人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ネルヴァル『オーレリア、または夢と人生』

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 19世紀のフランス文学作品で発表当時はまったく世評に上らなかったか黙殺、あるいは珍品扱いされていたものが、20世紀には先駆的な古典として初めてか、または再評価された例はコルビエールやラフォルグら、過小評価詩人の再評価を始めとしていくつもあるが、最大のものはジェラール・ド・ネルヴァル(1808~1855)とロートレアモン=イジドール・デュカス(1846~1870)だろう。この二人はまったく理解されていないか(ネルヴァル)、ほとんど作品が流布していなかった。
ロートレアモンはさておいて、ネルヴァルが20世紀まで理解されなかったのは、ネルヴァルが書こうとしたことが19世紀の文学概念では箸にも棒にもかからない浮き世話だったからで、ネルヴァルの二大代表作と言える短編集『火の娘』1854にしろ、遺作『オーレリア、または夢と人生』1855にしろ、神秘体験を直接作品化しようとしていた。これはもっと以前の『ボヘミアの小さな城』や『十月の夜』ではもっと軽やかな芸術家気質の洒落っ気として出ていて、昭和戦前の通好み作家・牧野信一と作風まで類似している。ネルヴァルは自殺(街頭で縊死)した作家だが、牧野信一も家庭問題から縊死して友人知人の文学者はやはりネルヴァルを思い起こしたという(坂口安吾『牧野さんの死』)。
 ネルヴァルは19歳でゲーテファウスト』の仏訳を刊行、ゲーテからも賞賛されるという早熟な文学者だった。没後の伝記研究から、1841年の初入院から自殺する前年の秋までに12回の重篤な精神錯乱、うち7回は入院に至っている。入退院前後に爆発的な創作活動が見られることから双極性障害が推定される(ピーク時には創作は不可能だが、上昇・下降の過渡期には創作力が旺盛になる)が、あまりに病相の消長が激しく、双極性障害とも断定できないし、それだけとも思えない。
 『オーレリア』は精神分析的小説とも自伝的エッセイとも言えるもので、ネルヴァルにとっては自分の半生の核心をまとめたものだっただろう。前年に、10年に渡って散発的に発表した連作短編集『火の娘』でフィクションとしては満足すべきものができた。『オーレリア』ではついにネルヴァル自身が語り手になる。小説形式の破壊などは意に介さなくなっている。

 ネルヴァルは25歳の頃に舞台女優に恋慕、彼女を学生時代に一度だけ見かけた運命の女性の生まれ変わりと見立てるという屈折が始めからあった。翌年、祖父からの遺産で裕福になった彼は自分が主宰する文芸誌を創刊、女優ジェニー・コロンへの接近を試みるが雑誌は先に破産、五年後には一時婚約寸前まで進んだ彼女とも破局する。ネルヴァル最初の精神病院入院の翌年ジェニーは旅公演中に急死し、生涯ジェニーはネルヴァルの夢想の中に生き続けた。「夢は第二の人生である。」というのがこの小説の有名な書き出しで、プルーストの『失われた時を求めて』もシュルレアリスムの発想もネルヴァルの幻覚的小説が源泉とされる。現実とは可能性の一部にしかすぎない、という認識にも繋がる。これは19世紀的決定論からは正面から対立するものになる。
 『オーレリア』は二部構成で、第一部はネルヴァル生前の1855年1月に雑誌発表され第二部も翌月号掲載用に入稿が済んでいた。だがネルヴァルは1月26日、零下18度で雪の降る早朝、パリの街頭で縊死する。常識的には書きえないものをネルヴァルが書き、それが19世紀の文学の尺度からは一線を越えた狂人の文書だった事情はこれだけでは伝わらないと思うが、作品紹介となるといっそうややこしくなる。ちなみに本邦初訳は佐藤正彰訳の岩波文庫版『夢と人生』で昭和12年(1937)刊、日中戦争開戦の年になり、翌年には国家総動員法が公布されている。偶然岩波文庫版初版を所蔵しているので、その辺りも感慨深い。『オーレリア』、またネルヴァルについてはいずれもっと掘り下げた紹介をします。