人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(補3)日本のジミー・ペイジ成毛滋

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タイヤ製造会社ブリジストンの創業者が「日本のジミー・ペイジ成毛滋(1947-2007)の祖父にあたる。親戚友人には財界人・政界人がひしめく。鳩山兄弟も成毛滋の従兄弟になる。60年代の前半、まだ一般人の海外渡航が容易ではない時代から成毛の周辺では渡米・渡英経験者が普通で、学生時代に学友たちとアマチュア・バンドを始めたのもヴェンチャーズ=寺内タケシによるエレキ・インスト・ブームとは別に、直接的な英米ロックへの指向からだった。
学生時代にフィンガーズはアマチュアのトップ・バンドになり、エレキ・インストのシングルを日本クラウンから3枚リリースする。これが本来のフィンガーズの音で、キングからのプロ・デヴューにあたって成毛はキーボード・プレイヤーに転向させられ、アルバムも大半がオーケストラを被せた、初期ビージーズ的なソフト・ロックに仕立てあげられた。それがフィンガーズ唯一のアルバム、
○「サウンド・オブ・ザ・フィンガーズ」1968.12(画像1・シングル追加)
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になる。フィンガーズは69年8月解散、すぐに成毛は渡米し、ウッドストック・フェスティヴァルを体験し「ミュージック・ライフ」に熱烈なレポートを寄稿、帰国後は柳ジョージ(b,vo)、角田ヒロ(ds,vo)とジプシー・アイズを結成し活動するが、柳はゴールデン・カップスに引き抜かれる。この当時の曲は、
ストロベリー・パス「大烏が地球にやってきた日」1971.6(画像2)
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に収録。有名な『メリー・ジェーン』もこのアルバム。当時はスタジオ・ミュージシャンとして左卜全とひまわりキティーズ『老人と子供のポルカ』、ドリフターズ『ズンドコ節』にも参加。また、レコード会社が成毛滋名義で無断で洋楽ヒットのインスト・カヴァー・アルバムを3枚も出す、という珍事もあった。
バンドはさらにフライド・エッグと改名し、成毛のキャリアでも最高傑作というべきアルバムを出す。
○「ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン」1972.3(画像3)
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この後当時17歳の高中正義(b)を迎えA面ライヴ・B面スタジオの「グッバイ・フライド・エッグ」1972.11を出して解散するが、前記アルバムはフライド・エッグプログレハード・ロック風味「マジカル・ミステリー・ツアー」として楽しめる。その後成毛はギター教則本の著作で活動した。