人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

偽ムーミン谷のレストラン[集成版(58)-(77)]

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(58)
 ええと続きだったな、どこまで話は進んだっけ?
 ヘムル署長たちがテーブルを直したところだよ、と偽ムーミン。ほほう、とたちまちムーミンパパは皮肉を浴びせかけました。よそのテーブルのことの方が家族の会話より気にかかるのかね?実は私もさっきから気になっているがね。あちらはなにしろムーミン谷の法を自由にできる方々だし、どさくさまぎれに何やらしてはならないことまでやってらっしゃるご様子だ。しかもいい歳どころか現役長老格に当る方々が、まあスティンキーは従者みたいなものだから別としても、好き好んでハート型にテーブルを寄せて座ってらっしゃるとはいったいどういうことだろう?悪だくみをしております、といわんばかりではないかねムーミン
 やたら絡むなあこの親父、と偽ムーミンは閉口しましたが、ムーミンママが珍しく積極的にまああなた、そんなことを言われてもこの子が困っているじゃありませんか、ととりなしてくれたのがかえって不安をかき立てました。ひょっとしたらこのおばさんはとっくにおれの正体をお見通しなのではなかろうか。ならばおれを泳がしておく理由はただ一つ、ムーミンパパとおれの掛け合いをせせら笑っていたいからとしか考えられない。
 あるいは本当に実の息子の身を案じて、おれが無事に息子を返すよう一緒にムーミンパパをあざむいてくれているのかもしれない。だが普通そんなに殊勝なことをするか?と(偽)ムーミンがせわしなく考えをめぐらせていると、
・熟女パブの話ですよ
 とあっけなくムーミンママが話題を戻したので偽ムーミンは一気に混乱し、
・それと熟女サロン
 とつられてつけ加えてしまいました。偽ムーミンだってそんな話題はもううんざりだったのです。
 おお、とその割にはムーミンパパの反応は薄く、さも面倒くさそうに、どこまで話したんだっけなあ?
 共通点は済んだから、今度は相違点の話だよ、と半ばやけくそ、毒食らわば皿の気分で偽ムーミンは吐き捨てました。
 (52)で終っときゃ良かったな、で作者死亡で未完。それじゃ、相違点行こう。わざわざ熟女パブと熟女サロンの二種類があるのは、一方は熟女が働く店、もう一方は熟女が遊ぶ店に違いない。以上話はお終い。
 次はわしらの番だな、とヘムレンさんは言いました。これだけ期待値が下がるといっそ楽かもしれんぞ。

(59)
 ええと続きか、どこまで話は進んだっけ?
 ヘムル署長たちがテーブルを直したところだよ、と偽ムーミン
 私が怪訝に思うには、とヘムレンさんが顎に手をやりながら言いました、ちょっと出番が多すぎはしないかね?われわれ本来の立ち位置なら、こんなに出番はないはずだが。
 それは私も感じていたが、とジャコウネズミ博士。ないといえばきみ、あごひげはどうした?
 おや?きみだなスティンキーくん!いつ私から盗ったのだ?しかも剃り跡まできれいだぞ!
 スティンキーはニヤニヤしながら顔らしき部分からヘムレンさんのあごひげを垂らしていました。顔らしきというのは、スティンキーの全身はトゲの生えた楕円状の球体で頭部も腰部もなく、そんな体の両脇から生えた細い触手が両腕で、臀部に相当する位置から生えたトゲが両脚になっているからです。常識的にも動物学的にも普通このような形態が知的生物とは考えられませんが、ムーミン谷の人びとは現実主義者なのでスティンキーには常識も普通も適用しませんでした。
 おい返すんだ、とヘムル署長は警官の職務に目覚めてスティンキーの背中をどつきました。いててててて。大丈夫か署長、手の甲をトゲが何本も貫通しているぞ。なに慣れてますよ、と署長は一気に手を引き抜きました。素早くやれば血も出ません、多少のしびれはありますが。ほお大したものだ、とジャコウネズミ博士。きみならこの谷の軍事最高任務が勤まるな。はあ?
 というのは昨夜もヘムレンさんと短波ラジオをいじって外世界文化を研究したのだが、これまで不明だった戦争とは交易の究極手段だと見当がついてきたのだ。たとえばムーミン谷がマイメロ村と戦争になったとする。
 マイメロ村?
 短波テレビで観た外世界放送で知ったのだ。ところでムーミン谷軍はマイメロ村軍を叩きのめした。次にすることはなんだろう?
 こちらに有利な条項を結ぶことですか?
 うむ、だが現実は違うようだ。戦勝国は敗戦国の軍事・政治指導者を無条件で処刑できる。三段論法だな。ウサミミ仮面は銃殺刑だ。そこで署長には軍事最高権限とともに超時間兵器の使用許可を与える。これでわれわれは全次元過去現在未来すべてを制圧できる。
 無敵ですな。
 その代わり最高権限者には超時間的責任を負ってもらう。過去現在未来全次元、永遠に勝ち続けねばならない使命がそのリスクだ。

