人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Billie Holiday - Billie Holiday Sings Solitude (Clef, 1952/Verve, 1956)

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Billie Holiday - Billie Holiday Sings / Solitude (Clef, 1952/Verve, 1956) Full Album
from "Lady Sings The Blues" (Not Now Music) : http://youtu.be/OHQcZy5DF_Y
Recorded March 26, 1952 at Radio Recorders, Hollywood, Los Angeles, California, expect* April, 1952, Los Angeles, California
[1956 LP, Solitude]
A1. "East of the Sun (and West of the Moon)" (Brooks Bowman) - 2:54
A2. "Blue Moon" (Richard Rodgers, Lorenz Hart) - 3:31
A3. "You Go to My Head" (J. Fred Coots, Haven Gillespie) - 2:56
A4. "You Turned the Tables on Me" (Louis Alter, Sidney D. Mitchell) - 3:29
A5. "You'd Be So Easy to Love" (Cole Porter) - 3:01
A6. "These Foolish Things" (Harry Link, Holt Marvell, Jack Strachey) - 3:38
B1. "I Only Have Eyes for You" (Al Dubin, Harry Warren) - 2:57
B2. "(In My) Solitude" (Eddie DeLange, Duke Ellington, Irving Mills) - 3:31
B3. "Everything I Have Is Yours"* (Harold Adamson, Burton Lane) - 3:43
B4. "Love for Sale"* (Porter) - 2:56
B5. "Moonglow"* (Eddie DeLange, Will Hudson, Irving Mills) - 2:58
B6. "Tenderly"* (Walter Gross, Jack Lawrence) - 3:23
[Personnel]
(Performance)
Billie Holiday - vocals
Charlie Shavers - trumpet
Flip Phillips - tenor saxophone
Oscar Peterson - piano
Ray Brown - double bass
Barney Kessel - guitar
Alvin Stoller - drums
(Production)
Norman Granz - producer
David Stone Martin - artwork

 上の画像はヴァーヴ・レーベルからの12インチLP『ソリチュード』1956のもので、元々このアルバムはビリー・ホリデイ(1915~1959)のクレフ・レーベル移籍第1作の10インチLP『ビリー・ホリデイ・シングス』1952に、第2作『アン・イヴニング・オブ・ビリー・ホリデイ』1953からの『テンダリー』、第3作『ビリー・ホリデイ』1954からの『エヴリシング・アイ・ハヴ・イズ・ユアーズ』『ラヴ・フォー・セール』、『ムーングロウ』を追補したものだった。『ビリー・ホリデイ・シングス』は全曲1952年3月26日録音、追加曲は同年4月某日(不明)録音で、録音の時期も離れずメンバーもスタジオも同じとあってムードの統一はとれている。1950年から実用化されたLPレコード(それまでは片面3分台のSPレコードだった)が10インチLP(片面12分)から12インチLP(片面最大30分)に移行するのは1955年からになり、ビリーのアルバムでは『ミュージック・オブ・トーチング』が1955年のクレフ改めヴァーヴ・レーベルからの12インチLPになる。ビリーがクレフ/ヴァーヴ・レーベルに残したアルバムは、スタジオ盤は10インチLP3枚・12インチLP7枚(10インチLPの再編集アルバム除く)、ライヴ盤はJATP(Jazz At The Philharmonic)公演から1枚(1954)、自伝発売記念の『ビリー・ホリデイ・リサイタル』1956、LPの片面ずつをエラ・フィッツジェラルドと分け合った『アット・ニューポート』1958がある。せっかくの公式ライヴ盤なのにクレフ/ヴァーヴからのアルバムは調子の悪いコンサートで生彩に乏しい。没後発掘ライヴにもっと良いものがいくつもある。
 追加曲は12インチLP『ソリチュード』のB面最後にまとめてあるとはいえ、元になった10インチLP『ビリー・ホリデイ・シングス』では1952年3月26日録音の8曲も大幅に曲順が異なっていた。ジャケットと曲目を上げる。

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[1952 10" LP, Billie Holiday Sings]
A1. "I Only Have Eyes for You" - 2:57
A2. "You Turned the Tables on Me" - 3:29
A3. "Blue Moon" - 3:31
A4. "(In My) Solitude" - 3:31
B1."These Foolish Things" - 3:38
B2."You'd Be So Easy to Love" - 3:01
B3. "You Go to My Head" - 2:56
B4. "East of the Sun (and West of the Moon)" - 2:54

