人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

60年代ロック(9)ボブ・ディラン2

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

まずは前回記事へのリコメントから。
「ディランの第1作は、おおむねトラディショナル・フォーク(伝承民謡)のアルバムと言えます。これは当時イギリスでも流行したので、ジミー・ペイジには当然その心得がありました。ツェッペリンはディランのレパートリーを取り上げたというより、同じ素材からまったく別のヴァージョンを作ったと言うべきでしょう(『死にかけて』は「フィジカル・グラフィティ」収録)。ツェッペリン版の歌詞は、ブラインド・ウィリー・ジョンソン『どうか私の死ぬ床を』1927の改作で(クレジット上は、メンバー全員の共作は扱い)、ブラインド・ウィリーは映画「パリ・テキサス」で使用され80年代以降やっと評価が高まりました。旅芸人で流しの暮らしをしていた人ですが、宿泊した黒人専用ホテルが放火にあい、ずぶ濡れの焼け跡に野宿して肺炎になり、病院の受け入れ拒否で病没した人です。ジャニスがベッシー・スミスの墓を建立したように、ツェッペリンも恩返しくらいすべきですね」

65年から翌年7月のバイク事故までのディランはまさに神がかっていた。65年は初の年間2作を製作し、翌年の「ブロンド・オン・ブロンド」66.5は当時のロックでは例外的な2枚組だった。6月のイギリス公演は海賊盤の定番だったが、98年に「ザ・ブートレッグ・シリーズVol.4」としてようやく公式発売される。記録映画「ノー・ダイレクション・ホーム」はその衝撃的なステージを映像で伝える。ザ・ホークス(後のザ・バンド)をバックに、白塗りのメイクで眼をぎらぎらさせ、全身をくねらせながら一瞬たりとも身ぶり手ぶりを止めずに歌う-こんなロック歌手はディラン以前にはいなかった。ほとんど狂気すら感じさせるほどだった。グラム・ロックを5年先取りしていた。
ディランとライヴァルたちを截然と分けたのが、この狂気だった。ビーチ・ボーイズが実は、ディランとは異なる狂気を秘めていたと判明したのは80年代のことになる。
ビートルズの「ラバー・ソウル」65.12、ストーンズの「アフターマス」66.6、バーズの「霧の第5次元」66.7はいずれも傑作だが、ディランには敵わない。唯一、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」66.5だけがディランとは別の領域にあった。そしてディランのバイク事故翌月にビートルズの「リヴォルヴァー」66.8が発表される。