ではダメロン自身の音楽が広く聴かれているかというと、聴かれてもいるしいないともいえる、変なことになっているのです。ダメロンのバンドは当時の先鋭新人だったファッツ・ナヴァロ(トランペット・1923-1950)、マイルス・デイヴィス(トランペット・1926-1991)、クリフォード・ブラウン(トランペット/1930-1956)、アーニー・ヘンリー(アルトサックス・1926-1957)、ワーデル・グレイ(テナーサックス・1921-1955)、デクスター・ゴードン、チャーリー・ラウズ(テナーサックス/1924-1988)、ソニー・ロリンズ(テナーサックス・1930-)を輩出し、作編曲家として大成したベニー・ゴルソン(テナーサックス・1929-)はダメロンに私淑していました。しかしダメロン・バンドのメンバーらが夭逝(ナヴァロ、グレイ、ヘンリー)、一時的引退(ゴードン)、失踪(ロリンズ)、重鎮(ゴルソン)、スター化(マイルス)していた頃には、ダメロンを録音に迎えたレーベルはインディーのプレスティッジとリヴァーサイドがわずかな枚数を制作しただけでした。

 ダメロンの全盛期は1951年のLPレコード実用化以前で、1947年~1950年の脂の乗った録音はシングル盤に相当する片面3~4分のSPレコードでした。この時期の多くの録音はLP化される時に、バンドのスター・ソロイストだった夭逝の天才ファッツ・ナヴァロ名義やワーデル・グレイのアルバムにまとめられています。その中には元々ナヴァロやグレイ名義の録音もありますから、リスナーはどれがもともとダメロン・バンドの録音なのか忘れてしまいます。さらに2番トランペットにマイルスが加入して共演していたり、病弱なナヴァロが穴を空けた時にはマイルスがメイン・ソロイストに昇格して、旧規格盤CDの『Complete Birth of Cool』のボーナス・トラックや発掘盤『The Miles Davis and Dameron Quartet in Paris - Festival International du Jazz, May 1949』(Columbia, 1977)でマイルスをフィーチャーしたダメロン・バンドが聴けますが、ブルー・ノート盤『The Fabulous Fats Navarro, Vol. 1 & Vol. 2』同様みんなナヴァロやグレイ、またマイルスのアルバムと思って聴いているのです。そして夭逝したナヴァロに兄事していたクリフォード・ブラウンが1953年にダメロン・バンドを離れた時にはニューヨークにはジャズ不況が襲い、ダメロンのレギュラー・バンドは立ちゆかなくなってしまいます。アルバム制作は続けましたが、1959年~1961年には麻薬禍でケンタッキーの刑務所に入っていました。実刑判決が執行されたということは執行猶予中に再犯があったということですから、よほど私生活にも問題を抱えていたのでしょう。

 先に上げたマイルスをフィーチャーしたコロンビア盤は発掘盤で、他にも数枚ナヴァロ時代やグレイ時代・マイルス時代のダメロン・バンドの発掘ライヴがインディー盤で出ていますが、前述の通りSP時代の録音はブルー・ノートやサヴォイのファッツ・ナヴァロ名義のアルバムに吸収されていますので、純粋に最初からLPとして制作・発売されたダメロンのアルバムは、麻薬服役前後の、
1953 : A Study in Dameronia (Prestige)*'10 LP
1956 : Fontainebleau (Prestige)*'12 LP
1956 : Mating Call with John Coltrane (Prestige)*'12 LP
1962 : The Magic Touch (Riverside)*'12 LP

 の4枚しかありません。このうち10インチ・アルバムの6管ノネット作品『A Study in Dameronia』はクリフォード・ブラウンの歿後に(またもや!)『Clifford Brown Memorial Album』としてライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパ公演中に録音された現地ジャズマンとのセッションとAB面にカップリング収録されていますから、リスナーはブラウンのアルバムと思って聴いています。『Fontainebleau』はケニー・ドーハム、サヒブ・シハブ、セシル・ペインら5管フロントのオクテット作品で、『Mating Call』を挟んだ『The Magic Touch』はフル編成のビッグバンド作品ですから、数少ないダメロン作品中『Mating Call』は例外的にテナーサックスのワンホーン・カルテットだったのがわかります。『The Magic Touch』は2年間の服役を挟んだからか、ピアノはほとんどリヴァーサイド専属のビル・エヴァンスに任せ、ダメロンは作編曲と指揮に専念しています。アルバム4作はすべてダメロン自身によるオリジナル曲で(『The Magic Touch』は集大成的アルバムでベスト選曲の再演+新曲、『A Study in Dameronia』~『Mating Call』は全曲新曲)、4作とも初期のSP・発掘ライヴ(ナヴァロ時代・マイルス時代)に劣らず現在では高い評価を受けていますが、『The Magic Touch』を遺作に3年後には48歳で亡くなっています。晩年は癌で闘病中でしたが、死因は心臓発作でした。ビ・バップ時代のジャズマンの享年をナヴァロ26歳、グレイ34歳、ブラウン25歳、パーカー34歳、ヘンリー31歳と並べていくと、当時ジャズマンの平均寿命は36~37歳とされたのももっともな気がしてきます。

 ピアニストとしてのダメロンはいかにもアレンジャーの演奏で地味なのですが、作曲家・編曲家としての才能は抜群で、むしろ歌物の伴奏に近い控えめでソフトな優雅さに特色があるピアニストでした。ただしビ・バップの主流はシンプルな作曲と最小限のアレンジの音楽でしたから、ダメロンのバンドもまた作曲やアレンジよりスター・ソロイストの力量で記憶されることになりました。ダメロンが白人だったらウエスト・コースト・ジャズのような中規模バンドによるアンサンブルがセールス・ポイントにもなったでしょうが、黒人ジャズのビ・バップではアンサンブルはさほど注目されなかったのです。さらに中規模バンドは人数に見合った集客力がないと維持が難しく、常にレギュラー・メンバーを揃えるのも困難で、マイルスの加わったパリの音楽祭の招聘コンサート(対バンはマイルスの古巣パーカー・クインテットでした)でもクインテット編成でした。発掘ライヴのタイトルは『The Miles Davis and Dameron Quartet in Paris - Festival International du Jazz, May 1949』ですがマイルスのワンホーン・カルテットではなく、ジェームス・ムーディ(テナーサックス)入りのダメロン・カルテットにマイルスのゲスト参加、というこじつけタイトルなので、実際はダメロン・クインテットだったのです。本作『メイティング・コール』はテナーのワンホーン・カルテットですから、作曲とアレンジ命のダメロンにとっては勇断だったでしょう。まずよほど自信のある新曲を揃えなければいけませんし、ピアノ・トリオ+ワンホーンのカルテットはバンドとメイン・ソロイスト両方の表現力と力量が要求されます。ジョン・コルトレーン(テナーサックス・1926-1967)にとっても本作はプロ・デビュー以来初の全編ワンホーン・アルバムとなり、ピアノ・トリオとのワンホーン・カルテットは生涯コルトレーンのソロ活動の基本フォーマットになりました。その点でも本作は両者にとって貴重なアルバムで、仕上がりはやや小粒で地味ですが名作と呼ぶに足るものになっています。

