詩人石原吉郎(1915-1977)の俳句と短歌について、急逝後すぐの書き下ろし論考である藤井貞和「〈形〉について~日本的美意識の問題」は、76年7月「詩の世界・第5号」に同時発表された詩三編・俳句三句・短歌二首から主に歌集「北鎌倉」について論じ、村上一郎(1920-1975)との比較に論及したところで擱筆されている。村上一郎については既述した。
藤井は佐々木幹郎らとともに清水昶を中心とした70年代の京都の詩人グループ、「白鯨」の同人だった。村上一郎とくれば、当然村上と同じ歌人・批評家の保田輿十郎(1910-1980)に連想が及ばないはずはない。
保田もまた、「呪われた詩人」の資格を備えていた。戦時中に三島由紀夫をいち早くデビューさせたのも保田だった。敗戦までは保田の影響力は小林秀雄を凌駕し、「英雄と詩人」「日本の橋」「戴冠詩人の第一人者」「後鳥羽院」などの著書は文学青年の必読書だった。保田の主宰誌は「日本浪漫派」を名乗り、晩年の萩原朔太郎が「四季」の三好達治、「詩と詩論」の西脇順三郎でもなく自分の後継者とした「コギト」の伊東静雄を吸収したが、30代の伊東は保田には魅了されながらも距離を置いた。
「四季」の堀辰雄の愛弟子でありながら、芸術至上主義的な「四季」に飽き足らず日本浪漫派に接近して間もなく夭逝したのは立原道造だった。保田が当時の文学青年たちを魅了したのはドイツ浪漫派の発想で日本の古典を再評価し、滅びの美、殉死の美、宿命を甘受する美を日本古来の美意識として、戦地へ召集される青年たちのヒロイズムを鼓舞したからだった。
保田は敗戦後に戦犯として公職追放され、変名か、同人誌でしか執筆できなくなる。村上一郎と同人誌を発行していた桶谷秀昭(最初は吉本隆明との三人誌だった)や松本健一らが保田への評価を復権した際の調査で、戦時中の保田は軍部からむしろ急進的な危険思想家として弾圧を受けていたことが判明した。
だが戦後の保田は少しもブレなかった。昭和40年といえばちょうど敗戦から20年を経ているが、エッセイの中にこんな恐るべき一節がある。
…私の往年の文章は多くの若者を死なしたのであろうか。それは私が死なせたのではなく、本当の『日本文学』が「死んでもよい」という「永遠」の、「生命」の、「天地開闢」に、彼らの心をひらいたのである。
(「日本の歌」)