人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小説の絶対零度(6)ロートレアモン

ロートレアモンは筆名であり本名イジドール・デュカス(1846-1870、フランス)は無名の文学青年として長編散文詩集「マルドロールの歌」1869と「詩学」1870を刊行したが、当時パリは犬猫、鼠まで食肉販売されるほど未曾有の大飢饉に襲われており、無名詩人の自費出版が注目されるわけもなくデュカスは飢餓とインフルエンザで病死した、と推定される。「マルドロールの歌」が20世紀の文学に及ぼした影響は散文詩集としてより小説作品としての解釈による。特に終章「第六の歌」は作中で未来の形式による小説であることが宣言されている。この終章をご紹介する。
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ところで諸君はこう言うだろうか?ぼくが人間と神とぼく自身を、平易な誇張法で愚弄し罵倒してしまったので、ぼくの使命はもう果してしまったと。いや、違う。ぼくの仕事のもっとも重要な部分はこれからとりかかるべく残されているのだ。今後は小説の糸が既に高らかに名指された三人の登場人物を動かすことになるだろう。これまでの五つの物語は、無駄ではなかった。それらはぼくの作品の前書き、建築の基礎、ぼくのこれからの詩の準備説明だったのだ。そして旅立ちの荷物をまとめあげ、想像力の国々へと足を踏み入れる前に、ぼくはぼく自身で明瞭で明確な一般論の素早い素描によって、ぼくが追求する決意を固めた目的をあらかじめ告げておかねばならなかった。その結果今ではぼくの作品の総括的な部分が完全で、かつ十分に展開されているというのがぼくの意見だ。新たな数々の考察はぼくには余計に思える。なぜならそれらは別の形でより大仰に、実は同じことを、今日の終りにはその最初の展開が行われる主題として繰り返されるだけだからだ。今日ぼくは、三十ページの小説を作ろうとしている。今日か明日か近いうちにぼくの理論の正式な認可がしかるべき文学形式によって下されるのを期待しながら、ぼくは模索の後に決定的な公式を見つけ出せると信じている。それこそ最良のものだ。なぜならそれが小説だからだ!この雑多な序文はとうてい自然ではない方法で開陳された。それは意表を突かれた読者が最初はどこに連れていかれるのかさっぱりわからないからなのだ。しかしその驚きは普段は閑つぶしに読書する人々への罠なのだ。それはもっと将来、いくつかの小説が出現すれば、この汚れた序文の本当の意味がわかる。
(「マルドロールの歌」1869)