 録音はA1、A3、A2、B3、B1、B2の順に行われています。コルトレーンとドラムスのフィリー・ジョーは当時マイルスのバンドの同僚で、マイルスは先月10月の3時間12曲一気録音のセッションでプレスティッジとの契約を満了してコロンビア移籍の条件を満たしたばかり、コルトレーンはプレスティッジとソロ契約を結び、フィリー・ジョーはすぐ後にプレスティッジとケンカしてリヴァーサイドに移籍する直前の録音でした。コルトレーンも翌1957年春には飲酒癖が原因でマイルスのバンドを一時的にクビになりますが(すぐにセロニアス・モンクのバンドに誘われてマイルス・バンドでのプレイ以上の注目を集め、1958年には呼び戻されます)、本作はコルトレーンにとっても巨匠ダメロンとの共演の誉れを飾る意欲作だったでしょう。佳曲ぞろいのアルバムA面をまず録音したのはリテイクの余地を考えたか、録音前の打ち合わせがA面曲に入念に集中していたと思われます。録音後半をB3から始めたのはアルバム中もっともスウィンギーなアップテンポ曲で肩をほぐし、再びB1のミディアム・バラードをじっくり演奏する手順だったのでしょう。録音順で最後のB2はピアノ・トリオ主導のレイジーなブルースですからメンバー全員お手の物で、このアルバムは5分~7分台の曲がAB面3曲ずつという構成ですが、全6曲でミディアム・バラード3曲、ファスト・スウィング2曲、スロー・ブルース1曲という配分はありそうであまりない配曲です。この構成も小粒で地味な印象につながっていますが、B2などは案外そういやブルースやってないな、と苦笑しながらセッションの終わりになって即興的にストック曲の中から出してきたのかもしれません。名作とはいえ本作はジャズ史に欠かせないアルバムという性格のものではありませんし、これほど肩の力を抜いたコルトレーンも珍しいのですが、コルトレーンを知るには必聴のアルバムとも言えないでしょう。ですが主にダメロンの繊細でリリカルなバラード曲中心の本作にはこのアルバムにしかない、ほんのりとしたいいムードがあります。成功した臨時メンバーのセッション作にすぎないとも言えますが、本作があるのはダメロンにとってもコルトレーンにとっても幸福な記録になったとほのぼのするアルバムです。

渋沢孝輔詩集『漆あるいは水晶狂い』昭和44年(1969年)より

渋沢孝輔詩集『漆あるいは水晶狂い』

昭和44年(1969年)10月・思潮社
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「弾道学」

 渋沢孝輔

叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難かしい
凍原から滑り落ちるわるい笑い
わるい波わるい泡
波さわぐ海のうえの半睡の島
遙かなる島 半分の島 半影の島
喉につかえるわるい沈黙
猫撫で声のわるい呪い
血の平面天体図をめぐるわるい炎
きみは鋏のように引きちぎられて
わたしの
錠前がその闇のなかで静かに眠ることもなく
おまえはだれ鬼はだれわるいだれ
でもその木霊をすこしかしてくれ
わたしの中心の燃える円周となれ
涜神の言葉となってはじける歌
狂暴なサヴァンナで
有毒の花 癲癇の朝 首刎ねられる太陽の歌

(詩集『漆あるいは水晶狂い』より)

「水晶狂い」

 渋沢孝輔

ついに水晶狂いだ
死と愛とをともにつらぬいて
どんな透明な狂気が
来りつつある水晶を生きようとしているのか
痛いきらめき
ひとつの叫びがいま滑りおち無に入ってゆく
無はかれの怯懦が構えた檻
巌に花 しずかな狂い
ひとつの叫びがいま
だれにも発音されたことのない氷草の周辺を
誕生と出逢いの肉に変えている
物狂いも思う筋目の
あれば 巌に花 しずかな狂い
そしてついにゼロもなく
群りよせる水晶凝視だ 深みにひかる
この譬喩の渦状星雲は
かつていまもおそるべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か
痛烈な断崖よ とつぜんの傾きと取り除けられた空が
鏡の呪縛をうち捨てられた岬で破り引き揚げられた幻影の
太陽が暴力的に岩を犯しているあちらこちらで
ようやく 結晶の形を変える数多くの水晶たち
わたしにはそう見える なぜなら 一人の夭逝者と
わたしとの絆を奪いとることがだれにもできないように
いまここのこの暗い淵で慟哭している
未生の言葉の意味を否定することはだれにもできない
痛いきらめき 巌に花もあり そして
来たりつつある網目の世界の 臨界角の
死と愛とをともにつらぬいて
明晰でしずかな狂いだ 水晶狂いだ

(詩集「漆あるいは水晶狂い」より)


 これも1960年代末の日本の現代詩のビッグバンのひとつに数えられる詩集です。「弾道学」は詩集巻頭詩、「水晶狂い」は詩集表題作で、さらに「漆」という表題作もありますが、難解さは同等です。この詩集は「現代詩の難解さもここまできたか」ということで大きな反響を呼びましたが、逸見猶吉の『ウルトラマリン』、伊東静雄の『わがひとに與ふる哀歌』が切り開いた屈折した喩法をさらに戦後詩を経由して推し進めたものでしょう。

 渋沢孝輔(1930-1998)はフランス文学者で、世代的には谷川俊太郎大岡信飯島耕一らと同期の詩人であり、この第3詩集『漆あるいは水晶狂い』の前に第1詩集『場面』を昭和34年(1959年)に、第2詩集『不意の微風』を昭和41年(1966年)に上梓していましたが、20代前半には作風を確立した同世代の詩人たちに遅れをとって、40歳目前の第3詩集でようやく独自の文体にたどり着きました。渋沢孝輔は以降、喉頭癌による苦痛に満ちた晩年の闘病詩集まで、この第3詩集の文体や発想を追求していくことになります。

 渋沢孝輔の詩は、手法的には象徴詩シュルレアリスムの折衷で、読者が意味の上で解読していくためには「島」「厳」「花」「水晶」といったキーワードに作者が隠した本来の意味を代入していくことになります。「夭逝者」とはランボーやラフォルグ、ロートレアモン渋沢孝輔が専攻としていたフランス象徴詩の夭逝詩人たちでしょう。そこで現れてくるのは「詩作の不可能性」というマラルメ的なテーマ、「詩による詩論」という仕掛けなのですが、そうした意味よりも文体の屈折による思考の錯乱の方が強く意図されているのは明らかで、この文体もまた1970年代以降の現代詩の一方の主流になっていくのです。

カン Can - エーゲ・バミヤージ Ege Bamyasi (United Artists, 1972)

カン - エーゲ・バミヤージ (United Artists, 1972)

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カン Can - エーゲ・バミヤージ Ege Bamyasi (United Artists, 1972) Full Album : https://youtu.be/RrV5bwWrAPc
Full Album Track by Tracks : https://www.youtube.com/playlist?list=PLOAPJm_E2dz2BLKuJpCdSAafx8B1KuwAe
Recorded at Inner Space Studio, Cologne, West Germany, 1972
Released by United Artists UAS 29-414, November 1972
All songs written and composed by Karoli, Czukay, Liebezeit, Schmidt and Suzuki.

