人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

年末年始スペシャル!原作『砂の上の植物群』

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 明けましておめでとうございます。2014年~2015年の年末年始スペシャルは久しぶりの官能ネタで喜ばしいかぎり。普段このブログはお色気が欠如しているからです。これでも以前は尿酸と官能のブログだった頃があるのですが、最近はすっかりクリーンな記事ばかりになってしまった観があるからです(わざとそうしているのですが)。
 『砂の上の植物群』の原作者は、新潮文庫版のプロフィールを転載するとこうなります。

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吉行淳之介
ヨシユキ・ジュンノスケ
(1924-1994)1924(大正13)年、岡山市生れ。東京大学英文科中退。1954(昭和29)年「驟雨」で芥川賞を受賞。性を主題に精神と肉体の関係を探り、人間性の深淵にせまる多くの作品がある。また、都会的に洗練されたエッセイの名手としても知られる。1994(平成6)年、病没。主要作品は『原色の街』『娼婦の部屋』『砂の上の植物群』『星と月は天の穴』(芸術選奨文部大臣賞)『暗室』(谷崎賞)『夕暮まで』(野間賞)『目玉』等。


 この人は、村上春樹とは正反対に文壇人としての存在感で、現在の村上春樹に匹敵する純文学の人気作家でした。村上春樹は文壇とは関わらない、というスタンスで別格的作家になったわけですが、吉行淳之介は文壇の人事部長みたいな人でした。人気では1978年の『夕暮れまで』までが全盛期だった人です。当時としてはきわどいセックスをテーマに、退廃的で非政治的な立場から作品を書いたので、かえって中立的立場の存在でいられたのでしょう。実際にトラウマやセックスの重視など村上春樹作品との類似はかなり大きいと思えます。80年代中期から晩年は逆に新世代の作家の台頭ので急速に霞んでしまった作家という印象は否めません。
 長編小説『砂の上の植物群』は私小説的な設定がトリックになっていて、父・吉行エイスケ(母は吉行あぐり、妹は吉行和子吉行理恵)という吉行自身の家庭環境が主人公の父親コンプレックスと近親相姦願望に投影されているように読者には読まれることがミスディレクションになっています。あらすじとしてサイト『Movie Walker』から引用しますが、これは原作小説に準拠したあらすじで、中平康監督作品『砂の上の植物群』は映像的な工夫によってこのあらすじからはかなり異なったものになっています。映画『砂の上の植物群』が1964年8月29日公開、原作小説は2月に刊行されたばかりでベストセラー中でしたが、雑誌連載は『文学界』1963年1月~12月なので単行本化を待たずに映画化が企画されたのでしょう。
 原作小説の結末は以下のあらすじ通りですが、映画ではさらに退廃的で虚無的な、長いラスト・シークエンスが付け足されていて、ある意味現代文学では当たり前になってしまった吉行淳之介の小説手法よりも、はるかに鮮烈で驚異的な映像作品になっています。中平康作品にはアントニオーニの60年代初頭作品から影響がありますが、アントニオーニの70年代作品『さすらいの二人』をはるかに先取りしています。原作も現代文学の里程標というべき小説ですが、比較すると中平康監督作品ははるかに鋭利で衝撃的な作品でしょう。DVD化が流れてしまったら、またNHK-BSででも再放映してくれないものか。50年前の映画が現在の倫理基準でDVD化不可能なんて(権利関係かもしれないが)理不尽きわまりないことです。では、以下映画サイトからのあらすじ引用ですが、これは映画ではなく原作小説からまとめてあるあらすじです。肝心な映像表現の画期性はこのあらすじだけではわかりません。やばいキーワードは「未成年との性行為」「SM行為」「近親相姦」でしょうね。新年そうそういいのか、こんな記事で(笑)。
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[あらすじ]
 化粧品セールスマン伊木一郎は、ある夜マリンタワーの展望台で見知らぬ少女に声をかけられた。真赤な口紅が印象的だった。少女は自ら伊木を旅館にさそった。裸身の少女は想像以上に熟れていたが、いざとなると拒み続けるのだった。二人は名も知らずに別れた。一週間後二人は再び展望台で出逢った。今度は伊木が少女を誘った。少女は苦痛をうったえながらも、伊木の身体をうけ入れた。少女はその夜はじめて名を名乗った。津上明子、高校三年生だった。明子の姉京子は、バー「鉄の槌」のホステスをしていた。親代りの姉は、明子に女の純潔についてやかましかった。が、自らは昼日中から男とホテルにいりびたっていた。明子はそんな京子を激しく憎み、伊木に姉をひどい目にあわせてくれとたのんだ。伊木はそんな京子に興味を感じ、バー「鉄の槌」を訪ねた。その夜、伊木は京子を抱いた。京子は、マゾヒスティックな媚態で伊木にこたえた。伊木と京子のゆがんた密会は続けられ京子のマゾヒスティックな欲望はつのる一方だった。伊木も京子との異常な情事におし流されていった。が、そんな一方、伊木は父と懇意な床屋から、妻の秘密をさぐっていった。床屋は父と妻との関係は否定したが、父と芸者との間に生まれた腹違いの妹がいることを告白した。その名は京子といった。しかも明子の話では、姉妹は父違いだというのだ。伊木は重苦しい疑惑にさいなまされた。そんなとき、明子から姉のことを知りたいと電話があった。伊木は京子を旅館の一室に、あられもない姿のままとじこめ、明子の前にさらした。床屋がいう京子は別人であった。全てが終ったと思った。が、数日後再び会った伊木と京子の脳裏に「いこう」という言葉が同時にひびいた。夕日に染まる海岸通りに二人のシルエットがすいこまれていった。(『Movie Walker』より)
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 映画ではこの後、ヨリを戻し、近親相姦の可能性がなくなった以上もはや背徳感も失い愛着も執着も興奮もない二人が、エレベーター(階ごとに開く)の中で無感動にキスしたまま硬直している長いエンド・シークエンスの頽廃感は圧巻でした。大人の、しかも人生に疲れた人間にはたまらない訴求力のある作品で、いつかまた観られるでしょうか?小説も悪くないですが、映画はさらにその上を行っているのです。