人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Kiss - April 2, 1977 / Tokyo, Japan

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Kiss - April 2, 1977 - Tokyo, Japan: http://youtu.be/I7k2UMXeYEc
1. Detroit Rock City - d
*Take Me - e
2. Let Me Go,Rock 'n' Roll - b
*Ladies Room - e
3. Firehouse - a
4. Makin' Love -e
*I Want You -e
5. Cold Gin - a
*Do You Love Me -d
6. Nothin' to Loose -a
7. God of Thunder -d
8. Rock and Roll All Nite -c
(Encore)
*Shout It Loud -d
*Beth -d
9. Black Diamond -a
(* - not included)
Paul Stanley - Guitar,Vocals
Ace Frehley - Lead Guitar
Gene Simmons - Bass,Vocals
Peter Criss - Drums
(a~eはアルバム・リスト参照)
*

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 1977年のKISSは人気・実力ともに最高の時期だった。初の来日公演の注目度は高く、テレビニュースにまでなったくらいだった。今でこそHR/HMバンドの異様なメイクは珍しくなくなっているが、1977年にKISSのあのメイクは、グラム・ロックという先例があってもたまげたものだったのだ。つまりグラム・ロックがアピールしたのはハイティーン以上のリスナーだったのだが、KISSは中学生の坊主にもアピールした。ロックに関心などない中坊にも受けたのだった。ここに紹介したのがNHK教育で(確か)土曜日の午後に放映された武道館コンサートで、翌週の登校日には男子生徒の話題は「観たか?」「観た観た」「すげえな」「んだんだ」とKISS一色だったのを覚えている。NHK教育の「ヤング・ミュージック・ショウ」ではウィングスの『ロック・ショウ』なども放映されて、中学時代はビートルズのアルバムを1枚1枚集めていたから(ビートルズを集めきるまで、ビートルズ以外はシングルしか買えなかった。ストーンズなら『黒くぬれ!/レディ・ジェーン』『悲しみのアンジー/シルヴァー・トレイン』、パープルは『ハイウェイ・スター/ストレンジ・ウーマン』、エアロスミスは『ドリーム・オン/ウォーク・ジス・ウェイ』など)ウィングスの放映など食い入るように観たものだが、ビートルズ好きの仲間うちでしか話題にならなかった。だがKISSは良かれ悪しかれ違った。

 KISSの来日公演のテレビ放映が受けたのは、あんなパイロだの火吹きだの血を吐くだのドラムセットがせり上がるだの、今観るとハード・ロックのショウ化に与えた影響はすごいんだなと感心する。ビートルズ以上の影響力、とまで評した音楽ライターもいて、さすがにそこまで言うのはまずいと思うしKISS自身もビートルズの70年代型パロディといえるバンドなのだが、一見悪趣味な冗談バンドのようでいて、音楽は実にしっかりしている。
 ヴァン・ヘイレンのプロ・デビューがKISSの肝いりだったのは有名な話だが、まだ4枚目あたりの頃に当時の「ミュージック・ライフ」編集長・東郷かおる子さんが「KISSくらいに曲が良ければねえ」とヴァン・ヘイレンを評していた。当時はピンとこなかったのだが、今ならわかる。凝ってもいないし名曲というほどの曲もないのだが、KISSの曲はシンプルながら飽きのこない、よく練れた作りになっているのだ。どこかで聴いたことがあるような既視感も効果的で、『ファイアハウス』はフリーの『オーライト・ナウ』、『レット・ミー・ゴー、ロックン・ロール』はツェッペリンの『コミュニケーション・ブレイクダウン』のリズム・パターンを流用しながら、良く聴かないと気づかないほど有名曲から上手くアイディアを利用している。このライヴではやっていないが『彼女』などは明らかにブラック・サバスがネタになっているのに、『地獄の狂獣』のライヴ・ヴァージョンではドアーズの『ファイヴ・トゥ・ワン』からギターソロを引用している。だいたいKISSの曲の元ネタはドラムスとリード・ギターに注意しているとわかる。

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 KISSのリーダーはポールとジーンだが、70年代KISSの魅力はビル・ワード(ブラック・サバス)を軽くしたようなピーターのドラムスと、なりきりジミー・ペイジ型ギタリストのエースがかもしだす実に愛嬌あるバンド・アンサンブルにあった。80年代にピーター、エースと相次いで馘首、または脱退した後も実力のある新メンバーで活動を続けたが、ピーターやエースよりテクニックに優れたプレイヤーを招いたからか、70年代の良い意味隙のあるサウンドではなく、ソリッドでタイトなメタル寄りのロックになってしまった。だが今はファンもほとんど三世代に渡っており、再加入・再脱退したピーターやエースとも関係は円満になったようで、新メンバーもピーターやエースのメイクをそのまま譲り受けるようになった。サウンドも70年代KISSをうまく現在のファン向けに仕立て直したようになり、落ちつき場所を見つけた、というところだろう。
 この77年の来日コンサート・ツアーは全公演が同一のセット・リストで、翌78年の2度目の来日公演までのアルバム・リストと併せて紹介したい。アルバムの後にa~eまで印をつけたのは、先の曲目リストに対応している。