(Side 1)

A1. Pinch - 9:28
A2. Sing Swan Song - 4:49
A3. One More Night - 5:35

(Side 2)

B1. Vitamin C - 3:34
B2. Soup - 10:25
B3. I'm So Green - 3:03
B4. Spoon - 3:03

[ Can ]

Holger Czukay - bass, engineering, editing
Michael Karoli - guitar
Jaki Liebezeit - drums
Irmin Schmidt - keyboards
Damo Suzuki - vocals

(Original United Artists "Ege Bamyasi" LP Liner Cover, Inner Poser & Side 1 Label)

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 カンのバンド存続中に発表された『Monster Movie』1969、『Soundtracks』1970、『Tago Mago』1971,『Ege Bamyasi』1972、『Future Days』1973、『Soon Over Babaluma』1974の初期~中期6作、また『Unlimited Edition』1976(1968年~1974年アウトテイク集)と『Delay 1968』1981(1968年~1969年アウトテイク集)はレッド・ツェッペリンキング・クリムゾンザ・バンドスティーリー・ダンなど同時代の英米バンドの全アルバムに匹敵するもので、しかも継続的に影響力を保ち続けている点でもカンは彼ら英米の巨匠バンドに勝るとも劣りません。偶然ですが上記のバンドがいずれもアルバム6~7作(ライヴ盤、企画盤、編集盤除く)を全作品としているのは暗示的で、カンの場合も初期~中期6作の後、ヴォーカリストの脱退こそあれメンバー・チェンジなしに別バンドとも言える方向転換がありました。ダモ鈴木在籍時最後の『Future Days』、ダモ脱退後メンバーの補充なしで制作した『Soon Over Babaluma』を最後にオリジナル・コンセプトのカンはバンド自身の意志で変わったと言えます。それはイギリスのヴァージン・レコーズへの移籍と16トラック・レコーダーによるマルチ録音(それまでのカンの全アルバムは2トラック録音という信じがたい制作がされていました)の導入をきっかけにして、はっきりと同時代性を意識したエスノ・テクノ・ロックへの転換でした。具体的にはレゲエからの影響から始まり、徐々にアフロビートに変化していったのがヴァージン移籍以降のカンで、それまでの混沌とした音楽性を大胆に整理したものです。

 カンほどのバンドですからヴァージン移籍後の『Landed』以降のアルバムも凡百のロック・アルバムとは一線を画しているとは言えますが、どの曲をとっても驚かされるようなアイディアが盛り込まれていた2トラック・レコーダー録音時代のアルバムと較べて、アイディアはアルバム単位のコンセプトにとって代わってしまいました。これは偶発性に頼らないバンドの成熟を示すことでもありましたが、それまでに較べると普通のロック・バンドになってしまった感は否定できません。初期~中期のマルコム・ムーニー、ダモ鈴木ら素人で非白人のヴォーカリストの八方破れな個性を後期のカンは必要としなくなり、トラフィックからロスコー・ジー、リーバップら黒人ミュージシャンを加入させてもサウンドに非西洋的な異化効果を求めてではなく、プロフェッショナルな次元でエスニック・ビートを咀嚼するためでした。ヴァージン移籍後のカンも十分に実力を発揮したバンドでしたし、解散アルバム『Can』1979は後期カン最後の力作になりましたが、アルバム1枚で本作『Ege Bamyasi』の1曲に盛り込まれただけのアイディアしかないと極論を言ってしまうこともできます。

 現在では、いち早く脱ビート・グループ以降の'70年代的スタイルを確立し、なおかつ英米ロックとは異なる音楽的発想で出身国ならではの音楽性を達成したヨーロッパのバンドとして、カンはドイツのみならず突出したバンドと見なされています。イタリアではレ・オルメ、フランスではアンジュが後続バンドを牽引した存在でしたが、カンはオルメやアンジュのデビュー前からすでに国際進出を果たしており、ドイツ本国と同時に全アルバムが英米でもメジャー・レーベルから遺漏なく発売されて、チャート入りこそせずとも着実なセールス実績を上げていました。また、75年の第7作『Landed』から79年の解散作『Can』までの後期カンは、イギリスのレーベルのヴァージン~ハーヴェストと直接の原盤契約を結んでいます。つまり実質的に後期カンはドイツのバンドとは限定できないので、出身地ケルンを拠点としていた初期~中期の6作はドイツのバンドのアルバムとして発表されましたが、直接イギリス原盤になった後期5作はドイツ出身のイギリスのバンドのアルバムになったというややこしい事態がありました。アンジュと並ぶフランスの大物・ゴングもヴァージンと契約しましたが、ゴングの場合はオーストラリア出身のイギリス人がリーダーでメンバーも英仏混合、ヴォーカルやクレジット表記も英語という最初から無国籍的なバンドでした。カンもまた当初から国際進出を目指していた無国籍性の強いバンドでしたが、イギリスのバンドとなった時点からカンはドイツのバンド特有の無責任な無国籍性(ドイツは国内市場が狭いため、最低でもドイツ語圏全般への輸出が求められました)から、同時代のエキゾチシズムとエレクトロニクスを特色としたフュージョン系のプログレッシヴ・ロックの型にはまってしまった感があります。

 カンの場合マルコム・ムーニー、そしてダモ鈴木の存在は、かつての日本のリスナーにはうさんくさく色物めいたバンドのように見られ、むしろダモ鈴木の抜けたヴァージン移籍後のアルバムから抵抗感なく受け入れられていました。イギリスでのカンは『Landed』1975、『Flow Motion』1976、『Saw Delight』1977がヴァージン契約時の三部作で、ハーヴェストに移籍して『Out of Reach』1978、『Can』1979を発表して解散します。ですが現在圧倒的に再評価の対象になり、カンを世界的に'70年代の最重要バンドと認知させているのはマルコム・ムーニー~ダモ鈴木在籍時のカンのアルバムで、ことにダモ鈴木の全面参加した『Tago Mago』『Ege Bamyasi』『Future Days』の3作になります。『Tago Mago』は実質的に2枚のアルバムをカップリングした2枚組LPだったので、評価が突出しているのは質量ともに他の2枚より規模が大きいからというのもあるだろう。この3作の欧米の主要メディア評価は非常に高いものです。
◎Tago Mago (United Artists, 1971) - Metacritic 99/100, Allmusic★★★★★, Pitchfork Media 9.3/10(Original Edition) 10/10(40th Anniversary Edition), Stylus Magazine (B), Uncut (favorable)
◎Ege Bamyasi (United Artists, 1972) - Allmusic★★★★★, Pitchfork Media 9.8/10, Stylus Magazine (A)
◎Future Days (United Artists, 1973) - Allmusic★★★★★, Pitchfork Media 8.8/10

 3作連続★★★★★など英米の一流バンド級の評価でしょう。アルバム内容は少しずつ違い、『Tago Mago』は実験色やガレージ色の強い初期カンのカラーが混ざっています。『Ege Bamyasi』は『Tago Mago』のまとまりの良い部分を整理したアルバムで、10分前後の曲のうち「Pinch」はカン得意のガレージ系ファンクですし、「Soup」も基本はファンクですが複数曲をコラージュしたのがわかる実験的な曲です。他の3分~5分台の曲はキャッチーとすら言えて、「Spoon」はテレビ・ドラマ「Das Messer(The Knife)」の主題歌に使われてドイツ本国でのトップ10ヒットになり、カンの代表曲になりました。AB各面に大曲1曲ずつ、小曲数曲という構成は『Monster Movie』や『Tago Mago』のディスク片面小曲数曲、片面1曲という構成をアルバムのAB面に凝縮させたものと言えます。それにしても「Pinch」「One More Night」「Vitamin C」「Soup」「I'm So Green」「Spoon」と、A2「Sing Swan Song」を除く全7曲中6曲がリズム構造ではソウル&ファンクで、ダモ鈴木のヴォーカルもブルースと演歌の折衷のようなペンタトニック音階なのは改めて聴くと唖然とします。本作のカンは音楽的要素はほぼ9割方黒人音楽から借りてきているのに、まったく黒人音楽とは異なる無国籍ロックに変えてしまっています。

 曲の良さでは『Ege Bamyasi』は『Soundtracks』と並ぶものでしょう。実験的な「Soup」は『Tago Mago』の「Peking O」の続編とも言うべきコラージュ曲ですし、「Pinch」「Sing Swan Song」「One More Night」「Vitamin C」「I'm So Green」「Spoon」など全曲ベスト盤入りしてもいいくらい曲の粒が揃っています。『Soundtracks』は映画主題歌集でしたから統一感の点で評価は一段落ちるとされますが、『Ege Bamyasi』はカンがコンパクトな曲で構成したアルバムでも傑作を作ってみせた見本になりました。そして次作『Future Days』では、このアルバムの「One More Night」や「I'm So Green」「Spoon」で新しい試みとして現れてきた透明感と浮遊感のあるサウンドアンビエント/テクノ的な傾向に突き抜けて、再び『Monster Movie』の再現とも言えるA面3曲・B面1曲の大作構成を取り、ダモ鈴木在籍時最後のアルバムにして『Monster Movie』とは対蹠的な傑作を作り出すことになります。

