人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Eric Dolphy & Booker Little Quintet - At The Five Spot, Vol.1 (Prestige,1961)

イメージ 1


Eric Dolphy & Booker Little Quintet - At The Five Spot, Vol.1 (Prestige,1961) Full Album : http://youtu.be/HlWCUN2EdNc
Recorded live at Five Spot Cafe, New York, July16,1961
A1. Fire Waltz (M.Waldron)
A2. Bee Vamp (B.Little)
B1. The Prophet (E.Dolphy)
[Personnel]
Booker Little - Trumpet
Eric Dolphy - Alto Saxophone(A1,B1),Bass Clarinet(A2)
Mal Waldron - Piano
Richard Davis - Bass
Ed Blackwell - Drums

 エリック・ドルフィーブッカー・リトルの初共演はドルフィーのアルバム『ファー・クライ』の録音で、1960年12月21日だった。ドルフィーチャールズ・ミンガスのバンドとジョン・コルトレーンのバンドを掛け持ちしており、リトルはミンガスと親しいマックス・ローチのバンドに在籍していた。
 翌61年2月にはローチ夫人のアビー・リンカーン『ストレート・アヘッド』で再会、61年3月と4月に録音されたブッカー・リトルのアルバム『アウト・フロント』ではドルフィーが呼ばれる側に回っている。61年5月~6月録音のジョン・コルトレーン『アフリカ・ブラス』はドルフィーがアレンジを任されたビッグバンド作品でここでもリトルが呼ばれて共演、そして61年7月には2週間だけエリック・ドルフィーブッカー・リトルクインテットがニューヨークのファイヴ・スポット・カフェでハウスバンドを勤めた。三年後の6年にヨーロッパ巡業中、糖尿病で客死するドルフィー(1928~1964)にとっても、わずか3か月後の10月に尿毒症で急逝するリトル(1938~1961)にとっても、共同とはいえ自己名義でライヴ・バンドを率いたのはこれが最初で最後になった。
 この7月16日の唯一のライヴからは、アルバム4枚分・11テイク10曲の録音が残されている。この『Vol.1』と『アット・ファイヴ・スポットVol.2』がリトルの没後に発表され、ドルフィーの没後に『エリック・ドルフィーブッカー・リトル・メモリアル・アルバム』と『ヒア・アンド・ゼア』が発表された。『ヒア・アンド・ゼア』にはファイヴ・スポット公演後にコルトレーンのバンドで渡欧したドルフィー単独の『イン・ヨーロッパ』Vol.1~Vol.3の残り曲との抱き合わせだから(タイトル「こちらとあちら」もそれに由来する)、ファイヴ・スポット公演からは正確には3枚半分になる。

 前年60年にはドルフィーのロサンゼルス時代からの盟友オーネット・コールマン(アルトサックス、1930~)がひと足先にバンドごとニューヨーク進出を果たし、ジャズ界きってのセレブ・MJQのジョン・ルイスがオーネットを大宣伝して同じファイヴ・スポット・カフェで半年間のロングラン出演を果たしている。ファイヴ・スポットは30~50人も入れば満席の小さなクラブだが、新人が半年間のロングラン出演というのは異例な成功だった。
 ドルフィーもオーネットのニューヨーク進出に刺激されて単身ロサンゼルスから移住してきて、学生時代から親交があったチャールズ・ミンガスのバンドから仕事を始めていた。ジョン・コルトレーンは同時期マイルス・デイヴィスのバンドから独立していたが、ミンガスの音楽は嫌っていたがオーネットの音楽には注目しており、オーネット自身はすでに自分のバンドを率いるリーダーだからドルフィーをバンドに勧誘する。ドルフィーはオーネットの代役プレイヤーとしてしばらく引っ張りだこになるが、ドルフィー自身のアルバムや臨時編成バンド(ロン・カーターハービー・ハンコックらと組んでいた)の注目度はアメリカ本国ではさっぱりだった。むしろヨーロッパや日本でオーネット以上にフレキシブルな新進鬼才プレイヤーと早くから評価されていた。

 オーネットの音楽はミュージシャンには大きな影響を与えたが、ニューヨーク進出初年度の成功にもかかわらずアルバムの売り上げは上がらず、61年いっぱいでアトランティック・レーベルとの契約が満了すると経済的な失敗からオーネット・コールマン・カルテットは解散せざるを得なくなる。オーネットは新ベーシストとドラマーとで新しいトリオを組み、レパートリーも一新して数回の自主コンサートを開くが、65年に同じメンバーのトリオで活動再開するまで音楽以外のアルバイトをしながら、作曲(オーネットは基本的に自作曲しか演奏しない)や副楽器にトランペットとヴァイオリンを独学するための活動休止期間に入る。
 オーネットですらレコーディング契約を失うほどだから、ドルフィーも安定した活動期間は61年いっぱいが限度で、翌62年には極端に仕事がなくなる。63年に『アイアン・マン』と『カンヴァセーション』の2枚に分けられ没後発表される9曲が独立プロデューサーのアラン・ダグラスに買い取られ、64年にはブルー・ノート・レーベルに傑作『アウト・トゥ・ランチ』を録音後にチャールズ・ミンガスの新セクステットでミンガスの新曲で固めたライヴ・アルバムを録音し、そのままヨーロッパ・ツアーに向かうが、ツアー途中でトランペットのジョニー・コールズが急病で帰国、ツアー後もピアノのジャッキー・バイヤードとドルフィーは帰国後の仕事がないので残留して単身巡業する、という散々なことになった。そして起死回生の一枚になるはずだった『アウト・トゥ・ランチ』の発売前に、ドルフィーは持病の糖尿病の急性症状で急逝してしまう。

