人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(24)フランツ・カフカ小品集

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これもカフカらしいシニカルな世界観をうかがわせる二篇。
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『帰路』

雷雨の後の大気が持つ、素晴らしい説得力!私の数々の功績が目の前に現れ、これに抵抗しなければ、私は押し潰されてしまう。
私は行進する。私のテンポはこの横町沿いの建物の、この横町の、そしてこの地区のテンポだ。ドアを叩く音、テーブルを叩く音すべてが私に責任がある。すべての乾杯の辞に、今ベッドにいる恋人たちに、建造中の建物の骨組みに、あるいは暗い露地の家の壁にぴったり押しつけられている恋人たちに、あるいは売春窟の長椅子に、私が責任を感じても不思議はない。
私は自分の未来に対して過去を尊ぶ。だが私にはどちらも素晴らしく、ただ私にこうも恵みを垂れる神慮の不公平を非難する。
ただ自分の部屋に戻ると、私は少し考えこむような気分になる。とはいえ階段を上がる間に何か思いついたわけではない。私は窓を開けはなつが、そしてどこかの庭でまだ音楽が鳴っているが、それも大して役には立たない。
(小品集「観察」1916)
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『競馬騎手のための思索』

よく考えれば、競馬騎手で一等をとる理由などないのだ。敵手の、策略に満ちた努力家たちの嫉妬は狭い人垣の中で私に苦痛を感じさせる。
私たちの仲間は賭け金を取るためにいそいでおり、ただ肩越しに遠くの窓口から「万歳!」と叫んで寄越す。しかし一番よい仲間たちは全然私の馬に賭けなかったのだ。というのは、もし私に賭けて損をした場合、私を怨まねばならないのを心配してのことだった。だが私の馬が一等になり彼らにまるで儲けがなかった今、私が通りかかると彼らはそっぽを向き、むしろ観客席を眺め渡すのだった。
振わなかった競争者たちは、鞍をはなれず、彼らを見舞った不幸を顧みて、自分たちに何か不正が行われはしなかったかと思い巡らす。彼らは強いて元気そうな様子を示す。まるでまたこれから競争が始まるかのように、しかも今度のが本気で、前のは子供だましだったかのように。
多くの婦人たちには勝利者は滑稽に思われる。彼らは威張り返っているが、結局永久に続く握手や祝辞やお辞儀や遠方への挨拶などに困惑してどうしていいか知らないのだから。一方負者らは口を結び、たいていはいなないているかれらの馬の顎を軽く叩いてやっている。
とうとう曇った空から雨が降りはじめる。
(同)