人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

青年時代の概略・前編(連作9)

(連作「ファミリー・アフェア」その9)

母の臨終の日、ぼくは図書館から借りた小説「ユリシーズ」を読んでいた。主人公の青年はカトリックを棄教する決心をし、母の臨終の床でも祈らなかったのが心の傷になっている。ぼくは安岡章太郎の「海辺の光景」も思い出した。自分の存在の半分がもぎとられたような気がした(牧師のO先生には「お母さんは和ちゃんの中に生きているからね」と言われたが、ぼくはむしろ半分が死んでしまったように感じた)。

躁鬱病の発症の要因は人さまざまだが、肉親との死別は中でもとりわけ強い。母の死から2か月、受験を終えたガールフレンドから電話がきた。3か月ぶりだった。合格おめでとう、ぼくは4月から他の高校に転入するつもりだ。
「元気だった?」
「母が死んだ」
再びつきあい始めて、ぼくはこれまでになく強引に迫った。彼女も慣れると-なにしろ10代の末なので積極的になるのに時間はかからなかった。それがぼくには躁に相当する時期だったかもしれない。

母の没後から3年、父は教会の仲介で函館在住の10歳年下の女性と見合い結婚した。見合いの席は市内のアメリカ陸軍基地の将校クラブで行われた。子供の頃から出入りしていたクラブだが、この時は1ポンドのミディアムステーキが食べられなかった。まるで食欲がなかった。父の縁談は慶賀すべきだが、おそらくぼくには亡き母への思慕が強すぎたのだ。それは誰の目にも明らかだったろう。
弟は1年足らずで家を出て、10歳年上の女性と結婚した。勤め先の上司で、短期間同棲して入籍した。
「子供が生まれるから家を出ろ」
と父に言われたのは大学2年の時で、期限は3日間。さすがに初めてのアパート探しは1週間かかった。学費だけは援助してくれることになったが、アルバイトの月収8万円では当時の契約システムでは電話は引けなかった。

実家にいた頃は、遠いアルバイト先で朝は6時半に出勤、帰宅は深夜0時半で胃潰瘍寸前まで行った。父は不機嫌に、
「皆なそうなるのか?」
と吐き捨てた。父自身が専門学校時代に過度の飲酒から胃を半分切除し、それが武勇伝でもあり信仰告白の主要エピソードでもあったが、実の息子には寛容になれない人だった。
「幼い頃にお母さんを亡くしたから」と生前、母はよく言っていた。「愛情を知らない人なのよ」
それがぼくの父という人だった。