吉増剛造詩集『黄金詩篇』昭和45年(1970年)より

吉増剛造詩集『黄金詩篇

昭和45年(1970年)3月・思潮社
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 現役詩人のなかで巨匠格にしてもっとも旺盛な活動を続けているのが吉増剛造(1939-・東京生れ)で、国際的評価も高く、もし次のノーベル文学賞が日本の詩人から選出されるなら最大の候補と目されている存在です。作風はシュルレアリスムビートニク、また先行する日本の戦後詩から強く影響を受けたものですが、数行でこの人とわかる独自の文体を持った詩人です。年間最優秀詩集に与えられる高見順賞の第1回を受賞し、吉増の声価を決定した第2詩集『黄金詩篇』(昭和45年=1970年3月・思潮社)から比較的短い詩篇をご紹介します。

「朝狂って」

 吉増剛造

ぼくは詩を書く
第一行目を書く
彫刻刀が、朝狂って、立ちあがる
それがぼくの正義だ!

朝焼けや乳房が美しいとはかぎらない
美が第一とはかぎらない
全音楽はウソッぱちだ!
ああ なによりも、花という、花を閉鎖して、転落することだ!

一九六六年九月二十四日朝
ぼくは親しい友人に手紙を書いた
原罪について
完全犯罪と知識の絶滅法について

アア コレワ
なんという、薄紅色の掌にころがる水滴
珈琲皿に映ル乳房ヨ!
転落デキナイヨー!
剣の上をツツッと走ったが、消えないぞ世界!

(詩集『黄金詩篇』より)

 この巻頭詩から、ほとんど中学生の作文のような無垢な稚拙さと空回りを恐れない大仰さがかもしだすユーモアには、それまでの日本の詩に滅多に見られなかった風通しの良さが感じられます。吉増剛造(第1詩集は『出発』昭和39年)、岡田隆彦(『われらのちから19』『史乃命』昭和38年)らはビートルズと同世代の、'60年代以降の詩の変質を実現したもっとも早い詩人でした。巻頭から二番目の作品も佳作です(この詩集は後半ほど長詩が増えます)。吉増は'70年代半ば以後ほとんど長篇詩、大冊の詩集まるごと1冊が長編詩なのも珍しくない詩人になるので、密度の高い初期の短詩はこの詩人を読み始めるのに好適です。

「燃える」

 吉増剛造

黄金の太刀が太陽を通過する
ああ
恒星面を通過する梨の花

風吹く
アジアの一地帯
魂は車輪となって、雲の上を走っている

ぼくの意志
それは盲ることだ
太陽とリンゴになることだ
似ることじゃない
乳房に、太陽に、リンゴに、紙に、ペンに、インクに、夢に! なることだ
凄い韻律になればいいのさ

今夜、きみ
スポーツ・カーに乗って
流星を正面から
顔に刺青できるか、きみは!

(詩集『黄金詩篇』より)

 以上の2篇はふたつでひと組でしょう。一種のメドレーとして詩集巻頭の2篇に配置されています。この詩人は'80年代の大作『オシリス、石の神』『螺旋歌』で大詩人の名を決定的にしますが、初期の短詩はキャッチャーで親しみやすいものです。

エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - ラスト・セッションズ Last Sessions (Inner City, 1977)

エルモ・ホープ - ラスト・セッションズ (Inner City, 1977)

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - ラスト・セッションズ Last Sessions (Inner City, 1977) Full Album : https://youtu.be/xrbEEK4YG8Y
Recorded at A-1 Studios, New York, March 3 (A3 only) & May 9, 1966
Released by Inner City Records IC 1018, 1977
All compositions by Elmo Hope

(Side 1)

A1. Roll On - 5:50
A2. Bird's View - 5:18
A3. Pam - 2:39
A4. If I Could I Would - 3:51

(Side 2)

B1, Grammy - 5:11
B2. Toothsome Threesome - 8:55
B3. Vi Ann - 2:14
B4. Punch That - 6:12

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
John Ore - bass
Philly Joe Jones - drums (A3 only)
Clifford Jarvis - drums

(Original Inner City "Last Sessions" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 不遇ピアニスト、エルモ・ホープ(1923-1967)の前作はトリオ2曲、セクステット7曲(うち2曲ヴォーカル入り)の『Sounds From Rikers Island』(1963年8月19日録音)でしたが、1953年のジャズ・デビュー以来11作目の同作のあとホープとレコーディング契約する会社はありませんでした。ホープは1962年には一時的にジャッキー・マクリーンのサイドマンを勤め、1963年にはレイ・ケニー(ベース)とレックス・ハンフリーズ(ドラムス)とのトリオ、1964年にはジョン・オール(ベース)とビリー・ヒギンズ(ドラムス)とのトリオで時おり管楽器奏者を迎えて細々とライヴ活動を行っていましたが、1965年には薬物禍による健康悪化でさらに活動が低下します。R&Bのインディー・レーベル、スペシャルティからようやく3年ぶりの録音が持ちかけられたのは1966年になってのことで、3月8日にジョン・オールとフィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)とのトリオで5曲(スタンダード2曲、オリジナル新曲2曲、即興ブルース1曲)を録音し、また5月9日にはオールとクリフォード・ジャーヴィス(ドラムス)とのトリオで9曲12テイク(スタンダード1曲、旧作オリジナル曲1曲、新曲オリジナル曲7曲)を録音しましたが、スペシャリティは録音をお蔵入りし、この最後のトリオ録音2セッションはインディーのインナー・シティー・レコーズに売却されて発売される1967年まで未発表になりました。ホープの最後のライヴ出演はニューヨークのジャドソン・ホールでの1966年の若手ミュージシャンたちとのコンサートでしたが、出演した若くてピアニストのホレス・タプコットによる証言ではホープは「まったく腕が動かせず、演奏できなかった」といいます。翌1967年にホープは麻薬の過剰摂取から病院に搬送され、重篤のためそのまま入院しましたが、衰弱が甚だしく、数週間後の5月19日に夫人に看取られ肺炎で逝去しました。翌月誕生日を迎えるはずの享年43歳11か月でした。バーサ夫人は当時31歳で、幼い娘と息子の2児が残されました。バーサ夫人はピアニストとして活動を続け、令嬢のモニカはジャズ・シンガーになりました。

 以上1962年からのホープの晩年は英語版ウィキペディアによりましたが、ホープの幼なじみのバド・パウエル(1924-1966)が5年間のパリ移住から帰国したのが1964年8月で、9月にはジョン・オールとJ・C・モーゼズ(ドラムス)とのトリオで『Return of Bud Powell』を録音しニューヨークのバードランドにオールとモーゼズとのトリオで秋まで出演していましたが、失踪をくり返しては旧友に金銭を無心しに現れる具合で、1965年5月の若手ミュージシャンとのタウン・ホールでのコンサートに出演したのを最後に消息が途絶えます。パウエルは1966年7月31日に入院先の病院で栄養失調と肺結核により逝去しました。享年41歳でした。ホープの最後の(まったく演奏できなかったという)ライヴ出演も同時期で、ホープの5月の逝去は7月のジョン・コルトレーンの40歳の急逝(肝臓癌で、ほぼ1年前から余命宣告されていましたが、生前はひた隠しにされていました)に隠れてほとんど話題にもなりませんでした。レニー・トリスターノの最後のライヴ録音も1966年ですし、セロニアス・モンクも1968年のコロンビアとの契約満了後はほとんど新作がなくなります。自殺同様だったと証言されるビル・エヴァンス晩年の自暴自棄な私生活といい、ジャズ・ピアノのイノヴェイターの後半生がほとんど死屍累々と言ってよいほどなのは、かつてジャズがどれほどミュージシャンの生命を消耗させるものだったかを物語るようです。

