人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Billie Holiday - Last Recordings (MGM, 1959)

イメージ 1


Billie Holiday - Last Recordings (MGM, 1959)
from "Lady Sings The Blues" (Not Now Music) : http://youtu.be/OHQcZy5DF_Y
Recorded March 3, 4, & 11, 1959
Released July 1959, MGM SA3764
(Side A)
A1. オール・オブ・ユー "All of You" from Silk Stockings - (Cole Porter) -2:30
A2. 時に楽しく "Sometimes I'm Happy" from Hit the Deck - (Irving Caesar, Clifford Gray, Vincent Youmans) -2:46
A3. ユー・トゥック・アドヴァンテージ・オブ・ミー "You Took Advantage of Me" from Present Arms - (Richard Rodgers, Lorenz Hart) - 2:46
A4. ホエン・イッツ・スリーピー・タイム・ダウン・サウス "When It's Sleepy Time Down South" from Safe in Hell - (Leon Ren??, Otis Ren??, Clarence Muse) - 4:04
A5. ゼアル・ビー・サム・チェンジズ・メイド "There'll Be Some Changes Made" - (W. Benton Overstreet, Billy Higgins) - 2:52
A6. ディード・アイ・ドゥ "'Deed I Do" - (Walter Hirsch, Fred Rose) - 2:14
(Side B)
B1. かまわないで "Don't Worry 'bout Me" - (Ted Koehler, Rube Bloom) - 3:08
B2. オール・ザ・ウェイ "All the Way" from The Joker Is Wild - (Sammy Cahn, Jimmy Van Heusen) - 3:22
B3. もう一度のチャンス "Just One More Chance" - (Sam Coslow, Arthur Johnston) - 3:43
B4. お目当てちがい "It's Not for Me to Say" - (Al Stillman, Robert Allen) - 2:25
B5. アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン "I'll Never Smile Again" - (Ruth Lowe) - 3:23
B6. ベイビー・ウォント・ユー・プリーズ・カム・ホーム "Baby Won't You Please Come Home" - (Charles Warfield, Clarence Williams) - 3:03
[Personnel]
Billie Holiday - vocals
Ray Ellis - arranger & conductor
Harry Edison - trumpet
Joe Wilder - trumpet
Billy Byers - trombone
Al Cohn - tenor sax
Danny Bank - baritone sax
Hank Jones - piano
Barry Galbraith - guitar
Milt Hinton - bass
Osie Johnson - drums
Others Unknown Strings and Harp

 ビリー・ホリデイが肝機能障害の悪化で入院したのは1959年5月、逝去したのは7月17日で、ビリーは1915年4月7日生まれだから満44歳3か月と10日の生涯だった。『ラスト・レコーディング』は3月11日に録音を完了しており、アルバム・タイトルはシンプルに『Billie Holiday/Ray Ellis and His Orchestra』とだけがビリーの横顔にロゴを入れてあるだけのジャケットが制作された。
 録音完了すぐの3月15日に、近年は疎遠だったがカウント・ベイシー楽団で共演していた時は花形歌手と花形ソロイストの間柄だったレスター・ヤング(テナーサックス)が急逝する。49歳だった。ビリーは葬儀で追悼の歌唱を申し出たが、遺族に拒否されて悲しみは増すばかりだった。体調不良も感じ始めており、次に死ぬのは自分だと周囲にもらしていたという。
 入院中にアルバムはテスト盤が完成し、病室のビリーに届けられたが、ビリー自身はアルバムの出来に不満を表明した。しかし寝たきりの病状で追加録音のめども立たない。ビリーが逝去するとすぐ、MGMレコードはアルバム・ジャケットに『Last Recording』と手書き文字を入れて同月中に発売した。

