人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

終章-眠れる森1・後編(連作32)

(連作「ファミリー・アフェア」その32)

「きみの好きなところを100上げろと言われたら101は答えられるけど」とぼくは彼女と笑った。「私はひと言で言える」と彼女は言った、「ぜんぶ」。
だがぼくはこうも言った。こうしたことはおたがいがあってのことだから(と初めて男女の関係になってから言った)どちらかが終りに決めたら終りにしよう。彼女は表情を凍らせただけで答えなかった。ぼくもこれほど関係ができた女性にはっきりと取り決めを告げたのは初めてだった。ぼくは独身だが彼女は既婚者だから、これは彼女の優位を保証することになるはずだ。ぼくは遊びはあっても不倫は初めてだった(彼女は医薬品会社の研究員だった独身時代に、既婚男性と愛人関係になった経験があった)。ぼくも彼女も先のことは見当がつかなかった。「不倫じゃないわ」と彼女は言った。「浮気じゃなくて、本気」。

経験の遠近法はいつも終りから最初に向って遠ざかっていく。三島由紀夫が賛嘆を惜しまなかった19世紀初頭-もう200年も前のフランスの小説に「アドルフ」というのがある。上流階級の夫人の愛人になった青年が政治家として出世していき(当然結婚もし)、情熱は最初だけで後は惰性と打算でしかない愛人関係を続けながら彼女を死の床まで見舞う、という話だ。
ぼくと彼女が違っていたのは、おたがい先のことはわからなかったにせよ、ぼくはいつも終りを考えていた-これは終りに到るまでの経過地点なのだと意識していたこともある。ぼくは彼女を抱いても皮膚感覚以上のものはなかった。離婚後は娼婦しか抱かなかったから好きあって体を許しあう歓びはあったが、行為自体は-彼女は不感症だったのだ。もう40近くになり、婚前の性体験もあり、ふたりの女の子の母親なのに、彼女はまったくのマグロだった。

(ぼくの誤解もあった。彼女はこれまでずっと不感症だったからいつも演技していたという。だがぼくに抱かれて感じるようになったから演技しなかった。そんなことは言われなければわからない)。
だから徐々に彼女が声をあげるようになってきたのをその時は理解できなかった。彼女自身がこれまで感じたことがなかったのだ。
「だってセックスは女は感じないものでしょう?」
と彼女は真顔で言った。彼女の性体験の貧しさはぼくの想像の域を越えていた。貧しい男しか知らずにいたのだ。