人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

詩集「倖せ それとも不倖せ」

イメージ 1

「肋骨と蝶」の乾直惠は現代詩のはじまりにいた人だったが、戦後に詩がどのように変貌したかを追っていくと昭和20年代までは戦前・戦中に自己形成した世代がデビューした時期であり、純粋な戦後世代の登場は昭和30年(1955年)以降になる。その第一人者は谷川俊太郎(1931-)であり、また表題から人を食った詩集「倖せ それとも不倖せ」でデビューした入沢康夫(1931-)だった。あえて作風の異なる3篇を選んだが、共通するのはパロディと悪意であるところに詩意識の屈折が伺える。その新しさはすぐに認められたが、一般的な読者層に迎えられたとは今なお言えない。
*
『失題詩篇

心中しようと 二人で来れば
-ジャジャンカ ワイワイ
山はにっこり相好くずし
硫黄のけむりをまた吹き上げる
-ジャジャンカ ワイワイ

鳥も啼かない 焼石山を
心中しようと辿っていけば
弱い日ざしが 雲からおちる
-ジャジャンカ ワイワイ
雲からおちる

心中しようと 二人で来れば
山はにっこり相好くずし
-ジャジャンカ ワイワイ
硫黄のけむりをまた吹き上げる

鳥も啼かない 焼石山を
-ジャジャンカ ワイワイ
心中しようと二人で来れば
弱い日ざしが背すじに重く
心中しないじゃ 山が許さぬ
-ジャジャンカ ワイワイ

ジャジャンカ ジャジャンカ
ジャジャンカ ワイワイ
*
『鴉』

広場にとんでいって
日がな尖塔の上に蹲っておれば
そこぬけに青い空の下で
市がさびれていくのが たのしいのだ
街がくずれていくのが うれしいのだ
やがては 異端の血が流れついて
再びまちが立てられようとも
日がな尖塔の上に蹲っておれば
(ああ そのような 幾百万年)
押さえ切れないほど うれしいのだ
*
『夜』

彼女の住所は四十番の一だった
所で僕は四十番の二へ出かけていったのだ
四十番の二には 片輪の猿がすんでいた
チューヴから押し出された絵具 そのままに
まっ黒に光る七つの河にそって
僕は歩いた 星が降って
星が降って 足許で はじけた
所で僕がかかえていたのは
新聞紙でつつんだ干物のにしんだった
干物のにしんだった にしんだった
(書肆ユリイカ・1955)