1974 : キッス・ファースト 地獄からの使者 Kiss - 87位 ゴールド(US)-a(4曲)
1974 : 地獄のさけび Hotter Than Hell - 100位 ゴールド(US)-b(1曲)
1975 : 地獄への接吻 Dressed to Kill - 32位 ゴールド(US)-c(1曲)
1975 : 地獄の狂獣 キッス・ライヴ Alive! - 9位 4Xプラチナム(US)
1976 : 地獄の軍団 Destroyer - 11位 3Xプラチナム(US)-d(5曲)
1976 : 地獄のロックファイアー Rock and Roll Over - 11位 2Xプラチナム(US)-e(4曲)
・来日コンサート・ツアー
1977 : ラヴ・ガン Love Gun - 4位 4Xプラチナム(US)
1977 : アライヴ2 Alive II - 7位 2Xプラチナム(US)
1978 : ダブル・プラチナム Double Platinum - 22位 プラチナム(US)

 全15曲のステージで(時間枠の都合でテレビ放映されたのはそのうち9曲だが)、近作2作から5曲・4曲と多く演奏しているのは普通だが、デビュー作からも4曲演奏しているのは彼らならではで、ライヴ・アルバム『地獄の狂獣』やベスト・アルバム『ダブル・プラチナム』での扱いもデビュー作は突出している。『地獄の軍団』『地獄のロック・ファイアー』も充実したアルバムで、特に後者ではピーターが歌うロッド・スチュワート風のフォーク・ロック『ハード・ラック・ウーマン』がヒットしたが、前作収録のバラード『ベス』でもピーターはヒットを飛ばしており、『ハード・ラック・ウーマン』はポール単独作・『ベス』はピーターとプロデューサーの共作だが、全15曲のステージでドラマーが2曲は多い、と判断されたのだろう。
 この来日公演はウィキペディアの「キッス(バンド)」の項目にも特記されている。以下引用します。

 1977年、SNEAK ATTACK TOURと銘打った初来日ツアーを敢行。大阪厚生年金会館日本武道館などを超満員にする(オープニング・アクトにはデビュー間もないBOW WOWが起用された)。初来日時のツアー・パンフレットには、演奏される曲目があらかじめ印刷されており、アンコールも含めて綿密に計算されたパッケージ・ショウであることがわかる。4月2日の日本武道館公演ではNHKによるビデオ撮影が行われ、後に「ヤング・ミュージック・ショウ」で放映され、社会的大人気を獲得した。(ウィキペディアより)

 だが翌1978年に再来日したKISSは、初来日後発表の『ラヴ・ガン』と『アライヴ2』で4位・7位という最高のヒット・アルバムをものしながらも、ジーン&ポール組に対するピーター&エース組の不満は爆発一歩手前だった。そこで1年休んでメンバー全員がソロ・アルバムを同時発売し、翌79年にはディスコ・ブームに乗ったアルバム『地獄からの脱出』Dinastyから『ラヴィング・ユー・ベイビー』の大ヒットを出す。オリジナル・メンバーの70年代KISSはここまでだった。

 平成7年(1995年)に某社文庫から翻訳刊行されたジョウ・スミス『ポップ・ヴォイス スーパースター163人の証言』(原著1988年)は当時存命中のアメリカの戦前からのポピュラー音楽界の著名人たちに2年がかりでインタヴューしたという労作で、たとえばスタン・ゲッツのように刊行前に逝去した人も何人もいる。この訳書は訳者による原音主義で統一されており、「キス」のメンバーとして「ジーン・シモンズとポール・スタンリー」が出てくる。KISSの前身バンドはコロンビア傘下のエピックに売り込みに行ったが、エピックのプロデューサーだったドン・エリスはバンドのメイクにも演奏にも嫌悪感を示したという。ジーン(ビジネスマン的)とポール(ロックン・ローラー的)な語り口の違いも面白く、今では知られたことだがジーンはイスラエルからの移民一世でポールはニューヨークっ子であり、ジーンばかりかポールもユダヤ人だった。全員を白人メンバーに見せるためにもメイクは必要だとジーンが提案したのもポールが乗りの良いキャラクターだったからだろう。火を噴く演出も誰がやるかとなったら、進んで買って出たのはジーンだった。レノン=マッカートニーのような天才コンビではなかったが、ジャガー=リチャーズ的な絆はあったのだ。ストーンズよりもメンバー・チェンジが多いだけにもっと大変だったかもしれない。70年代はコンサートのために経費をかけすぎてかえって赤字だったという。
 インタビューの前文にジーンとポールの紹介文がある。原著にあったものを訳したのか、翻訳書でつけ加えたか、どちらにしても致命的な誤りがある。原著刊行が1988年となると翻訳者がつけ加えたという可能性が高い。某社文庫とぼかし、訳者の名前を記さなかったのは出版社と訳者に配慮したことで、人間誰でも間違いはある。だがこんな誤りをそのまま刊行するようでは、出版社も編集者も校正者も翻訳者もあんまりだろう。引用します。

ジーン・シモンズとポール・スタンリー
[シモンズは一九四九年八月二十五日、イスラエルのハイファ生まれのベース奏者で、一九九一年死亡。スタンリーは一九五二年一月二十日、ニュー・ヨーク市生まれのギター奏者。]