 このライヴ・アルバムが残されたのは当時のアメリカ本国でのドルフィーとリトルの評価からすれば奇跡的なことで、ドルフィーは初リーダー作『アウトワード・バウンド』に始まる『アウト・ゼア』『ファー・クライ』の傑作三部作をすでに60年に録音していた。ブッカー・リトルも傑作『ブッカー・リトル』1960.04を発表し、新生マックス・ローチクインテット(テナーはジョージ・コールマン)のアルバムを6枚、うち1枚はリトルとローチの共同リーダー名義で発表していた。
 だがドルフィーは当時オーネットの亜流と見られ、リトルもローチ・クインテットの評価は高いがリトル個人への評価には結びつかなかった。傑作『ブッカー・リトル』も弱小マイナー・インディーズのタイム・レーベルからで、本格的な評価は次作『アウト・フロント』からになったが、これもリトルの早すぎる死で没後発表になってしまたのだ。ドルフィーの『アウト・トゥ・ランチ』同様、やっと正当な評価を受けたアルバムが急逝により没後発表、ということまで符帳を併せている。

イメージ 2


 (Booker Little"Booker Little"1960)
 また、偶然ではないだろうが、ドルフィーのアルバム・タイトルに多用される「アウト」がリトルもドルフィーとの共演アルバムに使っているのが興味深い。ドルフィーはリトルより10歳年長だが、そもそも初代クリフォード・ブラウンがトランペットだった初代マックス・ローチクインテットからローチとは親交があり、クリフォードもドルフィーより若くして20代前半の天才だったから、リトルにはクリフォードの面影を重ねていたに違いない。リトルの傑作『ブッカー・リトル』は輝かしく張りのある音色、滑らかで絶妙の構成を見せる豊かなアドリブで溢れていた。
 ところが『アット・ファイヴ・スポット』ではリトルはアルバム『ブッカー・リトル』のトランペッターとは思えないくらい、ムラのある音色と途切れとぎれのアドリブを、音程すら怪しいほどの吹奏コントロールで綱渡りしている。このアルバムでは、ドルフィーとリトルはディキシーランド・ジャズ時代は盛んで、モダン・ジャズではほとんどのジャズマンが廃棄した「アンサー」(answer、合いの手)をおたがいのソロの最中に演っている。二人ともなかなか微妙なのだが、リトルに関して言えばアンサーではしょっちゅう、リトル自身のソロでもあちこちでミストーンを連発している。

 このアルバムは日本ではドルフィーの作品では特に人気が高く、オランダのラジオ放送用に残された最後のスタジオ・ライヴ『ラスト・デイト』1964と並んで傑作とされることが多い。欧米では『アウト・トゥ・ランチ』が人気・評価ともに突出しており、スタジオ・アルバムは一通りが秀作の評価を受け、『ファイヴ・スポット』や『イン・ヨーロッパ』や『ラスト・デイト』はアメリカ本国では極端に言えばオマケくらいにしか見られていないようだ。ヨーロッパ諸国ではまだしもと見られるが、日本ほどドルフィーなら『ファイヴ・スポット』か『ラスト・デイト』となりはしないだろう。日本のリスナーはライヴ盤好きなのだろうか。それもあるかもしれない。
 だがドルフィーとリトルがミストーンなどものともせずにこれほど熱いアドリブを繰り広げているのは他になく、リトルは明らかにドルフィーに感化された木管楽器的プレイを試みて金管楽器では消化不良気味になったのだと思う。ドルフィーはいつでもぶっ飛んでいるが、ファイヴ・スポット録音からまずこの3曲が選ばれたのも納得がいく。特に主要楽器であるアルトサックスの『ファイアー・ワルツ』、『ザ・プロフェット』がいい。前者の雪崩のようなソロ、倍テンポと等速テンポを往復しながら泣き叫ぶような後者のソロ(アルトサックスのソロだけで11分!)、ともにドルフィー生涯のベスト・プレイに入る。マル・ウォルドロンは『ファイアー・ワルツ』の作者というだけでも偉いが、20分を超えるドルフィー作のバラード『ザ・プロフェット』での沈み込むようなピアノが素晴らしい。世評に惑わされてこのアルバムをないがしろにしている欧米のリスナーは損していると思う。