人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(2)フランツ・カフカ小品集

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今回はカフカの小品でも白眉の一篇をご紹介する。
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『家長の心配』

オドラデク、という言葉の語源はスラヴ語と主張する一派とドイツ語と主張する一派に分かれる。おそらくどちらでもないのだろう。どちらもあてにならない上に、言葉の意味は不明なままなのだ。
なぜこんな研究がされるのかというと、オドラデクと呼ばれるものが現に存在しているからで、それはまず平べったくて星形の糸巻きみたいな形をしており、また本当に糸が巻いてあるらしい。ただしその糸はぼろぼろで結び目だらけで、雑然ともつれあった糸の塊り、と見える。しかもこの糸巻きは星の中心から小さな横棒が一本突き出ており、この棒と直角にもう一本、棒がくっついている。この棒と、星のまわりのぎざぎざがちょうど脚のような役目をしているのだ。
これはかつては理にかなう形をしており、今は潰れた残骸なのだ、と考えたくなる。だがそう考えるには、付け足したり壊れたりした部分がまったく見当たらない。たしかに全体として意味は判らないが、それなりにまとまっているのだ。これ以上はオドラデクが活発でなかなか捕まらず、よくわからない。
あれは屋根裏にいたり、階段の踊り場に来たり、廊下に現れたり、玄関に出てみたりする。一か月も姿を見せない時もある。たぶん他所の家に行っているのだろう。しかし必ず私たちの家に戻ってくる。部屋の外へ出ると、下の階段の手すりにもたれていることがよくある。そんな時は、相手が非常に小さいので、子どもみたいに話しかける。「お前の名前は?」「オドラデク」「どこに住んでいるの?」「決っていません」そう言って大きな声で笑う。会話は大抵これきりで、まるで材木みたいに黙りこんでしまう。元々材木みたいな存在なのだ。
私は自問自答する。あれに死はあるのだろうか?死ぬものはすべて死に先だって一種の目的を持った活動をし、そうしたことに自分をすり減らす。それはオドラデクには該当しない。だからあれは、糸を後ろに引きずりながら、私の子どもの足もとを、さらにその子どもの足もとを通り抜け、階段をころころところがり落ちていく。たしかにあれは誰に危害も加えない。しかしあれが私の死後もそんな風にして生き残っていくことを考えると、私は一種の苦痛に近い感情におそわれるのだ。
(遺稿集「村医者」1919)