歴史的には、性愛と結婚が結びついたのはつい近代からの、限られた文化圏だけの現象にすぎません。アンドレ・ジッド(1869~1951)が自分の男色嗜好に目覚めたのも、長期旅程のうちアルジェリア滞在中に、性的奉仕を含む召使の少年との交渉があったからでした。禁欲的な家庭・教育環境に育ったジッドには、それは閉塞した文化からの解放の喜びをもたらしました。
ですが帰国したジッドは、処女作『アンドレ・ワルテルの手記・詩』1891~1892のモチーフとなった従姉マドレーヌへの思慕を貫くことを選びます。それが性愛を欠いた、夫人にとって残酷な結婚生活になったのは前回解説した通りです。
ジッドは夫人の純潔さを至上のものと崇拝していましたが、それは彼女の純粋なカトリック信仰によるものでした。これがサディズムの作家なら変態的にしろ性愛は成り立ちますが、処女作では主人公を狂死させたくらいでジッドはマゾヒズムの作家です。ジッドは夫人の純潔を崇拝し尊敬していた、しかし性的な対象とはまったく感じなかったので、想像力の世界ではその愛情はフェティシズムへと化していきました。
つまりジッド作品のヒロインは『背徳者』1902や『狭き門』1909を典型に、純潔のために死んでいくので、これはオフェリア・コンプレックスが原理となっており、こうしたヒロインを描く作者にはナルシシズムを伴うピュグマリオン・コンプレックスの傾向も見られて、総合すればジッドの異性愛はネクロフィリアの欲望、死体愛となります。
簡単な話です。生きている女は嫌。生ける屍のような女なら好き。現代アニメの女性キャラではこのタイプは一種の典型でしょう。
以後、ジッドの女性小説は『イザベル』1911、『田園交響楽』1919、『女の学校』三部作1929~36と続きます。しかしこの時期で重要な創作は『法王庁の抜穴』1914、『贋金つくり』1926であり、自伝『一粒の麦もし死なずば』1920、作家論『ドストエフスキー』1923とルポルタージュ『コンゴ紀行』1927、『ソヴェト旅行記』1936は創作と同等以上の著作です。『背徳者』『狭き門』でジッドは存分に自分の欲望を描ききったともいえるので、文学の上では…『ノルウェイの森』の先祖みたいなものではないでしょうか。