人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(25)フランツ・カフカ小品集

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東欧というとスラヴ的な感性も入ってくるわけで、これはカフカにしてはペーソス漂う、小品作家時代のチェーホフを思わせる一篇。カフカの影響源にチェーホフが上げられることはあまりないが、カフカの青年時代に名声の絶頂で病没した国際的作家を読んでいないはずはない。
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『商人』

私に同情してくれる人も世間にはいるかもしれない。だが私は少しもそれを感じない。私の心は小さな商売のことで一杯だ。なにしろ小さな商売なのだ。私の金と言っても結局は人様の懐にあるのだ。人様の世帯の具合、人様の不幸など知れるものではない。
さて平日の夕方に店じまいをすると、突然私は私の商売の絶え間ない用事のために働くことのできない数時間が目の前に拡がっているのを見る。そんな時、私が朝に置いてきた興奮が、上げ潮のように再び私の心の中に湧きだしてくる。だがそれは私の内部に持ちこたえられず、目標もなしに私自身をどこかへ押し流して行く。
それでも私はこの気紛れを少しも利用することができず、ただ家に帰るしかない。そして道は短く、すぐ私は家に着き、エレヴェイターの扉から中に乗り込む。すると突然ひとりになった自分に気づく。そして膝に手をついて狭い鏡の中を覗く。エレヴェイターが上がり始めると、私は言う。
「じっとしていろ、引っ込んでいろ。樹の陰へ行きたいのか、カーテンの後ろへ、木の葉のトンネルの中へ?」
私は歯を噛み合わせたままこう言う。するとエレヴェイターの乳色のドアを透して階段の手すりが滝のように流れ落ちて行く。
「飛び去れ、一度も見たことのないお前たちの翼が谷間の村へ、それとも行きたければパリへでも運んで行けばいい。
小川を越え木の橋を渡り、水浴する子供たちにうなずくがよい。そして遠くの装甲船の数千のマドロスの万歳!の声に驚くがいい。
ばらばらと馬の背にまたがってギャロップで集まってくる警官隊が馬を止めてお前たちを制圧する。やりたい放題させるがいい。がらんとしてしまった街路は彼らを意気消沈させる。私にはそれがわかる。もう彼らはあちこちに帰って行く。ゆるゆると角を曲って、飛ぶように広場を抜けて」
この時私は降りねばならない。エレヴェイターを後に、戸口のベルを鳴らさねばならない。すると女中が戸を開ける。私はただいまを言う。
(小品集「観察」1916)