人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ピーナッツ畑でつかまえて(69)

 もう長いこと待っているのに、なかなか彼らはやって来ない。昨日、一昨日、先週、先月、半年前、たぶん去年の今ごろもこうして待たされ続けていた気がする。いや、いくら何でも去年ということはない。そんなに長く切らしたらとてもではないが耐えられないから、それなりに必要にぎりぎり間に合う程度には彼らは一度に払える分だけ持って売りに来るのだ。その辺は彼らも効率的な商売をしている。
 売り上げを回収する二度手間と(そうは言っても一度客になれば買い続ける習慣を断つのは難しいから、次に売る時に回収すればいいとも言えるが)、踏み倒されるおそれを避けて、彼らは掛け売りは絶対にしない。商人である彼らの方が客よりもでかい面をしているのは、彼らに断られれば客は他に苦労して商人を見つけなければならないからだ。
 需要と供給の相関関係なら、この場合まず供給が多いほど需要が広まり、高まっていく。そうすればしめたもので、量は少なく、価格は高く供給をコントロールしても需要の高さがインフレーションを許してしまう。商売人同士が示し合わせて価格操作はできるが、顧客たちが同盟して画策などできはしない。
 すでに彼は散文には取り組んでいましたが、絵画は「忌まわしい現実の反復」だと嫌悪の念を抱いていました。しかし後には対象の再現にとどまらない絵画の可能性に目覚め、絵画にも創作意欲を向けるようになります。散文と絵画両方が創作での重要な位置を占めるようになった後はその違いを表現して、書かれた文字は「ねばねばする相棒」「すべてが後から、後からやってくるもの」であり、デッサンは「生まれたばかりのもの、生まれつつある状態、無心と驚きの状態にあるもの」と述べています。
 またこの頃に確立された独自の作風では、詩と散文のあいだを漂いながら特有のイメージ、特異な光景、独特の思索や心情の発露、架空の国を舞台にした内面的世界の展開などの点で特徴ある作品を創り続けていくことになりました。また、絵画では一貫して不定形なフォルムや絵の持つ動きが追求され、そのような描画の中にしばしば人の姿や顔のようなものが現れています。
 また彼は、後には知人の勧めでメスカリンを始めとする幻覚剤の効用を試し、その効果の下で詩や絵の創作に取り組む実験を行っています。その使用はあくまで冷静な実験のためであり、薬の常用や依存などとは無縁でした。
 次回第七章完。