Kenny Dorham(1924-1972,trumpet)。ジャッキー・マクリーン、チェット・ベイカーと来ればやはりケニー・ドーハムだろう。共通点はパーカーの愛弟子、マイルスとの関係になる。
マイルスはディジー・ガレスピーとのコンビ解消後にパーカーが発掘した新人で、この時期のパーカー・クインテットはピアノはバド・パウェル、ドラムスはマックス・ローチという超人集団だった。やがてピアノはデューク・ジョーダンに代わり、マイルスとローチも独立。後任がドーハムとロイ・ヘインズで、ドーハムとジョーダン独立後はチェット・ベイカーとアル・ヘイグ、チェット独立後はレッド・ロドニー、ヘイグ独立後はウォルター・ビショップJr.が加入し、これがパーカー・クインテットの最終ラインナップになる。
マクリーンはパーカーの愛弟子で独立後のマイルス・クインテットのメンバーになり、Jr.も合流する。
マイルスがライヴァルと考えて尊敬していたのは夭逝したナヴァロ、クリフォード、大先輩のディジーを除けば同年輩のケニー・ドーハムとアート・ファーマーで、飛び入りするのもされるのも嫌いなマイルスがドーハムとファーマーだけは特別だったようだ。もっともアルバート・アイラーの伝記によると、マイルスがドーハムのステージに飛び入りしたのを見計らいアイラーまで飛び入りし大混乱、ということもあったらしい。
基本的にはドーハムはビ・バップ~ハード・バップの人だった。マイルスやファーマーはバップを早くから突き抜けた発想があり、白人ジャズマンと自然に共演して音楽を洗練させていき人気も高かったが、ドーハムは黒人ジャズに徹してバップの限界まで行った。
パーカーから独立後のドーハムはアート・ブレイキー、ホレス・シルヴァーと組んでジャズ・メッセンジャーズを立ちあげ初期の名作をものしたが、リーダー作では「アフロ・キューバン」1955(画像1)、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト・イン・カフェ・ボヘミア」1956(画像2)がいい。この後2年間は事故死したクリフォード・ブラウンの後任でロリンズと共にローチ・クインテットに移籍、そして名曲『蓮の花』を含む人気盤「静かなるケニー」1959(画像3)で見事に50年代を締めくくる。