(60)
 ええと続きだ、どこまで話は進んだっけ?
ヘムル署長たちがテーブルを直したところだよ、と偽ムーミン
 ですがヘムル署長たちの関心はもうとうに次の話題に移っていました。ムーミン谷の住民が争いごともなく平和共存しているのは、他ならぬ時間感覚のズレが所属グループごとに明確だからです。ムーミンパパとジャコウネズミ博士が同時に同じ高さのテーブルから皿を落としたとすると、博士の皿が床に砕けた時にはまだムーミンパパの皿は床まで三分の一も届かないでしょう。これは一見ムーミンパパ圧倒的不利で、同じ性能のピストルで撃ちあいをしてもヘムル署長の弾丸はムーミンパパの弾丸の三倍の速度で進みます。
 ですが実戦ではこの相対速度差が相殺するので、ムーミンパパはピストルの弾丸よりも速く移動できますから、ヘムル署長の最初の弾丸さえ避ければヘムル署長が第二・第三の弾丸を撃つより前に、自分の弾丸すら追い抜いて署長の手からピストルを叩き落し、こめかみにゼロ距離射撃をお見舞すれば着弾速度は問題外ですので勝負は決ります。
 うっ、とひと声うめき、全身をびくっと震わせると、ヘムル署長の死体は床にうつぶせに横たわりました。左のこめかみからは赤ワインの瓶を倒したかのように鮮血がかさを増して流れ、レストランの床に血だまりになりました。
 なんてことだ、とジャコウネズミ博士、この店の床は傾いているぞ。血だまりにムラがある。私もいま気づいた、とヘムレンさん、直すべきだな。
 店じゅうの客はそれを聞いて、代表を立て食事中に直させよう、でなければ食い逃げしよう、とガヤガヤし始めました。悪い予感がしてスティンキーは、みなさん食い逃げは犯罪ですぜ、とおそるおそる訴えました。もしそうなれば全員食い逃げは認める、だが主犯はスティンキーだと言うのに決っています。
 ムーミンパパは席に戻るとまだ床に落ちる途中の皿を拾い上げました。追加の黒ビールを頼んどいて良かった、なんだか騒々しくなってきたようだな。
 博士らも席に戻りました。署長も起き上がると席に戻り、一本取られたよ、私より軍事最高官は適任者がいるようだ。そうか、勝負の公平性には若干の残尿感があるがね、まあ男と女の残尿感には違いがあるかもしれんが、と博士。では軍事最高官はムーミンパパで決りかね?そうだな、就任前に引責処刑はどうだ?
 第六章完。

(61)
 第七章。
 ムーミン谷にレストランができたそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 のどちらもいません。いつもならムーミン谷の住民はあれやこれやの口実をたずさえて、ムーミンママのもてなしを目当てに朝から晩までひっきりなしに出入りがありますが、今のムーミン家の居間にはあのニョロニョロすら生える気配はありませんでした。
 ムーミンパパが口をつぐむと再び居間は死の沈黙に包まれました。ムーミンパパはなかなか火の通らないパイプを詰め直すと、自問自答するかのように言葉をつぎました。
 そうだ、わが家は食事のふりならずっとしてきたが、それは家庭という雰囲気の演出のためであって実際に食事をしたことはない。そうだねママ?
 そうですよ、と答えてくれるはずのムーミンママはいません。ムーミンパパは意に介さず、
 私がパイプをくゆらせ安楽椅子で新聞を読んでいるのもそうだ。魁新報ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌すらないのだ。
 パパ、新聞にレストランができたって載ってたの?と訊いてくるはずのムーミンもいません。その頃ムーミンは全身を拘束され、地下の穴蔵に幽閉されていました。かなり冷え込み、また拘束のストレスも強い環境ですが、不条理に拉致監禁されるのはムーミンのような童話のプリンスにはよくあることですから、それに耐え得る神経の太さはムーミンには最初から備わっていました。
 レストランに行くの?とムーミンパパはムーミンの声真似をしてみました。そこだよ問題は、とムーミンパパは自答し、それにはあらかじめいくつかの条件がある。まず正当な連れがいること、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れとは変な組み合わせでレストランに行ったら変だということだ。たとえばママがヘムル署長たちとレストランに行ったら変態の餌食に見えるだろう?
 沈黙。……なら問題を簡単に言おう。私たちトロールは食欲はあるが食事する必要はないのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。
 その頃ムーミン一家は夜のレストランにいました。ムーミンパパだけが、レストランと今でも朝のままの居間の両方にいたのです。

(62)
 それにしても、と(偽)ムーミンは思いました、いったいどのくらい時間が経ったのだろうか。それはたぶん全員共通の困惑だ。スナフキンもスニフもフローレンも、スノークもヘムレンさんもジャコウネズミ博士もヘムル署長も、スティンキーも三人の魔女も、トフスランとビフスランもミムラもミイも、たぶん全員が困惑しているはずだ。ムーミンパパとムーミンママについては、実のところよくわからない。だがそれを言えばわからない連中ばかりだともいえる。ムーミン谷には明確な時間の概念がないからだ。
 お陽さまが登りまた沈む、だから一日という単位や朝昼晩くらいの区分は一応ある。だがそれを等分して時刻を定める習慣はムーミン谷の外の世界では当り前らしい--おれも図書館の本で知っただけだし、外の世界からラジオやテレビ放送を傍受するとどうやらかなり細分化された単位で時間経過は重要な概念らしい。
 この谷にも学者はいる。外の世界の研究は乏しい材料からそれなりに進んでいるようだ。だが学者たちが時間の概念についてあえて研究の成果を示さないのは、時間について語るのは谷のタブーに抵触するからだとしか思えない。
 それは学者たちが法と権力の立場、谷の住民を管理する立場にあるからかもしれない。今までムーミン谷は夜が明ける、陽が登る、陽が沈む、おやすみなさいというだけの時間把握だけで円満にやってきた。昨日、今日、明日より長い日付も必要ない。時間の細分化と単位化をムーミン谷に導入したらどうなるか?
 まず時間把握の順応性の差が世代や種族の間で現れるだろうから、あらゆる生活環境に渡って時間概念の適用の是非をめぐって争いが生じるだろう。今ここでこれといった暴発的不満が生じないのも、具体的な時間経過を谷の住民は測れないので漠然とした不安以上には進まないからだ。
 だがおれ、こうして尻尾を捕まれまいとしてびくびくしているおれは、何のためにムーミンを演じているのか。もちろん楽しみのために。だがおれは今この状況を楽しんでいるといえるだろうか?
 その頃ムーミンはたまの拉致監禁も悪くないな、とくつろいだ気分でした。自由ではないけれど、普段ムーミンが孤独になれる機会はこんな時しかないからです。替え玉がいるのも悪くないな、とムーミンは王子様のように思いました。

