ジッドを明治年間に日本に紹介したのは上田敏と永井荷風ですが、荷風は学生時代に岩波書店版全集30巻揃えて隅から隅まで読んだクチです。正直言って荷風や吉行淳之介、ヘッセやジイド(60年代までの表記)は、青年時代に読んでいると再読した時の風化が激しい作家です。ヴォネガットには60年代アメリカのヘッセ・リヴァイバルに反発した有名なヘッセ批判がありますが、ディックやヴォネガットらも再読すると風化を感じずにはいられない。
太宰治や三島由紀夫は、と並べると三島は不服でしょうが、その点では風化していない。普遍的なテーマを納得のいく小説に仕立てあげている。では小説はどこから風化していくのか。
荷風の最高の業績は『珊瑚集』でしょう。あの訳詩集だけは和漢混交体による文語自由詩の達成として比類のない、純粋な言語芸術になっています。ただしそれは訳詩だったからで、荷風自身の創作は金と欲をめぐる男女の駆け引き以外の広がりがほとんどない。情景描写や会話は非常にたくみで、おそらく荷風自身が小説の物語性には関心を持っていない。語り口だけに妙味を凝らしながら書いている。このナルシシズムに青年期の読者はかつがれてしまう。堀達雄も荷風の系譜にある作家でしょう。
そしてナルシシズムは他者を排斥します。
ヘッセもジッドもかつての各社からの文庫の海外文学部門の花形でした。全集収録作品のほぼすべてが文庫化されていたほどです。全集は編まれませんでしたがディック、ヴォネガットらも全作品が文庫化されていました。
正直言ってまだナイーヴな青年には甘やかすような要素があって推奨できませんし、大人の読者で読むのは物好きです。これらの作家に共通しているのはナルシシズムと偏向した女性忌避(恐怖・嫌悪・侮蔑)ですから若い男女読者には異性恐怖・同性嫌悪の面で訴えかけ、大人の読者はナルシシズムも異性関係の問題も生活経験によって克服しているから熱中はできないが、他山の石として自分自身の経験と照らして読める。
これらの作家にとって女性とは他者のアレゴリーで、いわば抽象的存在です。だが若い読者にはそれがわからない。いい大人が再読しても面白くないのはわかっていますが、周期的に読み返しているのはそのため、夢の終りを確かめるためでもあります。