人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(秋の夕暮れ) の話

同時(妻や娘たちは今も)が住んでいたマンションは保育園と小学校の中間にあった。朝は小学校は集団登校だが帰りはバラバラになる。ぼくは健康の問題で小学生の長女を放課後の学童保育にやっていた。長女ではなく、ぼくの健康だ。次女はまだ保育園児なので、朝の段取りは妻を送り出し、次女を連れて長女を集合場所に送り、それから次女を保育園に送った。日中は通院や家事で過ぎる。通院は子育ての間に患った気管支炎と栄養点滴で、結婚生活末期の三年間ほどはほとんど食事できなかった。娘たちの食事の補佐をしながら自分も食べるなどできなかった。しかも娘たちや妻の食事の好みはぼくにはまったくいけなかった。せいぜい麺類と冷奴くらいだ。

離婚して5年半がたち、最後のジーンズの膝が抜けた。育児生活中は半年~一年で膝が抜けたものだ。子ども相手は膝をつく姿勢が多いから、どうしてもパンツが傷んでくる。離婚した時にまだ穴が空くまでいたらなかったものも、やはり生地が傷んでいたか一本一本駄目になり、最後の一本まで膝が抜けてしまった。やたらと「すり減る」というテーマにこだわったアメリカのSF作家がいたが、たしかに生きるのは絶えずすり減ることでもある。

迎えにいく時は逆で、まず長女を学童に迎えにいき、短い留守番をさせて保育園の次女を迎えに行く。長女が寂しがる時は一緒に迎えに行く。朝はいつもの逆でもいいが、夕方はこの順番は変えられない。次女はまだ一人でお留守番できない。もっとも長女もそれほど長くは置いておけない。
家族で日曜の午後に商店街を歩いていたら、結婚前によく入った喫茶店がきれいに改装しているのが目につき、思わず妻と懐かしむ会話をすると、長女が「私たちふたりでお留守番できるようになったら、またパパとママでデートしていいからね」と言った(その前に離婚してしまったが)。
だからその喫茶店には家族でよく入ったものだ。娘たちはパフェを、妻はカレーを(いつもカレーだ)、ぼくはサンドイッチと紅茶を頼んだが、ほとんど毎回娘たちに取られてしまった。

ぼくは駅から一分のワンルーム住まいだが、夏の間は夕方5時の鐘が、4時半に繰り上っているのに気づいた。それから一時間もすると外は真っ暗だ。長女はよく言ったものだ。「冬はやだな。暗くなるのは早いし、ママの帰りは遅いし」
昔の話、だ。ぼくは役目を終えたのだ。