人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(2); 高村光太郎と金子光晴(c)

 毎回引用詩編以外の本文は前置きで終わってしまうので、今回はさっさと本題の高村光太郎(たかむら こうたろう、初期雅号は砕雨。戸籍名の読みは「みつたろう」。1883年=明治16年3月13日 - 1956年=昭和31年4月2日)と金子光晴(かねこ みつはる、1895年=明治28年12月25日 - 1975年=昭和50年6月30日)の読み較べを作品の成立状況とも併せてやってみたいと思います。まず高村光太郎明治43年末=1910年、当時としとは驚異的な文明批判の詩「根付の國」。それから金子光晴の、さらに過激なテーマを持つ昭和12年=1937年作の「おっとせい」で、「根付の國」は作者27歳の作品であり、「おっとせい」は42歳の作品なのは1910年と1937年の4半世紀の隔たり以上に重要なのではないかと思われます。
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高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊

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  根付の國  高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
           (十二月十六日)

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(明治44年=1911年1月「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
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 詩の形式も内容も破格に斬新で、高村は第1詩集のもっとも早い時期の作品ですでに完全に明治新体詩の発想を突き抜けているのがわかります。副詞節の連用は明治新体詩ではメロディアスな効果を狙ったものでしたが、高村はリズムを畳みかけることで強い訴求力を作品に与えました。これは北原白秋萩原朔太郎の系列と較べても異質な発想で、白秋~萩原の詩は新体詩の延長でメロディアスな効果を複雑化したものと言えます。ですが「根付の國」は作者の嫌悪感が強すぎている欠点があり、形容副詞が詩句が進むほどに主観的な攻撃的内容に高まっていく構成を持ちます。読了した時に残るのは冷静な文明批判というより対象に対する詩人の強い嫌悪感であり、それがこの詩を完成した詩作品というより一種の断片的エスキス(コンセプト)に見せている。そこでほぼ4半世紀後の、自国への文明批判を詩にして存分な長詩に展開した金子光晴「おっとせい」(「っ」の促音の小文字は原文通り)が訴求力と長さにおいて比較対象として浮かんできます。
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金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊

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  おっとせい  金子 光晴



そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おゝ、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な彈力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってゐること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)
おほきな陰嚢(ふぐり)

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反對の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フイルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。




そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを國外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしやべり)
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。

(くさめ)をするやつ。髯のあひだから齒くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋黨だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

をしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。

……………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたゝくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。

たがひの體温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとふて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい聲でよびかはした。




おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも氣づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文學などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝禮してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反對をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

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(昭和12年=1937年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月・人民社初版200部刊に収録)
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 この「おっとせい」はおそらく、着想の時点から最終連の結句が構想にあったと思われます。第1連から「おいら」の観点からの主観的表現が客観的叙述と交互に表れますが、この「おいら」が曲者で作者の主観のようでいて詩の中では仮構されたキャラクターにすぎない。「おっとせい」=金子光晴とは言えないが、金子の意見を代弁する語り手でもあるでしょう。最終連結句は自己観照ばかりでなく、他のおっとせいから見られている疎外された「おっとせい」の仮構のキャラクターでもあります。するとこの詩全体が疎外されたおっとせいの被害妄想の体をなす読み方も可能になるわけで、「根付の國」のように他者への告発で済ませるわけにはいかなくなります。この「おっとせい」は動物に借りた人間性の隠喩なのでテーマは当然当時の日本社会への批判と幻滅なのですが、理想主義者の怒りが「根付の國」だったのに「おっとせい」はむしろ文明に対する倦怠と無力感が主調になっています。
 金子光晴はおそらく零落した境遇の詩人の暗喩にシャルル・ボードレールの「あほう鳥」(詩集『悪の華 再版』1861収録)からヒントを得ていますが、「おっとせい」「泡」「塀」「どぶ」「燈臺」「紋」「鮫」とシンプルな主題で統一した詩集『鮫』(昭和12年=1937年)には、単行詩集収録が遅れた高村光太郎の未完成詩集『猛獣篇』(大正13年1924年昭和3年=1928年に10編発表、昭和12年=1937年~昭和14年=1939年に6編発表)からの感化、むしろ対抗意識があったかもしれません。少なくとも金子光晴の交友圏の詩人には『猛獣篇』収録予定詩編は1作ごとに話題を呼び、高村はそれらを同人費参加の同人誌に原稿料なしで発表したので、原稿料生活に必死だった室生犀星から反感を買いまでしていました。『猛獣篇』詩編の中で文体が青年詩人たちの流行語になるほど反響を呼んだのが「ぼろぼろな駝鳥」です。
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高村光太郎詩集 猛獣篇 / 昭和37年=1962年4月・銅鑼社刊250部限定版

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  ぼろぼろな駝鳥  高村 光太郎

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無邊大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

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高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」肉筆原稿

