人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(30c)リー・モーガン(tp)

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モーガンジャズ・メッセンジャーズへの最終録音は65年5月の「ソウル・フィンガー」で、62年~63年にモーガンが離れていた時トランペットの座についていたフレディ・ハバードとの共演作。すでにウェイン・ショーターはマイルス・クインテットに移籍し、サックスは新人ゲイリー・バーツ(アルト)に交代している。ちなみに5年後ショーターがマイルスを辞した時の後任がバーツだった。
しかしハバードも器用な人で(モーガンと同年生れ)、ビル・エヴァンスやオリヴァー・ネルソンのアルバムでは渋いプレイを聴かせ、ドルフィーコルトレーンとの共演では思い切りよく突進し、二大フリー・ジャズ・イヴェント「フリー・ジャズ」(オーネット・コールマン)でも「アセンション」(ジョン・コルトレーン)でも作品の意図をよく汲み、ショーターやハンコックのリーダー作ではマイルス役になりきる。多彩な多才で高レベル。だが自分のリーダー作は…。脳梗塞を克服して復帰した時のジャッキー・マクリーンとの来日公演はNHK-FMで聴いたが、もうアドリブ以前に音に輪郭と芯がなかった。それから逝去までは長くはなかった。

モーガンは72年2月、出演中のクラブの休憩時間に店の戸口で14歳年上の愛人に若い婚約者を紹介して話をつけていた。これまで世話になったが結婚することにする。慰謝料に収入の10パーセントを贈る。愛人は一旦出ていくとバッグを持って戻り、まずモーガンを射撃すると次に婚約者に銃を向けた。メンバーが飛びかかって女を押さえた。銃弾は心臓を貫通しており、モーガンは即死だった。デビューから15年にしてまだ33歳だった。

その15年間にリーダー作は32枚、サイドマン参加作は110枚に及ぶのだが、画期となったのは第14作「ザ・サイドワインダー」1963(画像1)だろう。8ビート!ビルボード・チャート25位!の大ヒット作。この後は年間2~4作ペースで、65年の「ザ・ランプローラー」「ザ・ジゴロ」「コーンブレッド」(画像2)そして「インフィニティ」は甲乙つけ難い。
66年3作(「デライトフリー」は『イエスタディ』のカヴァーが…)、67年2作、68年3作、69年1作とムラがあるが、70年の「アット・ライトハウス」は2枚組ライヴの名盤になった。そして71年9月録音のスタジオ2枚組「リー・モーガン」(画像3)が遺作になる。死に方まで粋な人だった。