 ふーん、なかなかと興味深いが、録音記録に当たってみると実は凝った曲順になのは『ビリー・ホリデイ・シングス』の方で、『ソリチュード』の曲順は3月26日分+4月某日分ともども録音順に並べているだけなのだった。ビリー・ホリデイのクレフ/ヴァーヴ録音をもれなく網羅するには、10インチLPがオリジナルのものは10インチLPで、1955年以降のものは12インチLPで勘定する方がすっきりする。
 だが12インチLP『ソリチュード』の魅力はジャケットにも負うところが大きい。また、ビリーのキャリアには3回の大きなブランクがあり、最初は1942年2月のコロンビア・レーベルへの最終レコーディングから1944年3月のコモドア・レーベル移籍後の録音で、これは全米音楽家組合によるレコーディング・ストライキの時期に続いて違法薬物所持違反により13か月収監されたのだった。
 44年秋にはコモドア・レーベル主宰のミルト・ゲイブラーが大手デッカに入社したためビリーもデッカに移籍し最盛期といえる録音を次々に世に送るが、ハリウッドでルイ・アームストロングとともに主演した唯一の長編主演映画『ニューオリンズ』1946収録後にまたもや前回と同罪により9か月収監されてしまう。釈放記念に行われたカーネギー・ホールでのコンサートは大成功で、ビリーは緊張のあまり公演終了後楽屋で失神してしまったという。これが1947年~1948年の間で、48年末にはデッカへの録音を再開するが49年初頭のロサンゼルス巡業時に些細な喧嘩から騒動になり、またまた逮捕されて、今回は裁判でもめて、デッカへの契約満了は1950年3月の録音で完了したが、私生活では裁判や結婚でごたつき、51年にはインディーズのアラディン・レーベルにSP2枚分・4曲のワンショット契約しか録音がない。

 だから52年3月のセッションはこれから1957年まで続くクレフ/ヴァーヴ・レーベルへの初録音としてビリーも会社側も参加ミュージシャンも気合を入れて臨んだものだった。ビリーのクレフ/ヴァーヴへの録音は1セッション4曲~6曲が平均で、54年9月と55年2月に7曲、同年8月に8曲と8曲、56年6月に8曲という例もあるが、どれもビッグバンド・リーダーであるトニー・スコット(クラリネット)かベニー・カーター(アルトサックス)が仕切ったセッションだからアレンジが用意してあったと思われる。54年9月~56年6月に多数の録音を急いだのは12インチLPに対応するためだろうが、これらのセッションのうち別アルバムに分割されなかったのはトニー・スコット担当の56年6月分だけで、それも12インチLP『レディ・シングス・ザ・ブルース』1956にまとめられる際には54年9月録音の7曲中4曲と合わせて収録されたのだった。それ以外の54年・55年に行われた7曲~8曲セッションは、同一セッションの曲が複数のアルバムに分割されている。

 12インチLP『ソリチュード』で録音順に戻されても違和感がないほど52年3月の初クレフ・セッションはあらかじめ全8曲で具合良くまとまるよう、選曲・アレンジともに練られたものだったといえる。オスカー・ピーターソン(ピアノ)とレイ・ブラウン(ベース)が中心になってアレンジの根幹がリハーサルされていたのだろう。チャーリー・シェーヴァース(トランペット)とフリップ・フィリップス(テナーサックス)はJATPでは大ブロウ要員なのだが、いつも趣味の良いバーニー・ケッセルのギターと控えめなアルヴィン・ストーラーのドラムスとあいまってしっとりと落ち着いたアンサンブルを聴かせる。本来はラテン・リズムの『ブルー・ムーン』も含めて、このアルバムはビリー・ホリデイ初の全曲録り下ろしバラード・アルバムなのだ。それまで所属してきたブランズウィック(コロンビア傘下の黒人音楽レーベル)、メジャーのコロンビア、インディーズのコモドア、メジャーのデッカは1950年のLPレコード実用化以前の録音だからシングル・レコードに相当するSPレコード単位のリリースだったので、10インチLPが発売されたらシングル曲を集めたアルバムを出したが、当然統一感あるアルバムではなくベスト・アルバムだった。
 クレフ/ヴァーヴ・レーベル主宰のノーマン・グランツは元々芸能プロモーターで、黒人ジャズのレコードは白人にも売れるが黒人ジャズマンの出演するようなクラブはカタギの白人が気楽に入れない。そこで黒人白人混合のオールスター・グループで全国各地のコンサート・ホール・ツアーを行って大成功をおさめた。ヨーロッパや日本公演も成功させている。その資金と実績で映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのMGMレーベルというメジャー傘下にジャズ部門のクレフ、のちにヴァーヴ・レーベルを設立したのが1949年で、さっそくレスター・ヤングチャーリー・パーカーとの契約を獲得し、カナダ出身のオスカー・ピーターソンを売り出し、ビリー・ホリデイエラ・フィッツジェラルドとの契約も獲得した。

