人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(3)フランツ・カフカ小品集

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初回のおさらい。フランツ・カフカ(1883-1924)はプラハ生れのユダヤ系ドイツ語作家。生涯を小役人として送り、生前には僅かな短編小説を自費出版しただけだった。二度同じ女性と婚約し二度とも破棄。生涯家庭を築かなかった。没後焼却として文学仲間に託した膨大な遺稿が出版されると、一躍20世紀の最重要作家と認められた。
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『放心の展望』

いま不意に春になってしまって、私たちは去就に迷うのである。今朝は灰色のどんよりした空模様だったのが、いま窓辺に出てみると不意を襲われた気持で、私は窓の把手に頬を押しあてたままでいる。
見おろすと、あどけない女の子がひとり、もちろんいまはもう沈んでいく太陽の光をまともに浴びて、歩きながらあたりを見まわす。すると、ひとりの男の影が見え、後ろから次第に歩度を早めてくるのだ。
やがて男は追い越していき、子どもの顔が、澄みきった感じで後に残る。
(小品集「観察」1913)
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『街にむいた窓』

とり残されて生きているけれども、どこかにつながりを求めている人。移り変わっていく時刻、天候、職業等を考えはじめると、とにかく何でもいいから自分を支えてくれるような腕がほしい、そんな気持の人-この人は、街にむいた窓が、どうしても必要だろう。もし仮にこの人が、まったく何物も求めず、ただ疲れたひとりの人間として、群衆と大空とに代わるがわる眼を放ちながら、窓際に近づき、なにひとつ意欲をいだくこともなくわずかに頭を後ろに反らせている、という状態であるにしても、下を通る馬が、その後につき従う車のほうへ、そして騒音のなかに、やがては人間との和解に、この人を引きずりこんでいくのだ。
(同)
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『隣り村』

私の祖父は、口癖のように話したものだ。「人生は驚き呆れるくらい短い。いま思い返してみるのだが、たとえば、ひとりの青年が馬で隣り村へ出かけようと決心した場合、突発的な不幸な事件が起る起らないは別問題としても、ごく普通で幸福に過ぎていくこの人生の時間ですら、隣り村へ行くずっと手前の地点でおしまいになってしまうのではないか、という恐怖。そのような恐怖を味わうことなくどうして決心できるものなのか、私はいささか了解し難い。そんなふうに人生のはかなさが思い出の中に凝縮しているのだ」
(遺稿集「村医者」1919)