人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(6)フランツ・カフカ小品集

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遺稿集「ある戦いの描写」は長短さまざまな作品で成り立っており、「変身」や三大長編とも異なる可能性を感じさせる。
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『出発』

私は厩から馬を曳いてくるように命じた。馬丁は私の言うことが判らなかった。私は自分で厩へ出向いて馬に鞍を置くと、ひらりと跨がった。遠くでラッパの音がした。何事か、と馬丁に尋ねたが、馬丁は何も知らなかった。聞いてもいなかったのだ。門のところで、馬丁は手綱を控えて尋ねた。「どちらへ行かれるのですか」「知らない」と私は言った。「ここを去るだけだ。去ればいいのだ。永久にこの土地を去るのだ。私の望みを叶えるためには」「それでは、望みをお持ちなのですか」と馬丁は尋ねた。「そうとも」と私は答えた。「今言ったとおり、この地を去ること-それが私の望みだ」
(遺稿集「ある戦いの描写」1936より)
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『橋』

私は冷たく硬直した橋だった。深い闇の上にかかっている橋だった。片側では足先を、もう一方では手を岩に突っ込んだ姿勢で、ざらざらの漆喰で塗り固めてあった。私の上着の裾は両脇で揺れ動いていた。底の方で手の切れるような清流がごうごうと鳴っていた。どんな物好きな旅人でもこんな山の奥までは入っては来なかった。私は地図にさえ載っていない橋だった。-こうして私はじっと待っていた。待つしかなかった。橋というものは、架けられてしまうと、落ちない限り橋であることを止めることはできない。
男がやって来た。先端に金具のついた杖で私の体を叩いたかと思うと、今度はその杖で私の着物の裾を掲げてちゃんと直してくれた。伸び放題の私の髪を杖の先で突ついていたが、やがて杖を放り出した。おそらく、あたりをじろじろ眺めまわしていたに違いない。ところが-たまたま私が男のことをぼんやり考えていた時-彼は両足で私の腹の真ん中に飛び乗った。意表を突かれて、私は激しい痛みに気が遠くなった。何者だろうか。子どもか、幻か、強盗だろうか。自殺の場所を探している男だろうか。悪魔か、政治犯だろうか。私は体をよじって確かめようとした。-橋が体をよじったのだ。体をよじり終る間もなく、私は墜落した。墜落したかと思うと、私はべきっと折れて、尖った岩に突き刺さった。これまでは逆巻く激流の中からあんなに穏やかに私を見つめていた岩のくせに。
(同)