人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

新☆戦場のミッフィーちゃんと仲間たち(71)

 第八章。
 近代西洋文化における音楽の把握は通常メロディ(旋律)、ハーモニー(和声)、リズム(拍子)の3要素の組み合わせとして把握されます。和声と旋律、拍子が有機的に複合するには旋律をなすモード(もしくはスケール、音階)が一定の規則に基づいていなければなりません。むしろ音階こそが旋律の上位概念にあると言ってよく、和声も拍子も音階から導き出された必然性がなければそれは自然な音楽には聴こえません。ですが音階からも上位概念といえるものの、さらにその音楽的位置づけが難しい要素があり、トーン(音色)をいかに一定に理論づけるかは音楽どころか聴覚という感覚の特性の根本をなすものです。音色自体が音の波動であり、波動とは一定の振幅を示すものであるなら、音色はそれに相応しい拍子を継起していくか、または音色自体が拍子を暗示するものといえるでしょう。ただしこれを聴き分けるには資質と十分な訓練の両方が必要です。
 現実に音楽がいかに未分化に聴かれているかは、旋律と和声進行が混同されがちなことにも現れています。これは物語について筋書き(ストーリー)と構成(プロット)が別物であるのと似ており、旋律=筋書きは水平的な推移であるのに対して和声=構成は垂直的な変化として表されます。旋律=筋書きがどれほど累積しようと和声=構成的な役割を与えられなければ物語は進展しません。ストーリーとプロットの違いについて無自覚な作者の作品の場合、物語は実質的に何も進展せずに始終することになりますが、逆に結果的にはプロットを放棄しているだけ再生産性には適しているので、消費者はいつでもスタートラインに戻ることができる、という利便性があります。それはジャンクフードのようなものでしかありませんから、まさに繰り返しの消費には向いています。
 つまりプロットとは質的転換であり、骨のおれる代謝です。ストーリーはそれ自体には質的転換を含まない。同じところをぐるぐる回っていてもストーリーは成立しますが、プロットはストーリーに含まれる価値基準を徐々に別の次元へと解体・再構成していく。よくある例を引くなら、愛や正義への認識は最初考えられていたものとは別のものへと変化する。それが質的転換であり、この過程を経ない物語はプロットを欠いた不十分なストーリーと言えるのです。一応それだけでも物語は成立しますが、それが不完全なことは論じるまでもないことです。