人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

風化する記憶・後編(連作22)

(連作「ファミリー・アフェア」その22)

S市の二年間は幼稚園の通園や銭湯通い、同じ市営住宅の男の子たち、買い物や小児科通院、月ロケット、テレビ取材(ぼくは動植物図鑑を丸暗記していたので。近所中の人に囲まれてまったく喋れなかったから放送された可能性はない)、弟の誕生と祖母(母方)との生活、など鮮明に覚えている。数か月ごとに屋内釣り堀やゲーセンに変る店(変り者なんだね、と父は言った)、ストリップ劇場の週替りの看板、『帰ってきたヨッパライ』『黒猫のタンゴ』『老人と子供のポルカ』それから…。
だがそんな女の子の記憶はない。母は絶句して、
「お隣の借家でね。すぐに親しくなったわ。お父さんは上流の生まれでいい大学を出たけれど病弱で働けなくて、奥さんが水商売に出ていたの。駆け落ちだから実家にも頼れなくて、でも優しくて仲のいいご夫婦だったのに…」

一家心中だった。深夜帰宅した妻を夫が刺し、娘をさして自分も刺した。たぶん悲鳴があがったのだろう。通報されて搬送され、大人は無事だったが、幼児は助からなかった。
「まだ幼稚園前だったからお隣の同い年同士で朝から夕方まで遊んでいたのに。もうNちゃん(弟)はお腹にいたけど、あの子は私の娘だったのに。なんで和ちゃん覚えていないの?」

たぶん両親はぼくにショックを与えないように病気で入院したとか引っ越してしまったとでも説明して、それで納得したぼくは日々新鮮な体験のなかで忘却したのだろう、と思う。
母はもちろん次男(弟)も慈しんだが、ふたりきりの時には、
「和ちゃんのお嫁さんてどんな女の子かしらね。私の娘だから、一緒に住みたいわ」
と晩年まで言っていた。急逝後の遺品の整理で、母の農業学校(19歳から20歳)の日記が出てきた。授業、友人関係、家族との生活、流行歌の歌詞などの備忘録だったが、突然、
「赤ちゃんが欲しいわ!赤ちゃんてなんて可愛らしいんでしょう。抱っこして育てられたらどんなに嬉しいかしら」
恐怖を感じた。母は恋愛願望はまったく書いていなかった。赤ちゃんを生み育てたい、それだけだった。
母はぼくが10代になっても乳首を吸わせたがった。休日の昼寝の時や風呂上りなど。ぼくは当惑しながら吸った。
「こうして育ててきたのよ」
と抱きしめられ、ぼくはそれがどういうことかわからなかったし、今でもわからない。