人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

アメリカ喜劇映画の起源(8) チャップリン1

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 アメリカが世界を征する映画大国になったのは1910年に最初にロサンゼルスに撮影所が建てられ、15年のグリフィスの三時間を越える大作『国民の創生』が長編映画初の舞台劇の記録映画とは異なる映画独自の表現手法を実現してそれまで国際的にヒットしていたイタリアの長編史劇映画を質的に圧倒し、17年のハリウッド撮影所の開設で大規模な長編大作の量産が可能になる、という過程がありました。1889年にイギリスに生まれたチャールズ・チャップリンは10代末ですでに喜劇一座の花形になり、21歳で初めてアメリカ巡業を経験します。1910年代は短編~中編映画の時代で、恋愛メロドラマ、時代映画、連続サスペンス活劇などと並んで短編喜劇は映画の有力ジャンルでした。

 アメリカ巡業ですぐに彼の才能は注目されますが、映画契約よりも舞台公演の方が高額で安定したサラリーが得られるため、チャップリンは1913年度の巡業終了まで映画出演契約を断り続けます。アメリカ巡業は1910年から13年まで毎年行われましたが、映画界からの勧誘は11年にグリフィス門下のマック・セネットからあり、セネットは翌年の自分の喜劇映画専門プロダクション設立を準備していました。チャップリンの映画界入りは14年で、セネットのキーストン社にこの一年だけで35本の短編・一本の長編を残します。短編13作目からは原作・脚本・監督も兼任ですから恐るべき創作力です。

 チャップリンがセネットの勧誘にすぐには応じなかったのは収入もありますが、生粋のイギリス喜劇人である自分の芸をアメリカ人の嗜好とどこまで合わせられるか、巡業経験から学びたかったためと思われます。21歳~24歳の青年芸人の判断としてはこれは驚くほど慎重であり、アメリカ映画自体も1910~1915年は飛躍的な進展をとげていた時期でした。もしチャップリンが即座に映画デビューしたら、1912年の映画技術では他愛ないドタバタ喜劇しか残せずチャップリン自身の俳優生命も短命に終った可能性が高いのです。1914年には映画界は制作中の『国民の創生』の話題でより意欲的な映画作りの気運があり、チャップリンも足掛け五年のアメリカ経験で25歳にしてデビュー即大スターになる力量を身につけていました。そして18年の『犬の生活』までに、一、二年ごとに有利な映画社移籍をしながら、チャップリンは喜劇に本格的なドラマを導入していきます。