人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ドナルド・バーセルミ「死父」75年

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ドナルド・バーセルミ(1931-1989,米)、「死父」The Dead Fatherは75年の第2長編。今回はこの長編小説の序章を紹介して、今日の記事としたい。引用は78年の柳瀬尚紀訳(画像上)から適宜抄出した。
着想は吉岡実(1919-1990)の画期的な長編詩『死児』1958(詩集「僧侶」同年)が先駆を成すと言ってよく、同時代のフランス作家ル・クレジオ(1941-)が直前の73年に、長編小説「巨人たち」Les Geants(画像中・下)で同一テーマを扱っている。それらを踏まえてもバーセルミには独自の、一種とぼけた魅力がある。日本では安部公房(1924-1993)が「箱男」73、「密会」77を発表した時期になる。
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死父の顔。肝心なことは、両目が見ひらいている。空をじっと見あげている。目はジタンの箱の青。顔は決して動かない。何十年も見つめたまま。額は気品がある。ふふーん、ほかには?そしてもちろん安らかだ。死んでいるのだ、安らかでなくては。格好のよくて鼻孔の小さな鼻の先から地面まで落差は五メートル半、三角測量によって得られる数字。髪は灰色だが若々しい灰色だ。
顎の線は岩山の輪郭にもひけをとらない。居丈高で、ごつくて、まあそんなふうだ。
彼は完全ではない。ありがたいことだ。わずかに口が開くと豊かな赤い唇が後退する。わずかといっても気味悪い口の開き方ではなくて、汚れた四本の歯の間に挟まった鯖サラダのかけらがのぞく。ぼくらは鯖サラダだと思っている。鯖サラダのように見える。伝説では鯖サラダだ。
死んでいるのにまだぼくらと一緒だ。ぼくらと一緒なのに死んでいる。
彼がこの町に寝転がっていなかった頃のことは、誰も思い出せない。そのでかい図体はボマール区からグリスト街まで延びている。全長1600メートル。半分は地下に埋没し、半分はそうではない。
左脚は完全に機械のようで主な活動の管制中枢だといわれ、あらゆる者のために日夜絶え間なく活動する。右脚はあまり面白味がないから、ここに爆薬を仕掛けようとした者はいない。市民の良識のしるしだ。小さな矢が右脚に刺っていることがたまにある。左脚(人工)にはまずない。市民の良識のしるしだ。
ぼくらは死父に死んでもらいたいのだ。ぼくらは目に涙を浮かべて座り、死父の死を願っている-そして、ぼくらの手であれこれのことをやっている。