アメリカ巡業ですぐに彼の才能は注目されますが、映画契約よりも舞台公演の方が高額で安定したサラリーが得られるため、チャップリンは1913年度の巡業終了まで映画出演契約を断り続けます。アメリカ巡業は1910年から13年まで毎年行われましたが、映画界からの勧誘は11年にグリフィス門下のマック・セネットからあり、セネットは翌年の自分の喜劇映画専門プロダクション設立を準備していました。チャップリンの映画界入りは14年で、セネットのキーストン社にこの一年だけで35本の短編・一本の長編を残します。短編13作目からは原作・脚本・監督も兼任ですから恐るべき創作力です。
チャップリンがセネットの勧誘にすぐには応じなかったのは収入もありますが、生粋のイギリス喜劇人である自分の芸をアメリカ人の嗜好とどこまで合わせられるか、巡業経験から学びたかったためと思われます。21歳~24歳の青年芸人の判断としてはこれは驚くほど慎重であり、アメリカ映画自体も1910~1915年は飛躍的な進展をとげていた時期でした。もしチャップリンが即座に映画デビューしたら、1912年の映画技術では他愛ないドタバタ喜劇しか残せずチャップリン自身の俳優生命も短命に終った可能性が高いのです。1914年には映画界は制作中の『国民の創生』の話題でより意欲的な映画作りの気運があり、チャップリンも足掛け五年のアメリカ経験で25歳にしてデビュー即大スターになる力量を身につけていました。そして18年の『犬の生活』までに、一、二年ごとに有利な映画社移籍をしながら、チャップリンは喜劇に本格的なドラマを導入していきます。