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(昭和3年=1928年3月「銅鑼」発表、のち初出型の6行目「何しろみんなお茶番過ぎるぢやないか」を削除、初出では行末句読点なし。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録、昭和37年=1962年4月「猛獣篇」銅鑼社250部限定版に再収録)
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 この詩が「歴程」の前身「銅鑼」に寄稿されると(高村の歿後に単行詩集にまとめられたのは元「銅鑼」同人との約束があったからです)草野心平周辺の詩人たちには「~ぢゃないか」と語尾につけて議論するのがしばらく止まらなかったというくらい、「ぼろぼろな駝鳥」は愛唱されたといいます。非常に訴求力の高い詩なのは全編が問い詰める文体で書かれているからですが、書き出しの「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。」から結句の「人間よ、/ もう止せ、こんな事は。」まで高村は「(人間の興味で)野生動物を見せ物にするな」というメッセージだけを書いているので、詩としては何の屈折もありません。まず結論ありきでそれ以外の広がりを持たない点では、まだしも暗示的で説明的表現を押し殺した「根付の國」の方が発展の余地がありました。切迫した表現の圧力で「ぼろぼろな駝鳥」が優れた詩になっていても、その切迫感はほとんどメッセージ性から生まれてきたものでしかないのがこの詩の弱みなので、それが「語り」の設定自体に単一のメッセージに還元できない仕掛けがある「おっとせい」とは決定的に異なります。しかし金子光晴の饒舌には必然性があるとはいえ、高村光太郎の簡潔な断言の魅力は否定できないでしょう。
 それを言えば高村光太郎の初回で詩集『道程』について「(明治象徴主義新体詩と異なり)芸術至上主義の詩より反権力・性愛の詩の方が多い」と言及しましたが、訂正します。日夏耿之介が初の日本現代史『明治大正詩史』(昭和4年=1929年・新潮社)で高村を詩壇の外にいる超俗的エピキュリアン(享楽主義者)、その詩境の高さ広さは三木露風などの及ぶところではない、と評したのは正当で、『道程』には実際は反権力というよりも明治末の日露戦争戦勝の気分を反映した享楽的・自由主義的な詩が多く、その意味では退廃的とすら言え、高村が与謝野鉄幹・晶子の「明星」から永井荷風主宰の「スバル」に進み、初期の谷崎潤一郎に注目していたような素地にも表れています。ただしそれらの詩も悪くはありませんが、内容のせいかおおむね冗長に流れ、意志的な詩ほど表現の圧縮・簡潔さに至っていない。日夏は新潮社版「現代日本詩人全集」(昭和4年=1929年~)の監修に携わったと思われ、『道程』1冊しか既刊詩集のない高村を萩原朔太郎室生犀星との3人集に選んで事実上の第2詩集を送り出すほど高村を高く評価しました。高村の詩が反権力の詩、愛の詩から注目されるのは、遠近法の逆転した後世からの見方が大きいのです。文庫版などの高村光太郎詩集には選ばれるのが少ないながら、『猛獣篇』に続く時期に高村は老人世代との断絶と自分の世代の非力を対比した、注目すべき作品を書いています。「のつぽの奴は黙つてゐる」は明治仏具彫刻師の巨匠、光太郎の父・光雲の喜寿祝いの会の情景。「似顔」は明治の中堅財閥設立者で男爵、大倉喜八郎晩年に塑像制作を依頼された時の情景です。
 この2編は俗物自身の口で近代的俗物群像を描いて非常に巧みな語り口で情景を彷彿させることに成功しており、高村の詩の腕前の冴えがますます多彩で自在な表現を獲得したのがわかります。それでもやはり高村は詩の結句に作者の感想で締めくくる癖から抜け出せないでいる。文学作品、ことに詩は描くまでが本領であって、作中で作者が説明してしまっては詩=文学である必要が失われます。高村の場合、金子光晴「おっとせい」の結句のように作品を突き放してしまうのではなく、作者の感想が作品を支配してしまうので結句に至って作品が尻すぼみになってしまうのは「ぼろぼろな駝鳥」から変わりません。12歳の年齢差でしかなく、これらの詩では一見同世代の詩人のように見えながら、高村を現代詩でも「戦前」の詩人に留め、金子の詩歴を「戦後詩」までつないだのはそうした方法的な意識の違いがあるのです。
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高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社

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  のつぽの奴は黙つてゐる  高村 光太郎

 『舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は來てるでせうな。壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい氣な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん達の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

 『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
スチユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ。老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考えてゐる。
何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。

高村光太郎父・仏具彫刻師高村光雲(嘉永5年=1852年 - 昭和9年=1934年)、昭和3年喜寿祝賀会にて

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(昭和5年=1930年9月「詩・現実」発表。のち、初出型の最終行「何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。」を削除。初出型のまま「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
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  似顔  高村 光太郎

わたくしはかしこまつてスケツチする
わたくしの前にあるのは一箇の生物
九十一歳の鯰は奇觀であり美である
鯰は金口を吸ふ
----世の中の評判などかまひません
心配なのは國家の前途です
まことにそれが氣がかりぢや
寫生などしてゐる美術家は駄目です
似顔は似なくてもよろしい
えらい人物といふ事が分ればな
うむ----うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
もうよろしいか
佛さまがお前さんには出來ないのか
それは腕が足らんからぢや
寫生はいけません
氣韻生動といふ事を知つてゐるかね
かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい----
わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
一片の弧線をも見落とさないやうに寫生する
このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝國資本主義發展の全實歴を記録する
九十一歳の鯰よ
わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

大倉財閥設立者・男爵大倉喜八郎(天保8年=1837年 - 昭和3年=1928年)肖像

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高村光太郎大倉喜八郎の首」大正15年=1926年制作塑像

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(昭和6年=1930年3月「詩・現実」発表。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)