 録音から11年間も未発表になっていた(1974年にテスト・プレスされた説もありますが、市販されず実物も確認されていません)エルモ・ホープ最後のアルバムは、裕にアナログLP2枚分の分量がありました。まず第1集に当たる全8曲オリジナル曲(A2「Bird's View」のみ旧作オリジナル曲「Low Tide」の改題で、新曲は7曲)の『Last Sessions』が発売され、半年置いて『Last Sessions Volume.2』が発売されました。こちらの方がフィリー・ジョーのドラムスでのセッションからの曲が多く、また1曲あたりの演奏時間も長い力演が聴けますが、音源リンクが引けないので曲目だけ上げます。『Last Sessions』8曲と『Volume.2』6曲でマスター・テイク14曲が発表され、『Volume.2』の各曲はLPでは短縮編集で、ここではCDで復原された全長版の長さを上げました。また現行の2枚組CDでは「Bird's View(Low Tide)」「Roll On」「Vi Ann」の別テイクが追加され、全17テイク14曲が網羅され、曲順も2回のセッションを分けてマスター・テープ通りの録音順に並び直されています。アルバムとしてはオリジナル曲集の『Last Sessions』、スタンダードが半数を占め2/3がフィリー・ジョーがドラムスのセッションの『Volume.2』と性格が分かれて聴きやすいのですが、当時の通例でホープ自身にはほとんど編集権はなかったでしょうし、また生前未発表の遺作ですからインナー・シティー盤の編集がオリジナル盤とは必ずしも呼べません。CD化に際してインナー・シティー盤通りの2枚に分けたヴァージョンと、コンプリート化した2枚組ヴァージョンの2通りがあるのも本作の場合どちらも有用と言えるでしょう。インナー・シティー盤『Volume.2』の収録曲は次の通りです。聴きごたえは『Last Sessions』に劣りません。
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Elmo Hope Trio - Last Sessions Volume.2 (Inner City, 1977)
Recorded at A-1 Studios, New York, March 3 (Side 1 & B3) & May 9 (B1, B2), 1966
Released by Inner City Records IC 1037, 1977
All compositions by Elmo Hope except as indicated
(Side 1)
A1. I Love You (Cole Porter) - 10:50
A2. Night In Tunisia (Dizzy Gillespie, Frank Paparelli) - 10:16
A3. Stellations - 4:22
(Side 2)
B1. Somebody Loves Me (Buddy DeSylva, George Gershwin, Ballard MacDonald) - 8:42
B2. Bertha, My Dear - 8:04
B3. Elmo's Blues - 10:42
[ Elmo Hope Trio ]
Elmo Hope - piano
John Ore - bass
Philly Joe Jones - drums (Side 1 & B3)
Clifford Jarvis - drums (B1, B2)

 晩年のバド・パウエルを迎えたのもニューヨークのフリー・ジャズ界で、モーゼズはニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴのメンバー、また最後のライヴ出演はフリー・ジャズの新興レーベル、ESPのミュージシャンたちのコンサートでしたが、ベーシストのジョン・オールが同時期にホープとバドの両方のレギュラー・ベーシストになり、ホープのラスト・レコーディングのクリフォード・ジャーヴィスもサン・ラ・アーケストラのドラマーでした。『Rikers Island』でやはりサン・ラ・アーケストラのジョン・ギルモア(テナーサックス)、ロニー・ボイキンス(ベース)と共演した縁からと思われますが、バド・パウエルの晩年の演奏同様このラスト・レコーディングのエルモ・ホープはいっそうセロニアス・モンクに近く、それどころかバップ色の強いタイプのフリー・ジャズのピアニストと呼んでもいいほど演奏に大胆な変化が見られます。フリー・ジャズのミュージシャンは必ずモンクのオリジナル曲をレパートリーに加え、バド・パウエル的なエモーショナルな演奏を特色としていましたが、バド・パウエルはモンクの弟分から出てビ・バップ以降のモダン・ジャズ・ピアノの規範となった技法を確立したピアニストでした。またバドの旧友のホープも、バドにはなりきれないながらバド・パウエルの系譜のビ・バップ・ピアノからジャズ界に入っており、晩年のバドとホープがともにモンクをさらに崩した、または過激化したような奏法に踏みこんでいたのは示し合わせたような現象です。レニー・トリスターノ生産未発表のほとんど最後のスタジオ録音作品『Note To Note』もそうですが、セシル・テイラービル・エヴァンスら新しい世代のピアニストとも違う形でインプロヴィゼーションの可能性を探っていたか、はたまた迷走してしまったかのようにも見えます。意欲的でもあれば迷走とも見えるのはバドにしろトリスターノにしろ、またホープにしろ表現方法が非常に個人的な方向に向かっているからで、売れるようなジャズでもなければこれを出発点にして拓ける方向性というのも出てこないので、結果的にバドとホープ、トリスターノはほぼ同時期にラスト・レコーディング作品を録音していたわけですが、この先まだ順調なキャリアが残せていたとしても次の手が見えないほどに音楽が煮詰まっている印象を受けます。本作でのホープは旧作オリジナルでも別人のような、しかしホープ以外には弾けないような演奏に踏みこんでいて、ブルー・ノートからの初期録音やロサンゼルスでの『Elmo Hope Trio』、ニューヨーク帰郷後の『Here's Hope !』『High Hope !』、ソロ・ピアノ作『Hope-Full』などホープ作品の最高水準をさらに更新しているのは間違いありません。

 さらに言えば、モンクやトリスターノ、バドのように真に奥底の見えない演奏をホープが達成したのは、本作までは片鱗しか見せなかったことでした。ホープはモンクやトリスターノのように精神状態を反映させることなく強靭な音楽を作ることもできなければ、精神状態に極端に左右されるバド・パウエルほどの強度もなく、どこか脆弱で強度に欠けるピアニストでした。しかしニューヨーク帰郷後のピアノ・トリオ作品やソロ・ピアノでは次第にモンクに接近しながら旧友の天才バドにも匹敵する強靭なタッチを徐々に披露するようになり、バド同様精神状態を露骨に反映させる演奏を打ち出すようになってきています。ブルー・ノートでのドナルドソン&ブラウン・クインテットを唯一成功させた以来管楽器入りの編成ではどこか存在感が稀薄で、気弱なピアニストとの印象が拭えなかったのも『Rikers Island』で初めて管楽器入りセクステットで充実した成果を実現できました。しかしホープの本領はピアノ・トリオにあり、ホープのような実力的中には第二線級のピアニストが連続してピアノ・トリオのみに絞った作品を制作する企画はごく限られた機会になりましたが、すでにライブではまったく演奏ができないほど衰弱していたホープが本作のような全力を尽くした力作をものした自体が奇跡的な出来事だったのです。フィリー・ジョーはR&Bバンドでのレコード・デビュー以来の肝胆肝照らす旧友であり、ホープのキャリアがフィリー・ジョーとの共演から始まりフィリー・ジョーで閉じたのにも感慨の深いものがあります。本作はホープの遺言的アルバムですが(次作のレコーディング依頼はまったく絶望的だったでしょう)、ホープの最大の異色作でもあればこのピアニストがマイナスの手札をすべて表に生かして見せた未完の傑作です。しかしその真価はこれまでのホープ作品の跡を追い、かつ1966年という微妙な、キャリア末期にかろうじて成立した背景を抜きにはできず、聴くべき順位もまた最後になる性格を免れません。そしてホープの全アルバムも録音55年~75年を経ていまだに再評価の途上にあります。今回までで全アルバムをご紹介しました。ご鑑賞の一助になれば幸いです。