(63)
 案外手間はかからなかったな、とムーミンパパはレストランのドアをくぐり、ムーミンムーミンママを振り返りました。ムーミン、実は偽ムーミンは朝の居間の会話中、レストラン行きに危険を察してトイレに立ち、本物のムーミンと入れ替わっていたのです。
 偽ムーミンが抱いた疑惑とは主に、
・情報源があやしい
・謎のレストランというのがくさい
 その根拠は、ムーミンパパが見ていた新聞は今朝届いたとは思えないし、パパの頭はどうも不思議な電波を拾っているらしい。顧客を肥らせ食材にするレストランの話はよくある。偽ムーミンムーミン谷公立図書館に勝手に住んでおり、女性司書とも肉体関係があるので耳年増なのです。さらに、
ムーミン谷には通貨がない
 というのも偽ムーミンの抱いた疑惑の根拠でした。正確には現在は通貨がないが、過去には1ムーミン2ムーミンという単位が存在していたらしい。だがこれは貨幣経済ではなく人身売買が経済制度だった痕跡ではないか、と半ばタブーになっています。
 経済といえばスティンキーくんだろう、とジャコウネズミ博士。こうして表立ってきみと膝突き合せて話すとトゲが刺さって痛いが、プロの見解を聞ける機会は滅多にないからな。いやいや、恐縮するのはわれわれの方さ。きみの職業では、つまり窃盗と横流しだが、やはり通貨に代わる何かがあるのかね?現物交換としても等価交換では商売にはなるまい。
 そうですね、あっしも通貨には関心がありますよ。効率的ですからね。ただ、ムーミン単位制は今やムーミンは稀少種ですからね、金の先物取引と似たリスクが生じるでしょうね。
 なるほど、必要な流通量を確保できないから相場が不安定になるな。
 単位の問題もあります。先物取引としても9999ムーミンまでならいいんです。ところが一万ムーミンとなるとわからない。なぜ9999の次が1になるのか。さらに99999に1ムーミンを足すと一億ムーミンですが、たかが1頭で万とか億に相当するムーミンなど現実に存在しますかね?
 ものすごくでかいムーミン族の個体だろうな、とヘムル署長。山脈を越えて来る前に迎撃せねばならん。
 そこで、とスティンキー、本物が無理なら手頃な偽ムーミンを量産する手がありますよ。あくまで代用通貨ですがね。

(64)
 長い窃盗生活のあいだ、スティンキーのコレクションは役にもたたないがらくたが増える一方でした。職業的窃盗とは盗品売買という目的がないと窃盗自体も目的を失いますが、もとを正せば市場経済という原理がムーミン谷には存在しない以上、スティンキーの活動は盗難ではなく損失として谷の需要を維持させるだけで、スティンキー自身には趣味以上の利益をもたらさないのは明らかでした。
 その状態は以下のように説明できるだろう、とジャコウネズミ博士。まず蓋のついた箱を用意する。箱の中には放射性物質ラジウムと、ガイガー・カウンター付き青酸ガス発生装置が仕掛けてあり、ガイガー・カウンターがアルファ粒子を感知すると青酸ガスが発生するようになっている。
 その箱へムーミンに入ってもらう。そんなに大きな箱なんですかい?うむ、ミイが入るには大きすぎるが、スナフキンが入るには窮屈だろうな。どっちみちヘムレンさんと私はムーミンを念頭に置いて箱を用意したのだ。はあ。
 というのは、この箱にはスティンキーくん自身が入っても実験にならないからなのだ。谷の住民全員にとっても、ムーミンでなければならない理由がある。
 ムーミンが箱に入る。箱の蓋を閉める。一定時間経過後、ムーミンの生死の可能性はラジウム原子核アルファ崩壊する確率次第となる。つまりわれわれは箱の中のムーミンを生きているとも死んでいるとも認識できないのだ。
 蓋を開けて見てはいけないんですか?誰が見るかね?もしムーミンが死んでいたら、見た者まで青酸ガスを吸って死ぬぞ。では誰かに開けてもらって……。それでは直接認識したことにならんよ。呼んでみては駄目ですかね、おーいムーミン生きてるかぁ……。きみももうわかっていると思うが、この実験の趣旨はそういうことではないのだ。
 われわれは普通ムーミンを生きた状態か死んだ状態でしか認識できない。だがこうした実験下ではムーミンの生死は確率的な比率で両立するのだ。これは可能性の飽和状態であり、エントロピーの臨界点でもある。気の毒なムーミン
 生殺しってやつですな、とスティンキー。
 それはきみのことだよ、とジャコウネズミ博士。きみの窃盗は次々と量産型偽ムーミンをガス実験しているようなものだ。だがそれはわれわれ全員の限界で、この場合ムーミン本人だけが死を賭けて真実を知ることができるのだ。スナフキンでもいいがね。

(65)
 ぼくがいる場所は、本来ならぼくにとってはやや窮屈なようだ。椅子がひとつある。丈は低くて背もたれはないから、腰掛けという方がいいだろう。浴室で使うようなやつだ。床、四方に壁、そして天井。この六面の空間は、ぼくの見るかぎりでは、立方体になっている。まっ白の照明、影はない。腰掛けの影すらない。これを書いている携帯電話?基本ソフト以外にデータらしきものは何も残っていない。元々ぼくの持ち物なのか、腰掛け同様この場所にあったものなのか憶えていない。ぼくの持ち物だったなら、初期化してデータを抹消されたのかもしれない?なにしろどこからも電話はかかってこないし、メールも送られてこない。ぼくもとりあえずいくつかの携帯サイトに登録してみたのだが、基本ソフト自体がメール受信全拒否という設定になっているのかもしれない。そして電話は……電話についてはあとで詳しく書こう。きりがない。
 この場所を部屋と呼ぶのに抵抗があるのは、見たところ、またあちこち試してみたが、出入口というものが見当らないからだ。イメージとしては溶接した感じ、ならば照明や換気は一体どうなっているのか。脱いでも着衣でも体感温度はほとんど変らない。照明はずっと一定のため朝も昼も夜もなく、昼夜の推移にともなうはずの気温や湿度の変化もない。寝具はない。
 食事と呼べるなら、食べることは楽しい。積極的に食べる理由はそれしかない。他にすることも大してないのだ。一方の壁の、ぼくの胸くらいの高さからトレイが出てくる。トレイには八つに区分けされたパレットが乗っていて、八色のペーストをパレットから直接舐める。上品な食べ方ではないが、これがすこぶるうまいのだ。たぶん補助栄養素を含む飲料水がトレイの脇から管で飲めて、こちらはいつでも飲めるようになっている。トレイが出入りする開閉口は食事の時しか現れない。やがて尿意や便意を催すと、腰掛けの蓋を開ければ便器になっている。よくできたものだ。ホームレスが夢見る天国のような場所だ。
 部屋の隅には控え目な設備がある。ラジウム、ガイガー・カウンター、青酸ガス発生装置。この三つの関連性は専門外でもわかる。
 そしてぼくは装置が作動しようがしまいが、つまり生死を問わず、もういいぞスナフキン、と呼ばれるまでここから出られないだけは確かなことなのだ。

