人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(12)ザ・ゴールデン・カップス!

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当時横浜の不良だった人によると「デイブ平尾はもともとクラブの客引きでさ、それで楽器をやってるやつ集めたのがゴールデン・カップス
それが66年末で、メンバーほぼ全員がまだ未成年だったが日本人・ハーフ・中国人という人種混成、最新(日本末紹介多数)のロック、R&B、ブルースという挑戦的レパートリー、過激な演奏(本人たちはGSという意識は一切なく、写真も他のGSより目が鋭い)で瞬く間に横浜No.1のバンドになった。67年6月『いとしのイザベル』でデヴュー。結成から僅か半年。第二弾シングル『銀色のグラス』67.11は当時の(現在も)リスナーの度肝を抜く疾走チューンで、特にベースは当時世界最高レベルと言える。カップスも作曲力はなくシングルの日本語曲は外部委託だったが、彼らが演奏すると見事にロックになった。この2枚のシングルは、
○「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第1集」1968.3(画像1)
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で聴ける。メンバーはデイブ平尾(vo)、エディ藩(lg)、ケネス伊東(g,vo)、ルイズルイス加部(b)、マモル・マヌー(ds)。シングル曲の他はほとんど洋楽カヴァーだが、音楽的にはケネス伊東のギターが中心なのがわかる。ハワイ系のケネスはヴォーカルもいい。

○「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第2集」1968.9(画像2)
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ケネスはビザの問題で公式写真から外されることになり、高校生の新メンバー、ミッキー吉野ハモンド・オルガン(当時200万円)持参で加入する。このセカンド・アルバムはバンド最大のヒット曲『長い髪の少女』と次のシングル『愛する君に』を含み、あとは洋楽カヴァーだが『愛する君に』は和製R&Bの名曲だろう。全体にワイルドの中に洗練が見られて心地よい。この後ケネスは一旦脱退するがアルバムの度に覆面メンバーとして帰ってくる。

○「ブルース・メッセージ/アルバム第3集」1969.3(画像3)
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第三作はブルース・プロジェクト、バターフィールド・ブルース・バンドをお手本にしたブルース・ロック。日本初の試みだが前作までの自由気ままさよりも生まじめさが目立つ(それは次作「スーパー・ライヴ・セッション」69.8で解消される)。

その後バンドはケネス不参加でスタジオ盤1作、ライヴ盤2作を発表して解散。まだまだ可能性を秘めた、惜しいバンドだった。