 エラ・フィッツジェラルドは誰が聴いてもわかる凄いヴォーカル・テクニックを持っており、バラードを歌っても素晴らしいのだがアルバムにはスウィンガーやジャンプ・ナンバーは外せない。エラはビリーより3歳年少なだけだが、クラシック歌曲でも歌いこなせる強靭なヴォーカル・トレーニングを積んでいた。ただし歌に込められた繊細な音楽性では命を削るようにして歌っていたビリーに分があって、クレフ・レーベルからの第1作にバラード集、しかもビリーのオリジナルもブルース系の曲も含まない、という徹底ぶりは、かなりの冒険だったとも言える。旧来のファンが離れていってしまうようなアルバムでもあったからだ。
 ジャズのアルバムではまったくブルース系の曲が入らないのは滅多にない。また、ビリーは寡作だが自作曲、またはビリーに書き下ろし提供された曲はどれもヒットしてきた。だがブルースもビリーの自作曲も歌詞内容はおおむね辛辣なもので、グランツはそれらを排除したアルバムを意図したと言ってよい。

 正確にはジャズのアルバムではヴォーカルもの・インストルメンタル問わずブルース曲の入らないものはほとんどない。あるとすれば白人ヴォーカルのジャンルのみで、黒人ジャズマンならヴォーカル・器楽ともにブルースを演るし、白人ジャズでも器楽ならブルースは避けて通れない。だからブルースをやらないジャズとは白人ジャズ・ヴォーカルに限られているわけで、グランツがビリーを全国的な歌手に売り出そうとした手段は白人ジャズ・ヴォーカルを範に取ったものだった。しかもビリー自身がジャズ・ブルースの歌手として黒人リスナーにのみアピールするより、ポピュラー・ジャズの歌手として同年生まれのフランク・シナトラのような成功を望んでいた。シナトラは少数民族であるイタリア系移民だが、白人ジャズ・ヴォーカルの域を越えて黒人リスナーにも人気があり、人種を越えた国民的人気ではビリーはシナトラにはまったくおよばなかった。

 このアルバムにはビリーがコロンビア時代から持ち歌にしていた『ディーズ・フーリッシュ・シングス』や『ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド』などのスタンダードの再演もあるが、他の曲はほとんどシナトラのレパートリーから借りてきたものだった。モダン・ジャズを直前のスウィング/ビッグバンド時代から隔てるのはシナトラとビリーが分岐点になったという歴史的な見方もでき、シナトラとビリーのレパートリーを基本にすることでチャーリー・パーカーマイルス・デイヴィスレニー・トリスターノスタン・ゲッツらが新たなスタンダードを定義し、そこからモダン・ジャズが始まった。レコード上でも1945年~1950年の間に2015年現在ももっともポピュラーなジャズの型は確立されている。
 1952年から始まるビリーのクレフ/ヴァーヴ時代では、ビリーはシナトラとビリーを父母にして生まれたモダン・ジャズ様式に乗ったレコード制作をされることになった。1933年に18歳でベニー・グッドマン楽団のゲスト・ヴォーカルでデビューして以来、ビリーはバックのバンドより進んだ感覚で歌手活動を続けてきたが、ようやくミュージシャンたちがビリーに追いついたサウンドを安定してバックアップできるようになったのがこの時代だった。しかしビリーはシナトラのような大規模な弦楽オーケストラとの共演アルバムを望み続け、それはようやく晩年の『レディ・イン・サテン』1958と遺作『ラスト・レコーディング』1959で果たされることになる。