人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(6)初セミプロGS 、ザ・サベージ

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ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースときたらGSブームの象徴的存在、ザ・タイガースとザ・テンプターズ、または…と次に上げるべきバンドを悩むが、本格的なブーム前夜に現れて短期間活動した忘れがたい学生バンドがあった。
メンバー全員が現役大学生のエレキ・インスト・バンドで、シャドウズ(英)の曲名からザ・サベージを名乗り、65年10月フジ「勝ち抜きエレキ合戦」で4週連続チャンピオンに。さらに63年3月には日テレ「世界に飛び出せニュー・エレキ・サウンド」でグランド・チャンピオンになり、褒賞に10日間のヨーロッパ旅行へ。帰国後プロとなり、シングル『いつまでもいつまでも』66.8でデヴュー・ヒットを放つ。次の『この手のひらに愛を』66.10もヒット。ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースに次ぐ66年の三大バンドになった。
○「この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNo.1」1966.12(画像1)

さて、ザ・サベージは寺尾聰のデヴュー・バンドとしても知られるが、人気絶頂の67年1月、寺尾は脱退する(たった半年!)。デヴュー当時から洋楽誌「ミュージック・ライフ」はサベージをプッシュしてきたが、「いつ辞めてもいい。音楽にも未練はない」と斜に構えていたのが寺尾だった。エレキ・インスト指向からプロ・デヴューを境にヴォーカル・バンドになったことでメンバー間の意思に不統一が生じたかもしれない。リード・ギターの林廉吉も学業専念のため脱退。寺尾・林在籍時の最後の録音は、
○「ゴー!スパイダース・フライ!サベージ」1967.3(画像2)
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で、日本航空の世界一周路線開設を記念したスパイダースとのスプリット・アルバム(全曲旅客機旅行がテーマ。スパイダースは名曲『太陽の翼』を収録)。有名スタンダード『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』の絶妙な味わいなど、これがサベージ最後のアルバムになってしまったのが惜しまれる。

寺尾・林の脱退で人気は急降下し、67年6月・10月の4枚目、5枚目のシングルでなんとか面目を保つも、67年内で残るオリジナル・メンバーも全員脱退。上記2枚のCDと、編集盤、
○「コンプリート・シングルズ」2000(画像3)
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が現在入手できる。これには寺尾聰の結成したホワイト・キックスの唯一のシングルと、寺尾のファースト・ソロ・アルバム「二人の風船」70も収められている。