(66)
 でもなんだか入院みたいで嫌ですねえ、とスノークが苦笑しました。いくら三食上げ膳据え膳、昼寝つきといってもねえ。
ほう、きみも入院したことがあるのかね?とヘムル署長が言外に、バカは病気はしないものだろうとほのめかしました。
 ええ、もうヒマでヒマで、トイレに隠れてはオナニーしていましたよ(実話)。
 あまりに唐突な告白に、それまでスノークの同席をうざったく感じていた悪党四人もぷっ、っと吹き出しました。いやいやスノークくんもなかなかやるな、とヘムレンさん。そんなことフローレンの前では言えんだろう?ところでフローレンはどうした?
 ああ女子トイレですよ。あいつ結構イケるくちでね、水商売上がりですから。きみは未成年の保護者として飲ませておいていいのか?それは専門家が二人もいるから訊いてみましょう。
・スティンキー(もぐり酒場経営)「バレなきゃいいでしょ?どうせ現行犯でなきゃ挙げられないし」
・ヘムル署長(警察兼検察兼裁判官)「時効だ」
 めんどくさい、またはどうでもいい場合は、ヘムル署長はすべて時効で済ませるのです。これによってムーミン谷でかつて起き、また今後起り得るすべての違法行為は時効という判例があるので、ムーミン谷の法体系自体に変化がないかぎりあらゆる訴訟は時効という判決が得られる保証がありました。もちろんスティンキーの主張もこの谷の現実でしたが、それを言いだせばまたムーミン谷ならではのエントロピー飽和理論の蒸し返しになります。
 女のトイレは長いですからね、戻ったらどこかのテーブルに混ぜてもらえ、私は博士たちのインテリ席に行く、と申し渡しておいたんですよ。
 だがきみが加わったせいで五人になってしまった、とジャコウネズミ博士。どこか問題ありますか?並んで写真を撮ると一人死ぬ。いやそれはおいといて、このテーブルだよ。ハート型ですね。これまで四人は左右の両辺と両半円に座ってきた。きみが座れるのはとんがった場所しかないぞ。
 えーっ、ここですか?刺さりそうだな。両辺にお二人ずつ、ハートのくぼみに私では駄目ですか?
 それではきみが司会者でわれわれはパンチDEデートみたいではないか。後から来た者が偉そうなことを言うな。ウェイターに椅子を頼むが、覚悟はいいな?
 いいですけど(渋々)。
 しぶしぶまで読まなくてもよろしい。

(67)
 でもやっぱり入院は嫌ですねえ、とスノーク。いくら三食上げ膳据え膳、オナニーし放題でもねえ。
 ほう、きみも入院したことがあるのかね?とヘムル署長が言外に、その話ならおれにまかせろとほのめかしました。ほのめかすまでもなく、ヘムル夫人(正妻)はムーミン谷立病院の院長兼現役婦長なのです。
 病院は立派な建物で、特に立派なのは門でした。ムーミン谷議事堂も立派な建物で、やはり特に立派なのは門でしたが、設計・建築はムーミンパパの親友で発明家フレドリクソン、アーチ型の門の碑文を決めたのはムーミン谷最高の知識人ヘムレンさんとジャコウネズミ博士でした。
 だがわれわれなどまだまださ、とこの二人はあくまで謙虚でした。『プヴァールとペキュシェ』という本には及ばんよ。
 いいですね、とスノーク。入院中の読書に向いていそうなタイトルだ。きみは入院中はオナニーばかりしているんじゃないのか?いやあオナニーぼけしていても本は読めますよ。でプヴァールとペキュシェのどちらが女ですか?なぜ訊くかね?ならどちらが男です?だって主人公の名前なら男か女のどちらかですよね。
 そうとは限らん。われわれは医学的手段でしか生まれてくる赤ん坊の性別を予測できんが、この場合医学的判定なしには赤ん坊は男と女のどちらかではなく、どちらでもあり得ることになる。……説明が足りんか?
いや、今度はガス箱に入れなくてもいいんですかい?そう毎度毎度は要らんよ。ところで名前というと入院食は知らない魚ばかり出ますね、カペリンとか。
 給食だから安価で安定した食材を使うのだ。魚類は遠い沖から漂着するのでロッドユールとソースユール夫妻の調査が頼りだ。ポリフルとかマグミットも豊富なようだ。のり弁当に乗っている白身魚のフライの類だな。デパケンリーマスというのも出ました、たぶん鮭と鱒のバッタものでしょう。ゼチールは煮魚で出てくるからサバの仲間の青背だろうな。パキシルとは飛び魚の一種かな?飛び魚はうまいからな。デパスは?深海魚だな、きっと実物見たら食欲が失せるぞ。
 ところで谷の議事堂の門の碑文は、
・この民にしてこの政府あり
 そして谷の病院の門の碑文は、
・ここをくぐりし者すべての希望を捨てよ
 でした。

