人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

開花もまぢか

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もう少し肉眼では近づいて見えるのだが、写真に撮るとだいぶ構図が引き気味になってしまうようだ。どの枝の先にも小豆大の小さなつぼみがついていてその皮はほんのり表面が毛羽だっており、先端は唇をとがらせたように少し開いてみどり色がのぞいている。このつぼみは二重構造になっているのだ。皮の中に胎球のような初葉の包みがあり、花はその初葉にくるまれて育っている。皮を覆うビロードのような初毛は発芽の際の物理的衝撃を和らげ、開花までの気候の変化や雨風から葉と花の成長を護るだろう。

東洋と西洋で自然観察への意識が異なるのは、西洋文化圏では自然観察はそのまま信仰へとつながっていくところだ。自然学者としてのゲーテの業績はそういうものだし、昆虫記のファーブルにしろ動物記のシートンにしろ近代キリスト教の思想基盤がなければなしえなかった。「ロビンソン・クルーソー」は天与としての孤島の自然観察と信仰告白が交互に出てくる。「ガリヴァー」の著者は破戒僧だったから激しく「ロビンソン」の著者を憎み、自然を天与とは考えなかった。

宗教的にはよほど歴史の長い東洋文化圏の方が自然を無秩序と受けとめる覚悟が座っているように思える。信仰に対する意識の違いというべきか、例えば単に口実であれ西洋では宗教戦争というものがある。東洋では宗教は戦争の口実にならない。自然は自然であり、神が人間のためにあつらえてくれたものではない。おそらく日本の20世紀の文学者で本質的な鋭さでは漱石小林秀雄坂口安吾に尽きるだろうが、安吾の思想的代表作『日本文化史観』で打ち出されているのは人間中心主義の徹底で、神社仏閣など生活に不要なら壊せばよい、桜の樹など切ればよい、と第二次大戦下に堂々と主張して敗戦後まで理解されなかった。

西洋圏の自然観にも大別するとラテン系とアングロ=サクソン(ゲルマン)系があり、それぞれがカトリックプロテスタントに対応する、という指摘もある。ラテン系は解剖学的に、いわばパーツの集合体として動植物を分析するのに対し、ゲルマン系は生態系を含めた総合体として把握する。どちらも生活習慣に応じた自然観であって、ラテン民族は持ち帰って売買する、ゲルマン民族は植民する、という違いによる。
ただし日本では今年も桜が咲く。望むと望むまいと、単に咲くだけだ。