人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

真・NAGISAの国のアリス(67)

 来月には別居婚している内縁の夫人の母国へのアジア・ツアーがある。彼女の国ではまだおれはスターなのだ、ありがたいことだ、とK.は無精ひげの伸びた顔を洗うと、70歳を過ぎた自分の姿を洗面台の鏡に認めた。彼には国際的スターだった一時代を築いたキャリアがあるから、青年時代からの無数のフォトセッション、演奏中のライヴ映像シューティング経験があり、20代のおれからつい最近のおれまでが日めくりカレンダーのように残されているわけだ、と考えた。成功の頂点に立っていた頃のおれはジャーナリズムからも同業者からも糞味噌に言われた。ハイプ(誇大広告)の見本のように言われたものだ。だがそれはおれの望みの一部ではあったが、すべてがおれの責任ではないはずだ。おれを担ぎ上げることで話題を引き出し、わらわらと自分たちの飯の種にしようという連中がおれをハイプにした。
 おかげさまで来月も極東ツアーがあり、今の女は里帰りにもなるからツアーを楽しみにしている、とK.は考えると、明日のリハーサルには無精ひげを剃らないといけないな、当日剃るのは慌ただしいから、と慎重にシェーヴィング・クリームを顔面に塗ると、早くも指先の震えを感じた。彼の指はもう数年前から神経性麻痺が進行しており、ほぼ半数の指が使い物にならなくなっていた。駄目だ、とK.はシェーヴィング・クリームを洗い流すと、憂鬱を増すような電気シェーヴァーの音に顔をしかめながら最小限の無精ひげは剃り上げた。ステージの時は剃ってもらうべきだろうか。進行性麻痺を気取られないだろうか。
 リハーサルでは自分の負担を極端に減らしたアレンジにしなければならない。その理由をプレイヤーたちはおそらく感づいている、とK.はストレートでウィスキーを傾けた。進行性麻痺の発症よりも前、明らかなキャリアの下り坂からK.は鬱病にかかり、アルコール依存症が進んで躁鬱・統合失調様症状を来していた。
 K.は酔いが回ると戸棚からショットガンを取り出した。震える指先でカートリッジの詰め替えには骨が折れたが、演奏よりはましだ。K.はリヴィングの床に座り、ショットガンの銃口を口に咥えると安全装置を外し、足指を引き金にかけた。これでいい、ヘミングウェイと同じだ。おれの頭蓋の上半分は完全に吹き飛び、一生おれに悩みをもたらした脳漿はすべて飛び散り、そしておれは解放されるだろう。
 だが……どちらでも同じことだ。