人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

眠れる森3・前編(連作35)

(連作「ファミリー・アフェア」その35)

だから退院して家庭生活に戻り、今ではお酒で気持をまぎらわせるわけにはいかないNさんにとって、まだ入院中のぼくとのメール文通は楽しかった入院生活の余韻をいつまでも延長したかったからだった。それがいつの間にか彼女にとっては、誰よりもぼくが解放感と自由を集約した存在のように思えてきたのだった。同じ高校だった(ぼくは退学したし、七歳上だが)という親しみもあったのだろう。入院中から彼女はぼくに興味を持っていて、ふと気がつくとぼくをじっと見ている彼女がいた。ぼくは鈍感だから、それは単なる入院中の暇つぶしの興味と考えていたし、彼女にとってもそれ以上の意識はなかっただろう。

そのきっかけになったのがエイプリル・フールの悪戯だった。ぼくはKくんともども後から入院したので、Nさんたち同じテーブルの女性にはあいさつやお膳運びの手伝いはしても雑談や無駄口ひとつ交わさずにいたのだ。Uさんは鬱の上に警戒心が強かったからNさんはぼくがお膳を運んであげると「はい、運んでくれたよ。佐伯さんは優しい人なのね」ととりなしてくれた(Uさんは若い頃に未亡人となって水商売でひとり娘を育ててきた。お嬢さんの結婚でひとり暮しになり、鬱病からアルコール依存症に進んだ)。
ぼくの冗談をきっかけにこのテーブルはフロアでいちばん和気あいあいとしたグループになった。だから彼女にとっては、入院生活の思い出はほとんどがぼくを中心にしたものになったのだ。

ぼくは特にNさんと個人的に親しくしている意識はなく、Kくんみたいにぼくの後をどこでもついてくるようなこともなかったから、同じテーブルとして親しい、というくらいの気持だった。彼女と個人的な出来事としては、前年度に1・2巻が発売されてミリオンセラーになり、その春に第3巻が出て完結した小説を彼女が入院中に読んでいた。ぼくはその作家のものはデビュー作から10年間は発表される都度読んでいたので、彼女が貸してくれるという申し出にいい機会だから借りて読んだ。
「図書館では貸出し予約が50人待ちだったよ。ありがとう」
「私も買ったほうが早いな、と思って買いました」
ぼくは1日1冊で3冊を読み、先に読み終えていた彼女と感想を話しあった。面白いのは格別だが大作だけに粗も多く、話題にするには格好でもあった。