人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

頭の中の映画4/レネ、フェリーニ

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アラン・レネ去年マリエンバートで』(61年・仏)で試みられたのは、いわば現実の不確定性の映像表現というはなれわざでした。観客は映像で提示されている矛盾しあう物語の、どれが映画内の「真実」なのか断定できない。この映画の脚本はレネの原案で小説家アラン・ロブ=グリエが書き下ろしたものですが、両者もこの映画の結末にまったく異なる解釈を下しているそうです。

脚本についても映像表現についても監督と脚本家は合意している、その上で作り手ですら解釈が異なるのですから、観客にとっては断定的な解釈ができない見方でしかこの映画を観ることはできません。レネならではの独創とは言えず、先にアントニオーニが、同時期ではリヴェットがおり、やや遅れて吉田喜重がこうした映画の作り手でした。レネは彼らが資質的に行ったことを主知的に実行したとも言えます。

対してフェデリコ・フェリーニ『81/2』(63年・伊)では現実と非現実は明確に区分されています。レネ作品との比較より『81/2』はむしろ『キートンの探偵学入門』(24年・米)、ダニー・ケイ主演作品の『虹を掴む男』(47年・米)のような夢想家コメディの系譜に連なるものでしょう。これはフェリーニ作品を貶めているのではなく、映画上映技師がスクリーン世界に迷い込んでしまう前者はキートン作品中でも三指に入る傑作ですし、冴えない中年男の夢想を描いた後者は知られざる大作家ジェイムズ・サーバー(1894~1961)の代表的短編小説(39年)を華やかにミュージカル映画化したヒット作です。

キートン作品も『虹を掴む男』も無数の模倣作を生みましたが『81/2』も同様で、映画が撮れない映画監督という自己言及的作品を芸術映画の監督は一本は撮る、という風潮すら生まれました。功罪で言えばレネ作品はともかく、フェリーニ作品が後世の映画作家に甚大な悪影響を与えたのは否めません。

小説を書けない小説家、というテーマは19世紀中葉のフランス小説にはすでに現れており、それは詩作自体を詩のテーマにした古典時代の詩人から引き継がれたもので、映画でもいずれ起り得ることでした。
レネ作品は作劇面では古典的な三一法に倣いました。フェリーニ作品はその点ではバロック的で、天衣無縫な表現と錯覚させる力があります。ですが前作『甘い生活』(59年)との間で、何かが失われたと感じます。