人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

文学史知ったかぶり(3)

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今回も概括ゆえの省略や飛躍が避けられませんが、ご寛恕ください。
メディアとして考えると、詩歌はまず口承文学として出発し、宗教儀式由来の典礼劇や共同体の祭典劇から独立して演劇と結びつき、文学としての戯曲が成立したとされます。その段階ですでにプラトン仮象現実としての芸術限界論・否定論が現れており、ではプラトンでも否定できなかったもの、言語芸術の本質を、弟子のアリストテレスは修辞学であり積極的な現実模倣に求めました。そして古代ギリシャ時代に文学固有の価値は雄弁術にあるという一応の結論に到達したので、ごく単純に考えれば、文学形式の各ジャンルの趨勢は時代に応じてもっとも雄弁足りうるものが選択された結果である、といえるでしょう。

純粋に言語芸術で純度が高いのは詩、次いで戯曲(本来の戯曲は押韻詩)、次いで批評や記録(ここから散文に入る)、最下位が小説というのが美学的言語芸術観です。ただしどのジャンルも古代にはすでに成立していました。作品よりもむしろ読者の側に事情があった、ともいえます。印刷術もなく識字率も低い時代に文学が存在しても、小説には発展の余地はなかったとも考えられるのです。

近代小説の揺籃期はロマン主義の勃興と重なります。「ミメーシス」ではドイツ・ロマン派には一章を割いていますが、フランス・ロマン派への言及はほとんどありません。またイギリスもゲルマン文化圏に当るので、シェイクスピア一人を論じれば近世ヨーロッパ文学へのイギリスからの貢献は十分とも言えます。近世日本文学は芭蕉だけで語れるようなものです。近世ラテン文化のロマン主義アイロニーの終焉はセルバンテスが先手を打ち、スタンダールがより苦いかたちで継承しました。
ではフランス・ロマン派にはドイツ・ロマン派のような哲学的基盤は皆無かといえば、ルネッサンス以来のユマニスム思想が確実にあり、それは十分ドイツ・ロマン派と拮抗し得た、と思います。普通誰も結びつけませんが、ルソーはもとよりサドという存在があります。サドの思想性を哲学と呼ぶのに疑問はないでしょう。その創作は獄中文学者という異常な条件から徹底的な現実否定と自我拡張、雄弁を極めたものになりました。徹底的な現実否定とは徹底的な現実主義と同義です。そこにサドの可能性があります。それはリアリズムと反リアリズムを共存させたものでした。