岡田隆彦詩集『史乃命』昭和38年(1963年)より

岡田隆彦詩集成』

令和2年(2020年)4月1日・響文社刊
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「史乃命」

 岡田隆彦

喚びかける よびいれる 入りこむ。
しの。
吃るおれ 人間がひとりの女に
こころの地平線を旋回して迫っていくとき、
ふくよかな、まとまらぬももいろの運動は
祖霊となって とうに
おれの囲繞からとほくにはみでていた。
あの集中した、いのちがあふれるとき、
官能の歪みをこえて、
おまえの血はおれを視た。世界をみた。しびれて
すこしくふるえる右、左の掌は
おれの天霧るうちでひらかれてある。
おれは今おそろしい と思う。
飛びちらん この集中した弾みのちから!
愛を痛めるものを峻別するだろう。
聴け 明澄音は、
いとも平常な表情をして、
吹きあげる史乃の言だまであり、
猛禽類を臭い海原へさらって、
おまえは路上軌線などの斜に佇んで、
しごとへつく男 なにかをひらってくるおれ
くしゃくしゃの通勤袋なんぞを振って出ていく男へ
朱い丸い光をフッフッと
投げおくっている。護符のように
おれにぶらさがっている形式はすべて
照りはえよ。きらめけよ ときに
豚殺しの手斧のように

フッフッと
いわし雲からまた反り、おまえのオッパイの
鼓動が素朴にころがっているよ。
出きあいのブラウスがおれの街まちに素朴に
ヒラヒラしていて、流行り歌や
足はこびをつかまえて
律動しているよ。
実りあるべき目ざめはひる日中進んでいく。
史乃とおれとの遠感が
意識をはぐくみ、目的と等閑とに意識を頑なに
そして敏捷に応えさせているのだ。
ひとつ温い声 官能の歪みにゆがんで
三千世界におちこむ心あり、ふたつ
流砂をたえて舟に帆をあげる、また心あり。
人間群落をかこむ侮蔑的な千重のわくが
むなしい音をたてて迫ってくるのを フッフッ
切るだろう。
おれはひと筋道に勇みこころをふくらましていく。
おれの固有の経験のかけらをもろもろ
祖霊の唇や肺気泡、熱っぽく深い、
容れもののなかに吸いとろうとする女・史乃。
川 乳房 耕地のうえの空 たとえば
ふかい腰は形象と非形象の分けつより
一歩先んじてしまっていて
(心ねと唇たちを たれが分離できるだろう)
(言ってごらん) かわ ちぶさ
はたけのうえのそら。視ている深いひとみ
みがまえている深い川。

おれが持続する証しは こんなにも美しい実体だ。しの。この東京の橋桁の下もインシュージアズムのまためくるめき 唯一ひとの女はますます黙りこくって巨きな星になり得る。おれの日常は 食事をとることも 真赤になること、窓から顔をのぞかせるのも あふれるもののために 聖なる風が狂的に織りなす形式か。おまえの好きなおれの熟した丸いしるしも しの 即時の磁場に乱れはねちって
見よ いちぢくのように開いている。 (そんなに吸いこむなよ) おまえの脚腰 平たいおなかは どこかの始源がのこした壁の羅列して敷きつめぬかれた青いトビ魚や鳳の絵のなかかに 活きているのだよ。

抱きあって形ないしぐさをくりこむあとに
そっと息を吹きかけあう疲れの汗は、
数分、たれのものでもないお祈りで、
とてもたまらないほど排卵している。
いのちの記念や時の跡ではなく、
エナジーそのものでしかなく 史乃 おれ
の光をもらう倖せをひとっ跳び。
形にかたまらず 翔んでいるよ
さあ どんな方角へも動いていける。
欣喜雀躍の羽羽はまこと麗しくヒラヒラヒラ、
涙も溜いきもついていけない。だからこそ
女ひとはまたいつか死ぬるだろう。
その死は史乃の死か おれの死か
一体たれが区分けしてみせる?
あふれるおまえの赤い夜の川のなかで唯今、
唇たちに吸われて唯今 おれが 唯今
たしかに放らつだからこそ、ここに
おまえが唯今いるからこそ、
オッパイなんかあてどなく、
彫りおこそう クソッタレ
史乃命。しのいのち。

おれは豊穣な畏怖に祭られている おまえの流れとその淵を体現せしめるおれのちからの息吹腔からフッフッと 青そらを転がして還魂し そのうえ 飛天をくるしげに生み散らす。これはとほい秘めごとだ。

(詩集『史乃命』1963より)


 本作も1960年代の現代詩を代表する作品として著名なものです。岡田隆彦(1939-1997)は後にアルコール依存症の苦しみをテーマにした詩集も残しており(詩集『時に岸なし』昭和60年=1985年)、享年58歳とまだ早逝が惜しまれる年齢で亡くなりましたが、史乃夫人に捧げた恋愛詩集『史乃命』は第1詩集『われらのちから19』(昭和38年=1963年)、第3詩集『わが瞳』(昭和47年=1972年)と並び日本の詩には珍しく肯定感と生の喜びを斬新な文体で歌い上げています。飯島耕一ら先行する戦後詩の世代からもはっきりと新しい詩意識があり、また岡田隆彦と同年生まれで同人誌仲間だった吉増剛造の同時期の作品とともに1970年代の詩の先駆けとなった過渡的なスタイルとも、これはこれで1960年代らしい詩の達成とも目せるものです。

カン Can - タゴ・マゴ Tago Mago (United Artists, 1971)

カン - タゴ・マゴ (United Artists, 1971)

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カン Can - タゴ・マゴ Tago Mago (United Artists, 1971) Full Album : https://youtu.be/eLNRCDPKkU0
Recorded at Inner Space Studio in Schloss Norvenich, near Cologne, Germany, November 1970-February 1971
Released by United Artists 29 211/12 XD, February 1971
All Songs written and composed by Can

(Side 1)

A1. Paperhouse - 7:28
A2. Mushroom - 4:03
A3. Oh Yeah - 7:23

(Side 2)

B1. Halleluhwah - 18:32

(Side 3)

C1. Aumgn - 17:37

(Side 4)

D1. Peking O - 11:37
D2. Bring Me Coffee or Tea - 6:47

[ Can ]

Damo Suzuki - vocals
Holger Czukay - bass, engineering, editing
Michael Karoli - guitar, violin
Jaki Liebezeit - drums, double bass, piano
Irmin Schmidt - keyboards, vocals on "Aumgn"

(Original United Artists "Tago Mago" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Side 1 Label)

