人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(21)喜多島修=ザ・ランチャーズ

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このバンドの位置づけには悩んだ。「レコードコレクターズ」のGS特集ではベスト30グループのうちベスト5に次ぐベスト15グループに選出されており、ザ・ランチャーズ以外の19グループはご紹介した。その上、下位10グループから3組と選外から2組(リンド&ザ・リンガース、バーンズ)も取り上げたのにランチャーズを落とすのは公正を欠くだろう。下位10グループはヒット曲なしかせいぜい一発屋なのだが、ランチャーズはデヴュー・シングル『真冬の帰り道』67.11から『教えておくれ』68.3、『シリウスの涙』68.6と3曲連続ヒット、アルバムも2枚出している。
○「フリー・アソシエイション」1968.12(画像1)
○「OASY王国」1969.9(画像2)
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2作ともシングル同様リーダー喜多島修が全作曲で、ビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」やビートルズ「サージェント・ペパーズ~」を意識したトータル・アルバム。第二作の方がより凝っている。タイトル「OASY」はメンバーのイニシャルとオアシスのダブル・ミーニング。アレンジはどちらも名手・川口真だが、バンド・サウンドと管弦アンサンブルが不調和。同じ東芝の同期生フォーク・クルセダーズやジャックスの強烈なカウンターカルチャー性には及ばず、GSとしてもポップスとしても実験性が勝ちすぎる。感動がない。

もともとランチャーズは62年に加山雄三が俳優仲間とやっていたバンドだが一旦解散、従兄弟の喜多嶋兄弟を中心に自分のバックバンドとして再結成したもので、66年1月の加山のデヴュー・アルバムの時はメンバーの半数が高校生だった。独立デヴューした時ですら平均年齢20歳に満たない。ちなみに夫人は内藤洋子、お嬢さんは喜多嶋舞、伯母は小桜葉子、曾々祖父は岩倉具視の音楽プロデューサー、マルチ・プレイヤーの喜多嶋修は同一人物(「島」の表記が違う)。

70年3月のシングル『マドレーヌ』を最後にバンドは解散。喜多島は単身ロンドンに渡りコネを駆使してアビー・ロード・スタジオに入り浸りビートルズの録音記録を調査。帰国後エンジニアの吉野金次と作り上げた匿名アルバムが、
○「ジャスティン・ヒースクリフ」1971.6(画像3)
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で、はっぴいえんど「風街ろまん」を初めとする吉野の原点として重要作品とされるが、やはり面白くない。才気と感動は別、という感が深い。