(68)
 フローレンはすぐにこの店のトイレは廊下に出ると見当をつけたので、適当に無難なカクテルを頼み、飲み干したらスノークにちょっちトイレ、と席を立つつもりでした。兄はうむフローレン、だがそのちょっちはやめろ、と言うでしょう。ですが彼女の誤算は適当なカクテルにするべきではなかった、考えるべきだったということでした。
 一回戦。私はロックでいいか、フローレンは?カルーアミルクをお願いするわ。スノークの前には岩、フローレンの前には牛乳瓶が恭しく置かれました。お前のは一応飲み物だな、私のは料理ですらないぞ。
 二回戦。スノークジンライム、フローレン=モスコミュール。スノークには割り箸の手足つきライム……送り盆か、それともバルカン300!か?人ライムってことでしょ、とカクテルを飲むフローレン。これは、と彼女は愕然としましたがおいしそうに飲み、お兄さまお気の毒に、生のライムをかじっても味気ないのではなくて?上等だ!ですがフローレンのカクテルもカクテルではなく、たぶんただの黒酢でした。
 三回戦。スノーク=ホットドッグ、フローレン=ダイキリ。お兄さまヤケになっていません?お前もだ!あら、私のは少なくともこれまでずっと飲み物よ。やがてスノークにはホットドッグとマスタードとケチャップが、フローレンには大根の輪切りが運ばれてきました。彼女はウェイターに、これを串が刺さる程度に海水で煮込んで十分大根が煮えたら大根は捨て、海水の方を容器の外から氷で冷やしてムーミンママに差し上げてちょうだい、と指示しました。これは未来の姑へのフィアンセからの宣戦布告です。
 四回戦。ペリエだ、とスノーク。お兄さま自信おありのご様子ね。お前のいんちきお上品語の方がよっぽど自信おありだ。ウェイターが来ました。フローレンはギムレットを頼みました。食前酒はここまでね、そのかわりちょっち強めにしたわ。フローレン、とスノーク、そのちょっちはどうにかならんか。
 ウェイターが来ました。もう期待せんぞ、とスノークは素早く皿の蓋を取り、これをどうしろというのだ、しかも生きているではないか、自分で絞めろというのか?お持ち帰りなさいますか?いい、下げてくれ。
ペリカン「かぁ」
 そしてフローレン・F・スノークは麦粒入りオムレツを無言で食べ終え、トイレに立ちました。これからフローレン・スノークNと交替するのです。

(69)
 トゥーティッキさんと魔女モラン、フィリフヨンカはもともと親しいわけでもなければ、これから親しくなろうという気もなかったので、なるべくならばそれがきっかけで親しくせざるを得ないような係わりが起きないように、つとめて用心深くしていました。ひとの好いトゥーティッキさんは冷たいモランが苦手でしたし、モランは万事に神経質なフィリフヨンカが薄気味悪く、そのフィリフヨンカはトゥーティッキさんに劣等感を感じていたたまれない気持でした。
 この三人の婦人の共通点を上げる前に、肝に銘じておきたいことがあります。たとえば鳥葬されると鷲はまず肝から食いつくといわれており、ひと口味見して肝のまずい遺体は、
・けっ!
 と崖から蹴落してしまうのです。そうなると故人の尊厳はともかく、鳥葬ならば正規の葬送ですが、崖の下に遺体が転がっていたら遺棄、しかも損壊の跡もあるので、実行犯は鷲ですが鷲に責任は問えませんから結局は遺族の責任になり、もとをただせば故人の不徳のいたす所存です。そのように肝とはあなどると後が怖い臓器なのでした。
 そこで銘じておくべきは悪人であっても人には違いなく、悪習であっても習慣には違いないなら、その論法を通せば規則正しい習慣は良いことなので、悪習ですら善行になり得る、ということでした。おお。
 婉曲話法はここまでです。トゥーティッキさんと魔女モラン、フィリフヨンカの三人の共通点は三人とも元魔法少女でした。なんと!女性の年齢を話題にするのは女性の前でははしたないことで、いわゆる男便所の会話でしか普通はしないものですが、この際それは棚に上げていつまでが魔法少女かというと誰もが納得できる線引きはなかなか難しそうですが、一応の結論としては、
魔法少女←変身または魔法発動アイテムが必要
・魔女←存在しているだけですでに魔力を持つ
という違いがあるのではないか。これで年齢の問題は変身または魔法発動アイテムは少女で通用する年齢層でないと使用適性がない、と解釈すれば説明に一貫性を通せます。
 ではすべての魔女は甲羅を経た元魔法少女なのか、魔法少女はすべからず魔女へと成長するものか、というとこれにはやはり無理があり、各自の特性というものがあるでしょう。なにしろモラン以外の二人は誰にも魔女とは見えないほどなのです。その実、この三人の魔力は十分拮抗しておりました。

(70)
 ウェイターは突然マイクを持って現れました。服装も燕尾服に着替えています。それではみなさま、とウェイターは壁に向って体を斜めにし、当店がお送りする歌姫の舞台をお楽しみください。
 しまった、音楽料金を取られる店かもしれんぞ、とムーミンパパ。食事だけなら踏み倒す自信がある、トロールが飯など食うか!で済むが歌となると聴かなかった、では済まされんぞ。
壁が左右に開くと舞台が現れ、そこに妙齢の乙女がライトを浴びて立っていました。あの人が歌姫、とミムラの胸はときめきました。そして歌姫は歌い始めました。

サッちゃんはね
サチコって いうんだ
ほんとはね
だけど ちっちゃいから
じぶんのこと
サッちゃんて よぶんだよ
おかしいな サッちゃん

 聴いていたみんなの心が暖まっていく気持になりました……トスフランとビフスランを除けば。この夫婦はおたがいしか眼中にないのです。ですがはっきり逆鱗に触れられた気分になったのはミイでした。なによ、私は自分のことミイちゃんなんて呼ばないわよ。そんな思いも知らず、歌姫は続けます。