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 カンのアルバムはバンドが原盤を自主制作し、ユナイテッド・アーティスツから全世界発売された初期6作+同時期の拾遺アルバム2作がバンド黄金時代の傑作とされています。1968年~1974年録音になるもので、同時期のアウトテイクは『Unlimited Edition』(2LP, Virgin, UK/Harvest, Ger., 1976)、『Delay 1968』(Spoon, 1981)、『The Lost Tapes』(3CD, Mute, 2012)にも大量に収められていますが(アルバム8枚分)、アウトテイクのうち完成品はバンド存続中に発表された『Unlimited Edition』と解散直後に発表されたに『Delay 1968』尽きており、この拾遺アルバム2作はオリジナル・アルバムに含められます。ずっと遅れて発掘発売された『The Lost Tapes』は未完成か習作段階のもので、カンを一通り聴いたリスナーのためのものでしょう。今回ご紹介する『タゴ・マゴ(Tago Mago)』はLP2枚組大作で発表され、カンの国際進出の決め手になった代表作です。アルバム・タイトルは伝説の黒魔術師アレイスタ・クローリーゆかりの、ヒッピーの聖地とされるスペインのイビサ島で有名な、イビサ東湾のタゴマゴ孤島群島からホルガー・シューカイが命名したそうです。本作はカンの代表的傑作として英語版ウィキペディアでも特大ページが割かれています。前置きには「ドイツのロックバンド、カンの第3作。ユナイテッド・アーティスツから1971年発表の2枚組LP。前作に参加していたマルコム・ムーニーに替わり、ダモ鈴木がヴォーカルに加入した初のアルバム」と簡潔な概要に続き、
「『Tago Mago』はカンのサウンドと構造の手法を示した、もっとも極端な録音とされてきた。このアルバムは発表以来広くその重要性を評価され、さまざまなアーティストから影響を認められている。」
 と最重要級の作品あつかいの総評を掲げています。カン黄金時代の6作+拾遺アルバム2作が現在代表的な欧米の批評メディアから受けている評価は、
1. Monster Movie (United Artists/Sound Factory, 1969) - Allmusic★★★★1/2, Pitchfork Media 8.7/10, Stylus Magazine (A)
2. Soundtracks (Liberty/United Artists, 1970) - Allmusic★★★, Pitchfork Media 7.6/10, Stylus Magazine (B)
3. Tago Mago (United Artists, 1971) - Metacritic 99/100, Allmusic★★★★★, Pitchfork Media 9.3/10(Original Edition) 10/10(40th Anniversary Edition), Stylus Magazine (B), Uncut (favorable)
4. Ege Bamyasi (United Artists, 1972) - Allmusic★★★★★, Pitchfork Media 9.8/10, Stylus Magazine (A)
5. Future Days (United Artists, 1973) - Allmusic★★★★★, Pitchfork Media 8.8/10
6. Soon Over Babaluma (United Artists, 1974) - Allmusic★★★★, Pitchfork Media 8.9/10, Robert Christgau (B-)
*Unlimited Edition (Virgin, UK/Harvest, Ger., 1976) 2LP Collection of 1968-1975 outtakes - Allmusic★★★, Pitchfork Media 7.9/10
*Delay 1968 (Spoon, 1981) Unreleased material from 1968-1969 - Allmusic★★★

 と、本作『Tago Mago』がずば抜けて高く評価されています。ダモ鈴木在籍時の『Ege Bamiyasi』『Future Days』がそれに次ぎ、マルコム時代の『Monster Movie』が次いで、ドイツ人メンバー4人だけで制作された『Soon Over Babaluma』もこの時点ではマルコム~ダモ在籍時と同等(『Soundtracks』は映画提供曲集、『Unlimited Edition』『Delay 1968』は拾遺アルバムという性格上相対的評価が低くなっていますが、内容は他のアルバムと遜色ありません)。カンはイギリスのヴァージン・レーベル移籍第1弾で第8作『Landed』では前作と同じメンバーなのにいきなり普通のロック・バンドになってしまいますが、それはまたの機会として、今回はメディア評価通りとすればカンの最高傑作『タゴ・マゴ』の紹介です。カンの最高の音楽はトータル73分半のこのアルバム全編に凝縮され、また拡張されているということでしょう。続く『Ege Bamiyasi』はアナログLP1枚にコンパクトにまとめた作品で、『Future Days』ではカンの音楽の浮遊感をつき詰めたものになります。

 英語版ウィキペディアでは『Tago Mago』は「Krautrock, psychedelic rock, experimental rock」とジャンルづけされており、クラウトロック(Krautrock)は日本ではもっぱらマニアにしか用いられない用語ですが、ジャーマン・ロックではなくクラウトロックと呼ばれるバンド/アーティストは、ドイツで起きたロックの革新運動を指しているので、英米ロックのスタイルをなぞったバンドは通常含まれません。英語版ウィキペディアKrautrockの項目を引くと「60年代末~70年代初頭、エレクトロニック・ミュージックとアンビエント・ミュージックの勃興期にブルースとロックン・ロールに影響された同時代の英米ロックから派生し、ポスト・パンクオルタネイティヴ・ロック、ニューエイジ・ミュージックの先駈ともなった」として、代表的バンド/アーティストに「Can, Amon Duul II, Ash Ra Tempel, Faust, Popol Vuh, Cluster, Harmonia, Tangerine Dream, Klaus Schulze, Neu!, and Kraftwerk.」と列挙しています。原文もこの順で、必ずしもデビュー順やアルファベット順、ヒット実績順ではなく、網羅的でもないから(Guru GuruやEmbryo, Grobschnitt、またミュージシャンと同格でエンジニアのDieter Dierks, Conny Plankの名は落とせません)、カンを筆頭にクラフトワークで締めくくるのは意図的な選択が働いているでしょう。'60年代末のドイツでは、自国の現代音楽界のスターにカールハインンツ・シュトックハウゼンがおり、アメリカから最新の現代音楽スタイルとしてラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒらの提唱するミニマリズムが注目されていました。ロックではヴェルヴェット・アンダーグラウンドピンク・フロイドフランク・ザッパジミ・ヘンドリックスが新しいバンドに大きな影響力がありました。これらの趨勢が先にクラウトロックとして名前が上がったバンド/アーティストの音楽に反映されており、エレクトロニクス中心のバンドの多くはレコード制作上の存在だった中で、カンはバンドとしての実体があり、ライヴ活動にも積極的でした。『タゴ・マゴ』は国外では特にイギリス、フランスで大きな反響を呼び、カンは1971年末に初めてのイギリス公演を成功させ、主に独・英・仏の3国をライヴ活動の場にしていくことになります。当時アメリカ公演が行われなかったのが惜しまれますが(のちタンジェリン・ドリームクラフトワークアメリカ公演の成功でさらに大きなレコード売り上げを達成しました)、中心メンバーの3人がすでに30代半ば近くで家庭生活もあり、広範な北米ツアーは不可能だったのでしょう。『タゴ・マゴ』を引っさげたライヴの凄まじさは当時のテレビ放映用ライヴでも残っていますが、1時間1曲というアルバム以上に壮絶にテンションの高い即興をくり広げています。 またテレビ出演で本作のA1を演奏したスタジオ・ライヴ映像もあります。
◎Can - Paperhouse ; Live, 1971 (Remastered) : https://youtu.be/Nzry1jz2-oA

 カンはライヴとアルバムではまるで異なるアレンジになる方が多いのですが、上記のテレビ出演映像では珍しくアルバムに忠実なアレンジで演奏しています。アルバムは一見あっさり作られているようで細部まで無駄がなく、とても完成度の高い音楽が当たり前のように自然な流れで出てくるので、カンのアルバムを聴いた後で並みのロックを聴くと落差にくらくらしてくるほどです。『タゴ・マゴ』の完成度はLP2枚組大作の規模にもかかわらずバンドの絶頂期に相応しい抜群なもので、クラウトロックの'70年代前半の2LP大作で思い浮かぶのはアモン・デュールII『地獄!(Yeti)』70.4, 『レミングの踊り(Tanz der Lemminge)』71.6、タンジェリン・ドリーム『Zeit』1972.8、クラウス・シュルツェ『Cyborg』1973.10、グローブシュニット『Ballermann』1974.5あたりになり、それらも各アーティスト初期の代表作でクラウトロックの名盤ですが個性の特化によるものが多く、総合的な器量の大きさでは『タゴ・マゴ』は抜きん出ています。アモン・デュールIIはデビュー作もカンと同年同月で、第2作と第3作で連続2LP大作を成功させており、所属レコード会社も同じ(世界市場ではタンジェリンとも同じ)でクラウトロック第1世代を担った重要バンドですが、カンの多彩な音楽性に較べるとヘヴィ・サイケに特化したプログレッシヴ・ロックの範疇にとどまる印象を受けます。カンの音楽性の幅広さは2LP規模に盛り込める限界を尽くしたものでした。

