人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(42b)ポール・デスモンド(as)

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Paul Desmond(1924-1977,alto sax)。
デスモントはデビューからほぼ20年間ブルーベック・カルテットの専属メンバーだったので、その期間はカルテットの仕事の合間をぬって10枚ほどのリーダー作しかない。独立して旺盛な活動を始めた矢先に52歳の若さで癌で逝去と、惜しんでも惜しみきれない存在だった。ただしブルーベック・カルテットは高い人気を反映して水準の高い作品を多作しており、デスモントのプレイも妥協のない真剣なものだった。それが自然に聴き手をジャズ・マニアに限定しないポピュラリティーを持っているところに、デスモントの天性の魅力があった。
前回はデビュー作と大ブレイク作でありどうしても外せずブルーベック・カルテットのアルバムを紹介したが、今回からはデスモントのリーダー作に絞って紹介する。

「タイム・アウト!」の大ヒットでデスモントにも大手レーベルからソロ作品の依頼がきた。デスモントは当時フリーではなくブルーベックのサイドマン契約をしていたからアルバム制作にはブルーベックの承諾が必要だったろう。レーベルはワーナーだったが、あくまでもワン・ショット契約。ベースとドラムスはワーナー傘下アトランティック所属のモダン・ジャズ・カルテットからパーシー・ヒースとコニー・ケイ、ギターは59年8月の「イージー・ウェイ」を最後にジミー・ジェフリー3を退団したジム・ホールが起用された。それが'First Place Again'59.9(画像1)で、このアルバムの成功でソロ契約をRCAに移籍後のデスモントはホール/ケイを基本メンバーに指名するようになる(ベースは流動的)。スタンダード'East of the Sun'が素晴らしい。

62年からはRCAからのソロ契約で、移籍第1作は'Desmond Blue'61.9-10,62.5(画像2)。ホール、ケイを含むカルテットとストリング・オーケストラの競演で、ムード音楽だが筋は通っている。'My Funny Valentine'を始め必殺スタンダードがずらりと並ぶ。

次の'Two of a Mind'62.6-8(画像3)は初のジェリー・マリガンとの共演でピアノもギターも入らないカルテットだが、音色や音圧だけでマリガンがデスモントを圧倒している。デスモントには不利な共演だった。