サッちゃんはね
バナナが だいすき
ほんとだよ
だけど ちっちゃいから
バナナを半分しか
たべられないの
かわいそうね サッちゃん

 ああ、入院で出てきましたよ、とスノーク。変った魚でしてね、生で食べられますが皮を手で剥いて、身は均一で甘味があるんです。だったらそれは魚卵の房なのではないかね?ああ、なるほど、納得しました。
トゥーティッキさんは貧しかった少女時代を思い出していました。家族四人で缶詰め一個がごちそうでしたからバナナは皮まで焼いて食べたもので、彼女を魔女にしたのも食への怨念でした。そして歌は最終連に入りました。

サッちゃんがね
遠くへ いっちゃうって
ほんとかな
だけど ちっちゃいから
ぼくのこと
忘れてしまうだろ
さびしいな サッちゃん

 上品な拍手と少々卑猥な掛け声が店内に響きました。わかんないや、と偽ムーミン、友だちでもないのに?ムーミン、サッちゃんは天国へ行ったのだ。きっと闘病生活だったのだな。
 ブラボーお嬢さん、とムーミンパパは立って拍手しました。お名前を教えてくれないかね。
 チュチュアンヌです、と魔法少女は言いました。歌い料一億万円ローンも可。
 第七章完。

(71)
 最終章。
 ウェイターは依然マイクを持ったまま、服装も燕尾服のままで壁ぎわに立っていました。さきほどまで歌姫が立っていた壁の隠し舞台には無人のまま照明が照りつけていました。それは客席に居合わせたムーミン谷の人びとが自分以外のみんなはいったいこの場をどうしているのか、ひととおりさぐりあってもまだもて余すほどに長い沈黙でした。あまりに長く続くので、その沈黙はまるでひとりとして異議のない完全な同意によって保たれており、これを破るのにも全員の完全な同意を得なければ違反者はムーミン谷沖のどこかに深くあるという伝説のウロボロスの祠穴に沈められて、未来永劫ムーミン谷の呪いを肩代りする怨霊となるのを覚悟しなければならないと思われました。
 公共心以前にムーミン谷には共同体意識自体が皆無であり、秩序が未知と無秩序への恐怖から成り立っているならムーミン谷の住民は生まれながらの魑魅魍魎ですから原則的には恐怖が存在する余地はありません。ムーミン谷では知り得ないことを詮索するのは専門家に任せていましたし、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士が知り得ないことは、博士たちが知り得た大半のことも含めて、生活の上ではどうでもいいことでした--生活しないことも含めてです。ムーミン谷では死とはいなくなること、行方不明になることと同義でしたから、死への恐怖は生まれようがありませんでした。闇への恐怖も飢餓への恐怖もなかったから文明はムーミン谷の発生から発展も退化もしないのです。
 天敵というものがいなかったからだ、と指摘することは容易です。確かにムーミン谷は河川にも海岸・山渓にも恵まれていますがコヨーテやハイエナ、バッファローもおらず、ワニやサメもいません。ですが、
・ワニ「がぶかぶ」
ムーミン「うわああ」
 となってもワニの腹が裂かれればムーミンは無傷で救出され、ワニはこっぴどく叱られて川に戻されるだけでしょう。トロールが相手では天敵になる動物がいないのです。
 では疫病ならどうか、おそらくトロールはすべての感染症に免疫を持つと思われます。つまりトロールの本体は霊体であり、肉体と見えるものは死体と変りありません。だから彼らはどのようにも蘇生することができるでしょう。
 それではみなさま、とウェイターは舞台に向って体を斜めにし、当店がお送りする次の出し物をお楽しみください。
 うんざりした拍手。

(72)
 私としても不本意なことだが、とムーミンパパは呟きました。私たちはもうかつてとは違ってしまったのではないか。もうかつての自分に戻ることはできないのではないだろうか。
 きみらしくもないじゃないか、とフレドリクソンは言いました。どうしたって言うんだい?かつての私たちとは違うとは。
 きみは発明している。
 そうだよ私は、これまでもずっと発明家だったし、今もそうだし、これからも止めないだろう。
 そうだな。そしてユールたちは……。
彼らは夫婦でひと組だからな、きみがスニフの親代わりになってやっているからこれからも冒険の旅を続けるだろうよ。ロッドユールはロッドユールのままだしソースユールはソースユールのままだ。
 きみは最後に彼らといつ、どこで会った?
 おさびし山の中腹にラジウムを採掘しに行った時になるかな?博士たちの依頼で特殊な実験装置を作るためのパーツだったから、あれからいくつか季節が過ぎたことになる。
 季節……季節とはなんだろうか?
 昼間の時間と夜の時間が周期性を持って変化する。それにつれて気候や植物の成育もはっきりした変化がある。われわれは直感的にそれを知る……だろう?
 直感的……
 ……そして季節はわれわれにその時々の果実や根菜、葉野菜をもたらす。きみが変化と言うのはそれか?
 それもある。
 だが真冬にトマトは生らないし、銀杏も毎年同じ季節に落ちる。変化ではなく循環しているだけなんだ。
 きみも循環しているのか、フレドリクソン?あの勇敢なユール夫妻もその冒険の本質は循環にすぎないということか?
 きみは何を言いたい?われわれの営みや自然の運行は確かに変化ではなく循環ではあるだろう。だが積年のうちには小さな量的変化の堆積が質的変化に転じることもある。きみは私たちはかつてとは変ってしまったと言いながら、まるで単なる惰性に堕したかのように言いたげに見える。
 では限定しよう。わが友フレドリクソン、私はかつての冒険家ムーミンに見えるかね?
 それは……かつて冒険家ムーミンであり、今は家庭人となったムーミンパパに見えるよ。だがそれは望んだ変化だったはずだろう?
 そうだ。ならばこの疲労感はなんだろう。私は博士に訊いてみた。博士は哲学者でもあるから。博士は当然だ、トロールに成長はないからと言った。
 つまり……?
 私は歳をとった、ただそれだけのことさ。

