人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(補16b)オーネット・コールマン

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Ornette Coleman(1930-,alto sax,trumpet,violin)。
ジャズにとって1959年は驚異の年だった。この年マイルスは「カインド・オブ・ブルー」を、コルトレーンは「ジャイアント・ステップス」を録音。ミンガスは「ミンガス・アー・ウム」他3作を全曲自作曲(「ジャズ・ポートレイツ」中の1曲を除く)で制作。元来作曲家指向のモンクやミンガスはともかく、マイルスやコルトレーンまで全曲自作オリジナルでアルバム制作したのは初だった。しかもそのすべてが画期的な傑作となる。パーカーに始まる20年間のバップ・スタイルが頂点を極め、モンクやミンガスが模索してきた一層自由奔放なジャズが形をとりつつあった。その象徴的な出来事がオーネット・コールマンのニューヨーク進出だった。

オーネットはまだロサンゼルス在住だったが、アトランティック移籍第1作、
The Shape Of Jazz To Come(「ジャズ来るべきもの」画像1)59.5.22
-を初めて自分のカルテットで制作する。ドン・チェリー(トランペット・1936-1995)、チャーリー・ヘイデン(ベース・1937-)、ビリー・ヒギンズ(ドラムス・1936-2001)。ドラムスは野趣に富んだエド・ブラックウェル(1929-1992)が後には重用されるが、年長者なのでニューヨーク進出が遅れた。
6時間で8曲のオリジナル曲が完成し、内6曲がアルバムに収められた。オーネットは一貫してバンドにピアノを入れなかった。それまでもジェリー・マリガンがいたし、同時期のロリンズもピアノレス・トリオに成功していたが、オーネットの狙いは更に過激だった。冒頭の'Lonely Woman'だけでもドラムスの拍節に従わないベース、ベースの音程やビートから自由な管楽器(微分音程や転調、変拍子、変則小節も多発)など各楽器が並行して進行する。コンテンポラリー盤2作でも実は試みられていたが、バンドごとポール・ブレイ(ピアノ)と共演したライヴ以外ではわからなかった。これがオーネットの独創だった。

ニューヨーク進出後の、
The Lennox Jazz School Concert(画像2)59.8.29
Change Of The Century(「世紀の転換」画像3)59.10.8,9
については次回に譲る。