人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

アンドレ・ジッド(7)ジッドの日本受容~文学界というグループ

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菊地寛の肝入りと川端康成の後見で発足した文学界グループは小林秀雄をボスとした文学エリート集団で、フランス文学専攻のメンバーが多く、彼らによるアンドレ・ジッド(1869~1951)の位置づけは戦前だけでも三社から『ジイド全集』が刊行された昭和10年までには固まっていたと目せるでしょう。訳者解説つきの小林訳岩波文庫版ジッド『パリュウド』の刊行が昭和10年九月です。

文学界グループは極端な悪文でも知られ、晩年の梶井基次郎は文学界グループと交友のある親友の三好達治に、小林秀雄の絶大な人気が解せない、持って回った真意の知れない文章を書く人で信用して読めないと手紙に書いています。三好は小林の親友になっていたから返答に窮したでしょう。また川端康成は後輩文学者の世話好きで、堀辰雄小林秀雄同様に梶井基次郎パトロンでもありました。親友の三好には小林批判は言えても梶井は川端には小林批判は漏らせなかったでしょう。

小林や吉田健一は一生翻訳直訳調の悪文を貫きましたが、それは彼らの伝えたい概念が従来の標準的な日本語の文体からかけ離れたものだったからで、悪文にも悪文なりの必然はあるのです。問題があったのは小林秀雄らの文体の模倣者が、文体の模倣だけで新しい表現内容を再生産できる、と錯覚したことです。チャーリー・パーカーはヘロインを打ちながらステージに立ち素晴らしい演奏をしていたので、パーカーに憧れる若いジャズマンたちは次々とヘロインに耽溺するようになった。本質を欠いた模倣とはそういうものです。

河上徹太郎中村光夫大岡昇平らは小林や吉田の近くにいたので、かえって早くから平明で論理的な文体を選択しました。ただしこれも伝統的な意味で平明な日本語ではなく、小林や吉田が外国語の文脈で文体を組み立てているために悪文となったのだとしたら、河上や中村らは外国人が日本語を平明かつ論理的に扱うように、極度に人工的で土着性を廃した文体を採用したのです。

そして文学界グループ唯一の詩人・中原中也の散文は内容においてもっとも足が地についた、それだけに今日の読者には読みづらいものになっています。中原は同時代の日本語を非常に素直に使って伝えたいことを言い表せたので、発想に無理がない替りに概念を抽象化できませんでした。中原のジッド論の卓抜さがあまり顧みられないのもそのためです。