人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

療養詩話日記・3月23日(土)晴れ

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晴れと書いたが正確にはやや薄曇りか。夜半には雨が降るらしい。どおりで空気がしっとりしている。
短歌や俳句の雑誌では花見の季節の直後には桜の句や歌一色になるが、歳時記でも四季のうち春の部がいちばん項目が多く、一冊ずつに分冊すると新年だけで独立した巻になる。日本の伝統的短詩型では正月と春が格別にめでたいということだ。この感性はブログでも新年と桜の記事をだれもが書いてしまうあたりにも通じている。

中国や朝鮮の古典詩ではあまり季節は、それ自体では題材にならない。中国詩では慷慨(こうがい)、朝鮮詩では恨(こん)が主題で目的は思想的・哲学的・写実的なものだろう。和歌は中国詩・朝鮮詩の影響下で生れたものだが、万葉・古今・新古今と時代が下るほど抽象化していき、抒情詩としての純度は高くなるが叙事的なダイナミズムは失われていく。
これは西洋詩との比較でも同じことが言えて、西洋詩の影響下から始まった自由詩の分野でも、一部の例外的な詩人を除いて日本の詩はミニチュア的な純粋詩への指向が進んだ。発想としては俳句や短歌と大差なく、詩型としては形式がないためにかえって冗漫ともいえる。

芭蕉が一連の俳句入り紀行文を書いた時、それは散文と俳句の混交による長編詩の試みだった。現代詩の詩人にも同様の試みがいくつもあり、成功した例も少なくない。だが「旅人かえらず」(西脇順三郎)も「lL」(金子光晴)も、「藥玉」(吉岡実)も「死者たちの群がる風景」(入澤康夫)も読者をほとんど持たない。幅広い読者に訴える要素を排除して成り立っているからで、早い話、新年と桜をよろこぶ感受性を拒否しているからだ。

ぼくは真冬はCDプレイヤーが動作不良になるほど冷え込む部屋に住んでいるので春の到来はありがたい。冬場に病状が悪い時など寝ている間に凍死体になるのではないかと思いぞくぞくする。夏なら腐乱が速いから発見も早いだろうと埒もないことを考える。
ただし現代詩は単純に春を喜ばない。春は地中の安らかな眠りからさまざまな生命を無理矢理目覚めさせ、生け贄のように残酷な運命にさらすものと考える。これはイギリス現代詩の古典、T.S.エリオットの433行の長編詩「荒地」'The Waste Land'1922だ。
療養日記と言いつつ詩の話になってしまったが、せっかくだから明日に続けよう。