人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

闇の中のパンダ

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 夜遅くに、無性に外を出歩きたくなる時がある。住んでいるのが郊外の住宅地なのでひと気はなくても街路灯が灯り、隣接した繁華街もないまったくのベッドタウンだから、おのずから治安もたいへんよろしい。だいたいひったくりや強盗をしようとも夜8時台には通行人はいなくなってしまう。悪目立ちする時間帯にしか獲物はいないのでは泥棒の出番はない。そういう安心なだけの街ではある。

 これまでで記憶に鮮やかなのは東日本大震災後の計画停電時の夜で、確か午後5時から3時間、というひどい停電だったと思う。あの時は住宅地にあるスーパーもコンビニエンスストアも閉店して真っ暗だったが、電気照明が使えない室内よりは屋外の方がよっぽど明るかった。私鉄は運行していてプラットフォームは明るかった。線路沿いの道の端で駅の明かりを頼りに、お先真っ暗な交際をしていた女性とメールしていたのを覚えている。

 住んでいる老朽マンションからまず出ると線路沿いの道になるから、私鉄の明かりで終電までは夜でも明るいが、先日何気なく夜道に出てみて立ち止まってしまったのがこの、線路沿いの団地の入り口の芝生にあったパンダの置き物だった。いや、このパンダには見覚えがある。この団地は昨年に私鉄の社宅から一般賃貸住宅に改装されたのだが、社宅時代にはスプリングがついた幼児向けの木馬として敷地内の広場に設置されているのが見えた。今その広場は入居者用家庭菜園になっている。

 要するにこのパンダはじき廃棄されるのだと思うと、投獄された時に私物を没収処分されたことを思い出した。検察に上告が上がり、留置場から拘置所に身柄を移される時、所持品確認で留置場では「持っていた煙草6カートンも入れてあるよ。出所したら喫えるからな」と言われたが、拘置所では「煙草は没収、処分する」と廃棄され焼却場送りになってしまった。大量の煙草は嫌疑を呼んだのだろうが(だがホームレスが煙草を買い置きしていてなぜ悪い?)、まだ有罪でも無罪でもない被疑者の私物を拘置所の刑務官は廃棄処分する権限があるわけだ。そんなことを思い出したりもした。

 ちょうど4月から煙草が値上がりするので3か月分、6カートンは買い置きしたいが、買い置きするのは3か月先も煙草を喫うつもりだからで、買い置きしなければ今月は負担にならないのはわかっている。でも買い置きをキャンセルしたら3か月先まで生きる意欲もリセットしてしまうかもしれない。結局楽しみにしていたDVDの予約をキャンセルして、ようやく今月最低限の食生活分が確保できたが、予約もなんとかできると思っていたのでキャンセルするのは計画のリセットだから、つらい反動がきた。自分が不甲斐なくて断腸の思いだった。食事なんかしなくて済む体ならいいのに。生きていても楽しみがかなわないなら、楽しみなど望む気持もなくなればいいのに。貧乏で憂鬱なのはつくづく惨めなものだ。もっとも福祉制度で生活費を支給されているのだから、貧乏を嘆く資格もないのだが。

 生活費や娯楽費を切り詰めて娘たちへのプレゼントや学資を定額貯金(といってもタンス貯金だが)しているのも、自分には過ぎてはいないか。別れて会うこともない父親でも誕生日やクリスマス・お年玉、進級祝いは娘たちには無駄ではないと思いたいけれど、父親がいない切なさのフォローに少しでもなればいいと思っているけれど、自分の方が寂しくて贈っているだけじゃないか。特に今月みたいに娘たちへの進級祝いと臨時出費がバッティングした時は(普段なら少しは本やCD、DVDを買える余裕があるが、今回は煙草買い置きという臨時出費が大きすぎた)、別れた娘たちより自分の生活をとらないとおかしいんじゃないか。

 このパンダがまだスプリングつきの木馬だった頃は、見るたびに幼児の頃の娘たちがこういう遊具が大好きで、大喜びではしゃぎながら乗っていたのを思い出させられて、もう何もかも過ぎ去ってしまったことだ、と思ったことを思い出す。娘たちはもう幼児ではないし、もう戸籍上では親子ですらない。事実、親子の関係が今ではまったくなくなって、離婚以来そろそろ満9年間、1度の面会もないし、先方からの書信や電話すらない。娘たちへの気持が今でも生き続けているにしても、親子だったのは過去のことでしかない。

 煙草の買い置きやお嬢さんへのお祝いも自分で決めて満足してるならそれでいいんじゃないの、と主治医にはあっさり言われた。伝わらないな、有用なアドバイスはもらえないな、と諦めるしかない。決めた結論に納得するのと満足するのは違う。妥協点で納得するのに満足できるとは限らない。だがそれをわかってもらえるには、むしろそれが通じる相手では治療者として適任ではないのだろう。晩年のゴッホが美術愛好家の裕福な医師の家に食客に招かれて、弟のテオに送った有名な手紙がある。「良い人で町の人からも慕われ、美術にも理解があって良くしてくれる。だがそれは聖書にあるが、盲人が盲人の手を引くようなものだ」。
 中世フランスが舞台の2015年のアニメ『純潔のマリア』にも真摯に神学を追究するあまり無神論者になってしまう神父が出てきた。原作にはないアニメ独自の登場人物だが。形而上的不安には実践的処方はない。

 夜の街をただただ歩くのは、ひとりでいることを噛みしめるようなものだ。連れもないひとりだけの歩行、すれ違う人もいない。出所した翌日に今住んでいる部屋に入居し、部屋には布団一組とボストンバッグひとつしか荷物がなくて夜になると片道1時間歩き、また帰ってきてをくり返した。あんなに自分が生きていて、生きている自由を感じたことはなかった。それから今年中には満9年になるのだが、あの時感じた自由も生きる喜びも、所詮は一時的な錯覚だったのだろうか。気づいてみれば、今では誰からも必要とされないパンダの遊具のようにもう一切が無駄なのだろうか。