人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

眠れる森2・後編(連作34)

(連作「ファミリー・アフェア」その34)

ぼくはアルコール依存症については真面目に学んだが自分が依存症ではないことも明らかだったので退院したら飲むよ、と訊かれれば答えていた。入院仲間と退院後には連絡を取るまい、と決めたのもその考えからだった。断酒が続いている人にしろ、元の木阿弥になった人にしろ(断酒の成功率は百人中数人に満たない。ぼくと同期の入院患者も全滅だったようだ)、ぼくは悪い刺激を与えてしまうだけだろう。
だが一足先に退院していった彼女はぼくとの再会を望んでいた。半ば強引にメールアドレスの交換をせがまれ、彼女の直後に患者会リーダーが退院すると(嫌な予感はしていたが)ぼくが級長さんにされた。おかげでメールのネタには事欠かない毎日になった(「私も佐伯さんしかいない、って思ってたわ」)。

出産後は専業主婦になって10年近い彼女にとって、家庭を離れた三か月の入院生活は(週末ごとに帰宅してはいたが)学生時代に戻ったように楽しかったのだ。実際やってることも午前と午後に体育の授業と教科書の授業があり、遠足(花見に行った)や映画鑑賞(サンドラ・ブロック主演のアル中治療院映画なんていう珍品)もある。一般科の精神病棟では被害妄想の老婆が夜な夜な警報器のサイレンを鳴らすし、体育の授業ではビーチバレーでいきなり入院初日の初老男性が転倒・骨折・脳震盪で転院するし、童顔の中年女性患者が(朝会で抗酒剤を飲んでいるのに)近所のコンビニで立ち飲みしてぶっ倒れて転院したり、和式トイレしか使ったことのない肥満体の女性患者が洋式しかない病棟のトイレで「拭けない!」と大騒ぎしたり(Nさんがウォシュレットの使い方を教えた)、大浴場にうんこが浮いていたり…いつの間にかぼくは「アルコール依存症を装った潜入ルポライター」ということになっていた。

エイプリル・フールの悪ふざけの後、断酒会の参加用紙にNさんの名前が増えているのを見て、たぶん彼女にとっては距離感が縮まったんだろうな、と思った。改めて観察すると彼女もなかなか面白かった。体育の授業はトレーナーやジャージ、靴は運動靴ということになっているがみんな荷物や洗濯物が増えると面倒なので普段着のまま出ている。彼女だけきちんと着替えている。彼女の普段着はいつもワンピースとサンダルなのだ。それが彼女に少女の面影を与えていた。