 前回引用したバーネット・ジェイムスのビリー・ホリデイ評伝でも、ビリー・ホリデイ伝の古典とも言えるジョン・チルトンの『ビリー・ホリデイ物語』でも『レディ・イン・サテン』は手厳しく批判しながら、『ラスト・レコーディング』は『レディ・イン・サテン』よりは優れている、と微妙な評価を与えている。その理由は、『レディ・イン・サテン』に続いてレイ・エリスの編曲・指揮で制作されながらも、ストリングスの使用や管楽器の編成が前作よりは抑制され、
・59年3月3日 - B2,B4,B5,B3
・59年3月4日 - A4,B1,A2,A3
・59年3月11日 - A5,A6,A1,B6
 このうちストリングスやフルート、ハープ類が加わっているのは3月3日分で、3月4日分にはフルート、ハープ類だけでストリングスは加わらず、3月11日分はパーソネルに記載した9人編成の中規模バンドだけで録音されている。3フルート、3トロンボーンの上に全曲でストリングスとハープが加わった『レディ・イン・サテン』と較べるとずっと軽快で、MGMはクレフ/ヴァーヴの親会社だからビリーは出戻りのようなものだし、案外全曲ストリングスやフルート奏者、ハープ奏者を手配する予算が組めなかったのかもしれないが(『レディ・イン・サテン』を制作した時のコロンビアの予算が潤沢だったのかもしれない。MGMでは以前のクレフ/ヴァーヴの予算に準じる制作費だっただろう)、マトリックス番号もA3にテイク1(ということは最低2テイクは録音された中からテイク1が採られたということになる)、B1にテイク4とある以外は曲番号以外の枝番号がない。基本的にはワン・テイクで完成させる方法が取られたようだから、3月3日と4日のセッションのストリングスやハープ、フルート類はオーヴァーダビングかもしれない。

イメージ 2


 ("Billie Holiday/Ray Ellis and His Orchestra"Original Promotional Sleeve)
 前作『レディ・イン・サテン』同様『ラスト・レコーディング』もビリーには初録音になる楽曲が選曲されている。『レディ・イン・サテン』ではフランク・シナトラの有名レパートリーが全12曲中8曲を占めていたが、シナトラにしても先にビリーのヴァージョンでヒットした曲を多く歌っているので、影響関係は一方的ではないだろう。フランク・シナトラ(1915年12月12日生~1998年5月14日歿)とビリー・ホリデイ(1915年4月7日生~1959年7月17日歿)はまったく対称的な同世代の大歌手で、かたや白人男性(少数民族のイタリア系ではあるが)ならかたや黒人女性、かたや国民的歌手で長命ならかたや人気の限られた短命の歌手だった。
 彼らはともに人気上昇期に職業柄スキャンダルでキャリアに傷を負ったが、シナトラはそれを克服してますます大歌手の座を不動にしたのに対し、ビリーは生涯スキャンダルから活動に支障をきたしていた。レコード・デビューはビリーが1933年(18歳)と早熟なのに較べ、シナトラは1939年(23歳)とやや遅れている。しかしシナトラはレコード・デビュー前からマイクロフォンをスタンドから外し、ハンドマイクで歌った初めての歌手として熱狂的な人気を獲得した、20世紀アメリカ初のアイドル歌手だった。

 レパートリーの重複は珍しいことではないが、録り下ろし新作アルバムの全12曲中8曲、それも数少ないシナトラ自身のオリジナル曲『恋は愚かというけれど』を採り上げ、アルバムの巻頭に据える。アルバムB面では2曲目~最終曲の6曲目まですべてシナトラの有名レパートリーとなると、レイ・エリス・オーケストラの甘美な管弦アレンジともどもネルソン・リドル・オーケストラ~ゴードン・ジェンキンス・オーケストラをバックにしたキャピトル・レーベル専属以降(1953~)のシナトラへの傾倒を感じないではいられない。スタンダード中心だったクレフ/ヴァーヴ時代にすでにビリーは多くのシナトラのレパートリーを歌っており、それはシナトラがビリーのレパートリーを採り上げるより多かった。ただしクレフ/ヴァーヴではビリーは小編成バンド向きの歌手と見做され、3歳後輩のエラ・フィッツジェラルドのようにビッグバンドをバックにポピュラーな層にもアピールする歌手とは扱われなかった。
 レーベルの判断は客観的には妥当で、ビリーはエラのようには安定した歌手ではなかった(歌唱、私生活ともに)から、クレフ/ヴァーヴはエラには大規模な企画を、ビリーには臨機応変な企画を振り分けていた。クレフ/ヴァーヴとの専属契約が満了しフリーになった時、コロンビアとの単発契約でビリー自身が初の完全な管弦楽団とのアルバム企画を望んだのには十分なアーティスト的野心があり、それはシナトラに範をとったアルバムを制作することだった。