 このアルバムは2枚のLPのカップリングを意図して制作されており、ディスク1と2はデビュー作『モンスター・ムーヴィー』の片面数曲、片面1曲の構成を意識的になぞっています。LPのディスク1は7分半の曲2曲に4分の曲が挟まれる構成で、Side 2は18分半のファンク・ロックになっており、比較的キャッチーなディスク1はポスト・パンクの先駆をなしてPiLやマガジン、スージー&ザ・バンシーズ、ワイヤー、ジョイ・ディヴィジョンらが具体的に手法を参考したことで知られます。ジーザス&メリー・チェイン、トークトークプライマル・スクリームレディオヘッドらはポスト・パンク経由でカンにたどり着いた世代でした。A1「Paperhouse」は前作の「Deadlock」の流れを汲み、日本人にはダモ鈴木の演歌ロック臭を感じますが、サウンド面ではまるでPiL『Metal Box』か後期JAPANのようなA2, A3との不調和はまったくありません。B1「Mushroom」の空間的リズム・セクションとヴァイオリンの絡みや、A3「Oh Yeah」で突然日本語歌詞になるシークエンスなどハッとします。曲間なしに展開するA1~A3のメドレーは関係調で巧みに編集されており、連続した1曲のように快適に聴けます。B1「Halleluhwah」は18分半に及ぶファンクですが、曲名を列挙するだけの即興的歌詞といい、長尺ファンクの体裁を借りてはいますが音楽要素をミニマムにしてサウンドの位相変化を実験する目論見といい、やはりポスト・パンクオルタネイティヴ・ロックを先取りする発想が主眼となっています。

 ディスク2はより実験的なサウンドを追求しており、C1全面を使った呪術的な17分40秒の「Aumgn」はサウンド・エフェクトとヴォイス、ドラムスによるインダストリアル・ロックの先駆になっていて、まったくの無調・ノー・リズムで演奏・編集されています。この手法はフランク・ザッパマザーズが「The Return of the Son of Monster Magnet」1966で初めてロックに導入しましたが、ピンク・フロイドが『神秘(A Saucerful of Secrets)』1968のタイトル曲でより明快な構成で成功させて以来クラウトロックに絶大な影響を与えています。ディスク2の最後の面はダモ鈴木の凄まじい歌詞なしの即興ヴォーカリゼーション・パフォーマンスが高速で展開されるD1「Peking O」でC1からの流れを受けてクライマックスに達したあと、最終曲D2「Bring Me Coffee or Tea」ではヴェルヴェット・アンダーグラウンドやジャックスのダウナーなアシッド・ロック・バラードを思わせる楽曲になり、陰鬱にアルバムを締めくくるとともにA1へ回帰する構成となっています。カン黄金時代の6作+拾遺アルバム2作はどれも素晴らしく、レッド・ツェッペリンの全アルバムに匹敵するものですが、『タゴ・マゴ』はカン最大の代表作としての偉容を今日なお失わない記念碑的作品です。ホルガーの特筆すべき録音・編集技術も含めて、メンバー全員の貢献が輝かしい成果を上げています。また『タゴ・マゴ』はカンの全作品でも一聴してインパクトが強く、しかも聴くごとに良くなるアルバムでもあります。完璧に近いアルバムと見なすなら、主要音楽メディアからほぼ満点の評価が定着したこのアルバムにはその資格が十分にあることになるでしょう。

清岡卓行「愉快なシネカメラ」(詩集『氷った焔』昭和34年=1959年より)

清岡卓行詩集『氷った焔』

昭和34年(1959年)2月・書肆ユリイカ
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「愉快なシネカメラ」

 清岡卓行

かれは目をとじて地図にピストルをぶっぱなし
穴のあいた都会の穴の中で暮す
かれは朝のレストランで自分の食事を忘れ
近くの席の ひとりで悲しんでいる女の
口の中へ入れられたビフテキを追跡する
かれは町が半世紀ぶりで洪水になると
水面からやっと顔を突き出している屋根の上の
吠える犬のそのまた尻尾のさきを写す
しかし かれは日頃の動物園で気ばらしができない
檻からは遠い とある倉庫の闇の奥で
銅製の猛獣たちにやさしく面会するのだ。
だからかれは わざわざ戦争の廃墟の真昼間
その上を飛ぶ生き物のような最新の兵器を仰ぐ
かれは競技場で 黒人ティームが
白人ティームに勝つバスケット・ボールの試合を
またそれを眺める黄色人の観客を感嘆して眺める
そしてかれは 濁った河に浮かんでいる
恋人たちの清らかな抱擁を間近に覗き込む
かれは夕暮の場末で親を探し求める子供が
群衆の中にまぎれこんでしまうのを茫然と見送る
かれにはゆっくりとしゃべる閑がない
かれは夜 友人のベッドで眠ってから
寝言でストーリーをつくる

(詩集『氷った焔』1959より)


 清岡卓行(1922-2006・大連生れ)は先に、戦後最高の恋愛詩と名高い『石膏』を紹介しました。『氷った焔』は昭和20年代、作者20代からの作品を集めてようやく37歳にして刊行された第1詩集なので、「石膏」のような抒情的恋愛詩ばかりではなく、題材も表現手法も多彩で熟達した偉容を誇っています。処女詩集とは自選されている場合でも刊行時点でのその詩人の全詩集でもあるので、『氷った焔』は詩集数冊分の内容を持った詩集とも言えます。「石膏」が戦後詩ならではの斬新な性愛詩とはいえ戦前の詩人たちからの業績を踏まえた発展を感じさせるのに較べて、この「愉快なシネカメラ」はいかにも戦後詩ならではの新しさを感じさせます。1950年代の作品ながら、より奔放な1960年代詩人たちの作風を先取りしたかのような磊楽な乗りの良さと軽やかさがあります。清岡自身はランボーシュールレアリスム萩原朔太郎の『青猫』と萩原唯一の短編小説「猫町」をくり返し論じましたが、また高村光太郎、萩原以降の口語自由詩の系譜を詩史的に位置づけ、小野十三郎金子光晴に戦後詩直前までの最大の成果を見る篤実な詩論家でもありました。清岡が萩原の詩集では『青猫』を重視するのは、詩誌「ユリイカ」の初期からの盟友・那珂太郎が萩原でも『月に吠える』を挙げるのとは好対照となしています。

 那珂太郎の『音楽』では暗喩は対応する現実には還元されません。一方、清岡の『氷った焔』では「石膏」でも「愉快なシネカメラ」でも暗喩には現実との対応があり、「~シネカメラ」では現実をありえない現象に逐次的に置き換えながら展開すています。結果、1950年代の日本の都会生活の喧騒をよく表現した詩が生れたのが「~シネカメラ」でした。「ユリイカ」の詩人仲間でも清岡とは性格的にそりが合わず、犬猿の仲だったと飯島耕一が証言している岩田宏の作風に近い皮肉なユーモアがありますが、岩田宏攻撃的なユーモアをたたえた詩作を続けるも40代で詩作を離れたのに対し、清岡卓行の詩作ではこうした作風は以降影を潜めてより端正で抒情的な傾向に向かい80代の長命まで長い詩歴をたどります。これは「愉快なシネカメラ」のような皮肉な機知に富んだ作風は長くは続けられなかったということになるのかもしれません。