(73)
 二人のフローレンは向かい合って手のひらを合わせ、同期を完了させ記憶を共有すると、話し合いは簡単に終りました。
・レストランごと爆破
 --それしかない、というのが二人の一致した意見でした。ですがその前に、二人のフローレンの存在に多少簡略でも言及しておいた方がいいでしょう。
 久しぶりね、と顔をあわせるとF.フローレンとフローレンA.は女性トイレの片隅に次元断層を作り、秘密の会話をするために不可視・不可触なその空間に自分たちを情報化して転送しました。これはトロールには誰しも潜在的に備わっている能力ですが、トロールの普遍的属性にはぼんくらでうすのろという美徳も伴うため、普通のトロールは死期を迎えるまでそれに気づかないのです。
 ですから、生きているトロールには死とは消滅であるか、または滅多にないことですが肉体の完全な活動停止として誤認されることもあります。これは正確には活動を停止した肉体ではなくて、情報化不完全な転送の残滓にすぎません。
 ムーミン谷でこの能力に覚醒しながら生活しているのは元ノンノンことフローレンだけでした。谷の辺境に位置するらしい巨大ソープランド……辺境は確かだが場所は一定しないらしい、温泉の魔女が支配するその施設に徴発され、ノンノンと呼ばれて強制労働させられているうちにフローレンには自分をF.フローレンとフローレンA.に分離も統合もできる能力が芽生えたのでした。これはどういうことかというと、二倍働くことも可能なら交互に休むことも可能ということでした。F.とA.というのも二人が直観的に一方をfictionalでもう一方をaltarnativeと理解したのにすぎません。女のカンに理屈はないのはトロールでも同じらしいので、フローレンとは実は一人のようで二人いる、それは誰も知らない彼女だけの秘密でした。
 あるいはフローレンは強制労働下で何らかの理由で落命した、そこで落命の記憶を持たない新たな二人のフローレンが生まれた、とも考えられます。ならば今はフローレンは死後の世界を生きているわけですが、世界の連続性は記憶の中にしかないのです。ムーミン谷で他人をあてにするほどあてにならないことはない。ですが彼女の危機察知能力は今、レストランの出現に激しく反応していました。爆破しなければ、あのレストランを。

(74)
 フローレンが戻ってくるとテーブルはかなり入り乱れており、特に子供がこんなにいたっけとミムラとミイのテーブルを向けば数人の兄弟姉妹しかいないのを見ると、正体不明のガキどもはミムラ族からはぐれたに違いない。長女で母親代わりのミムラと、とにかく小さく年中キーキーうるさいミイを除けば30人を越す彼らミムラ族の兄弟姉妹は性別年齢すら識別不可能で、状況的にミムラとミイがいなければミムラ族の子供とすらわかりません。フローレンはかなり、をすっかりに訂正しました。
 彼女はスノークの姿を探しましたが、兄の方が先にフローレンを見つけました。よおフローレン、とスノーク、やはり女のトイレは長いな。フローレンは顔をしかめました。彼女が似合わないと言ったのにスノークは自慢のネクタイをしてきましたが、しぶしぶ出掛けに結び目を整えてやったのに(自分では結べないので)今ではそれは誇示するように酔っぱらい結びになり、両端を背中に垂らしています。へへへ、とわざと好色めいて笑うそぶりは、彼女がもっとも忌み嫌うものでした。妹が客の袖を引く過去を持つことへのあてつけのつもりなのです。
 どうしたの、とフローレンは冷たく訊ねました、私がいない間に何があったの、と言葉を継ぐより早く、シルクハットを前傾45度にかぶったムーミンパパがものすごい足音とともに、やあフローレン!と突進してきました。しかも隣にスナフキンがとっさのダッシュでゼエゼエというあり得ない光景。よく見れば二人は手錠でつながれ、ムーミンパパが得意気に胸元に握りしめた縄はヘムル署長を先頭に男性客の腰を一列に結びつけていました。なるほど足音がものすごかったわけです。とフローレンが感心するわけはなく、ムーミンパパを無視し、ついでに助けを求めるスナフキンの眼差しも無視すると、どうやら女性たちは数人ずつレストランの隅に避難している様子からたぶんそれほど普段よりいかれてはいないと見当をつけました。
 しかしどこのグループなら頼りになるか。ミムラとミイはあまりに無力だし、ムーミンママは強力だが未来の宿敵、フィリフヨンカさんたちはびくびくしながらどうせ婦人議席の拡充とか無駄な正論を話しているだけに違いない。すると、フローレンはようやく事態を収拾できる唯一の存在に気づきました。
 ねえムーミン、とフローレンは呼びかけました、こっち向いて。

