人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

風化する記憶・前編(連作21)

(連作「ファミリー・アフェア」その21)

初めて思考能力というものに気づいたのはまだ弟が生まれる前だから三歳頃、声に出さずとも頭の中で文章が作れるのが不思議だった。それから記憶を反芻する習慣がついた。今でもそうだ。
家族揃っての夕食後、水曜晩の祈祷会に出かける父を母と送り出し(弟は家族を送り出すようなことはしない)、ぼくはドアを閉めて少し待ってから鍵をかけた。どうしたの?と母に訊ねられ、
「鍵をかける音が聞こえたらお父さんが寂しいと思って」
まあ和ちゃん、あなたって子は…と母は包み込むように(中学生のぼくはもう母より背丈があったが)ぼくを抱きしめてきた。いつもはぼくに白髪を抜かせたり肩を揉ませながら一方的に一日の出来事を話してくる母だったが、その晩はしんみりとした雰囲気で食卓のテーブルで相対した。

この雰囲気はまだ弟が生まれる前、夜に父の帰りを母と待っていた時の寂しさに似ていた。ふと思いついて、新聞の折り込みチラシの裏の白紙に、そういえばK市ではこういうアパートだったよね、と逆L字型のアパートと中庭、駅までの略地図を、方位も正確に描いた。半年間も住まなかったが、ぼくのいちばん古い記憶は母と手をつないで駅まで父を迎えに行った情景だった。もう晩秋で、駅までの道は暗く、母の不安感を感じて無言で歩いた。
「なんで和ちゃん覚えているの?まだ二歳か三歳だったじゃない」
「だって一日中お母さんと一緒だったもの。お母さんは専業主婦だったし、ぼくは幼稚園に入る前だったし」

北はこっち、南はこっちだったよね、と母に確認すると、
「うちは南向きの部屋だったのに新入りだったから、洗濯物も布団干しも西向きの物干し台しか使わせてもらえなかったのよ。意地悪な人たちばかりだった」
-と、つらい表情になった。その頃のぼくには子ども同士で遊んだ記憶がない理由がわかった気がした。そして半年で転居した原因も。
「だったら、あの子のことは覚えてる?S市に引っ越してからよ。和ちゃんの初めてのガールフレンド。このままお嫁さんにもらいたいくらい、優しくて可愛い女の子だったわ」
ぼくにはまったく記憶がなかった。S市の二年間は70年安保に向かう社会騒乱が幼稚園児にも感じられた。「今日の新宿は凄かった」と帰るなり父がテレビに見入っていたりしていた記憶はあるのだが。