 その『レディ・イン・サテン』がリスナーには好評で批評家には不評な作品になったのは無理もないこととも思われる。リスナーは純粋に1枚のアルバムとして楽しむが、批評家はそれを位置づけなければならないからで、するとビリーの作品歴では作為的な無理が目立つアルバムと見るしかない。
 再びレイ・エリス・オーケストラと制作された『ラスト・レコーディング』の評価がリスナーからも高く、批評家からも『レディ・イン・サテン』よりは持ち直したアルバムと好意的に扱われるのは、これが『レディ・イン・サテン』とクレフ/ヴァーヴ時代のビリーの中間を行く作風のアルバムになったからだろう。それはアーティストにとっては後退なので、ビリー本人の不満もその点だろうと思われる。
 この『ラスト・レコーディング』でもビリーはレイ・エリスに「シナトラのアルバムのように」とリクエストした、という証言がある。しかし今回はシナトラのレパートリーからは3曲を取り上げるに留まった。『オール・ザ・ウェイ』『アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン』『ベイビー・ウォント・ユー・プリーズ・カム・ホーム』がそうだが、『ベイビー・ウォント・ユー~』は1919年作曲・初演の古いスタンダードで、57年の名盤『ホエア・アー・ユー?』のクロージング・ナンバーだがシナトラならではのレパートリーとは言えない。

 しかし『オール・ザ・ウェイ』と『アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン』の2曲はシナトラにとっては特別なナンバーで、『レディ・イン・サテン』でビリーが取り上げたシナトラの重要レパートリー『あなたなしでも暮らせるわ』『コートにすみれを』『思い出はやすし』『バット・ビューティフル』『不幸でもいいの』『アイル・ビー・アラウンド』『恋路の果て』に劣らず、オリジナル曲である『恋は愚かというけれど』と同等かそれ以上にシナトラのヴァージョンがオリジナル・ヒットとしてスタンダード化した曲だった。
 まず『アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン』はシナトラがデビュー2年目にトミー・ドーシー楽団で大ヒットさせた出世曲であり、同曲と同日録音でスタンダード化したのが『イースト・オブ・ザ・サン』で、ビリーがクレフ/ヴァーヴ・レーベルへの専属移籍初録音に選んだ曲だった。また、『オール・ザ・ウェイ』は映画『抱擁』1957で出演・歌唱し、シングル・ヒットしてアカデミー主題歌賞を受賞し一躍スタンダード化した曲だった。『ベイビー・ウォント・ユー~』はバンドのみの3月11日録音だが、『オール・ザ・ウェイ』と『アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン』はストリングス、ハープ、フルート入りのセッション初日・3月3日録音で、『レディ・イン・サテン』中で成功した曲よりもさらに優れた仕上がりと言え、ビリーの歌唱も優しさに溢れた、心に沁みいるものになっている。
 近年の『オール・ザ・ウェイ』はともかく、シナトラ自身は『アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン』の再録音が初録音の1940年以来なかった。1959年のアルバム『ノー・ワン・ケアーズ』に収録されたほとんど20年ぶりの再演は59年5月録音だが、その背景には『レディ・イン・サテン』以来シナトラ側がビリーのアルバム制作の動向をチェックしていたのが考えられ、ビリーのニュー・アルバム用に3月録音の著作権登録があったのを見逃さなかったのに違いない。『アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン』は本来自分のヒット曲だとシナトラは示したかったのに違いない。

 1959年以降のシナトラの実績を思えば、シナトラと同年生まれのビリーの逝去はあまりに早く、惜しまれる死だった。シンガー以外にも、ビリーほどミュージシャンに影響力のある歌手はおらず、チャーリー・パーカーレニー・トリスターノマイルス・デイヴィスリー・コニッツエリック・ドルフィービル・エヴァンスローランド・カークらにとってビリー・ホリデイの音楽と存在とはモダン・ジャズの定義そのものだった。
 テナー奏者にはフランク・シナトラの影響力が強く、スタン・ゲッツジョン・コルトレーンらはビリーよりもシナトラの歌唱に親しんできたと言えるだろう。比較的若い世代のビル・エヴァンスローランド・カーク(カークの主要楽器はテナーでもある)ではビリーとシナトラの影響はより客観的で、その分ほぼ均等かもしれない。
 ビリーの精神と音楽性を受け継いだ最大のプレイヤーは、ビリーの『ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド』『不幸でもいいの』『恋を知らないあなた』などバラード系のレパートリーで決定的な器楽演奏カヴァーを残したエリック・ドルフィーだろう。ビリーより10歳あまり若い30代半ばの不意の急逝まで、生前のドルフィーはあまりにも報われることの少ないアーティストだった。公私ともにドルフィーの盟友だったオーネット・コールマンが今年85歳にしてジャズ界最高の巨匠として現役なのを思うと、なおのことビリーとドルフィーの不遇が重なって見えてくる。