(75)
 どうしたんだい、フローレン、と偽ムーミンはびくびくもので向き直りました。ずいぶん顔がこわいよ、と言いながら偽ムーミンは思考を高速回転させていました。何か本物のムーミンらしいことを言わなければならない。それは本物のムーミンには必ずしも思いつかないとしても、当面の相手がムーミンから期待しているような応答になる。
 そこでおそらく望まれているムーミン像は、
・基本的に天然無垢
・だいたいは的外れ
・ときどき図星を突く
 というようなものだろうと、漠然と偽ムーミンは考えていました。もちろん各人のムーミンに対する態度は微妙に異なるもので、ミイが遠慮なく馴れ馴れしいのはムーミンを対等以下と見倣しているのはわかりやすい例ですし、スノークとなると完全に子供扱いで、スナフキンは一緒に夕陽を見ている時などムーミンの手に手をそっと重ねてきたりもします。偽ムーミンが入れ替わっている時にも何度かそれはありましたが、覚られないように表情を見るとスナフキンは夕陽に顔を向けているだけで、瞳孔は大きく開いて、ほとんど眼全体を黒目にしていました。ムーミンの手を取って何か愉悦を感じているのです。これは偽ムーミンの入れ替わりに気づかれてはいない証拠でもありますが、薄気味悪いことでした。
 ですが偽ムーミンにとってもっとも苦手な相手はフローレンです。こいつは婚約者の資格でどんなに滅茶苦茶な質問、無理難題の要求すらできると思ってやがるんだ。相手がムーミン本人なら構わない。だがおれが入れ替わっている時にこいつに関わるのは真っ平だ。だけど今は何か無難なことを言わねばならない。偽ムーミンはフローレンが席を外して戻ってきたらしいことを察しました。そうでなければわざわざ話かけてくる用もないはずです。
 どうしたの、お兄さんと何かあったのかい?とするりと、ただし大して心配した様子もなく台詞が出て、偽ムーミンは内心ガッツポーズをとりました。偽ムーミンの知る限り、スノークとフローレンの兄妹仲はうわべは睦まじく水面下はドロドロであるはずです。この兄妹はともに見栄が強いから、フローレンの答えはいいえ、何も。それ以上に会話は進まないでしょう。
 しかし偽ムーミンは読みを誤りました。フローレンは真顔で尋ねてきたのです。私が少し席を立った間に、レストランでいったい何があったの?

(76)
 その頃ムーミンは全身拘束具を架せられ手も足も出ない状況にありました。幸い横たわった姿勢で、四肢もなんとか伸ばせますので、拘束というよりは一種のサナギに包まれているような状態です。たぶんこれがナンバーキーなんだろうな、という数字の文字盤が手の触れる位置にありました。ムーミンは四桁を目安に何度か数字を入力し、エンターキーと思われるものを押してみましたが、見えないので仮に0から9の数字が回転式の表面に刻印されていたとして、10の四乗ですから一万通りの組み合わせがあることになり、暇つぶしにはもってこいですがあまりに単調ですから、さすがのムーミンでもこんなことは試みない方がまだましとすぐに諦めました。このナンバーキーが拘束解除と決まったわけでもないのです。自爆スイッチだったらシャレになりません。
 もっともムーミンがこの拘束具に拘束されるのは今回が初めてではなく、肉体ごとのすり替わりではなく精神交換で偽ムーミンとの入れ替わりを強要される時はいつもこの手口が使われました。強要といってもムーミンが言い負かされて従っているので任意でもあり、同時に二人のムーミンがうろうろしているのはまずいだろ?なるほどそれももっともで、こうしていなければ退屈で出歩きたくなるだろ?それもその通りなのでムーミンは大人しく拘束、ただし肉体的には偽ムーミンの状態で拘束されていました。拘束されているのも退屈きわまりないことですが、精神交換の唯一の楽しみは同期している偽ムーミンの活動状況が情報としてのみわかることで、読めるだけでテレパシー会話はできませんがムーミンはレストランで偽ムーミンが見聞きしたすべてを識ることができました。
 そしてムーミン本人は一切の刺激がない状態ですから、皮肉なことにこの場合拘束されたムーミンが認識主体で、偽ムーミンは情報端末でしかないとも言えるのです。特に偽ムーミンが混乱した状況にあるほどムーミンは事態を冷静に判断できますから、フローレンはどうやら別のフローレンになって戻ってきたようだな、と気づきました。それなら彼女にはきっと何か企みがあるんだ。現に彼女は自分が席を外した間に何があったか気にしている。即答ができずに困っていると、ねえムーミン教えてよ、とフローレンは食い下がってきました。それともこう呼ばなくちゃ駄目かしら……教えてよ偽ムーミン

(77)
 これはいったいどういうことか、と平静を装いつつ、偽ムーミンムーミンからのフィードバックを期待しましたが、精神交換して情報は同期していても思考まで読めるわけではないのです。変だよフローレン、と偽ムーミンはなんとか間抜けな笑顔を浮かべ、きみまで様子がおかしいよ、と、言ってしまってから冷や汗が滲みました。どんなことであれフローレンを余計に刺戟しないに越したことはありませんが、口にしてしまったからにはもう手遅れです。まあ隣にお座りよ、と偽ムーミンは椅子を引きました。
 フローレンは無言で一歩前に近づいてきました。彼らの背丈はほぼ同じですが、偽ムーミンは腰かけていますから、立ったまま無言でいるフローレンからの威圧感は相当なものでした。彼女が自信ありげにおれを偽ムーミンと呼ぶのは、彼女自身がそう気づいたのか、それとも秘密を知っている二人のどちらか、ムーミン本人か図書館司書が洩らしたのか。どちらも考えられないことだ。では?
 ちょっとくらいヒントをくれよムーミン、少なくともこの女のことはお前が一番よく知っているはずなんだろ、と偽ムーミンは思考を巡らせましたが、この事態はムーミンには偽ムーミンを通して届いているはずなのに、ムーミンからのリアクションはまったくないのです。彼らは二人ともインプットはあってもアウトプットはない状態のため、偽ムーミンが探りを入れてもムーミンただ今拘束中という感覚が確かめられるだけです。使えない奴、と偽ムーミンは腹を立てましたがこういう仕掛けにしたのは偽ムーミン自身なので、不測の事態を呪うしかありませんでした。
 そうだ、と偽ムーミンは立ち上がりました、スナフキンに訊いてみようよ。これはいい提案だと思ったのですが、フローレンはふん、と鼻で笑うと偽ムーミンの引いていた椅子に腰をおろしました。
 無駄よ、見て判らないの?ん、とスナフキンを見るとまん丸の黒ぶち眼鏡に赤っ鼻と口ひげ、さらにタキシードを着せられて、いかれた踊りを嫌々やらされているようでした。あんなところに声かけられると思う?確かにそれは難しい、と偽ムーミンも思わざるを得ません。でもぼくだって説明できないよ、きみが席を外していた間、というのはいつからなのかも知らないんだから。
 だったら体に訊くしかないわね、とフローレンは手袋を外しました。

(全80回完結)