人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(7); 伊東静雄『わがひとに與ふる哀歌』(ii)

伊東静雄(1906-1953/府立住吉中学校教員時代)

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 伊東静雄は昭和年代の詩人の中で評価、人気とも相当高い位置に恵まれています。思潮社の「現代詩手帖」別冊『現代詩読本』では第10巻(昭和54年)、同社の「現代詩文庫・近代詩人編」では第15巻の宮澤賢治、第16巻の西脇順三郎に続く第17巻で、第18巻は高村光太郎、19巻は堀口大學ですが、これは各社文庫ですでに刊行されているためで、難解な伊東の作品が高く評価され続けられ、伝記的研究や詳細な資料の発掘が行われてきたのは、第1詩集刊行間もない萩原朔太郎の激賞により(「『わがひとに與ふる哀歌』~伊東静雄君の詩」、初出「コギト」昭和11年1月)が伊東が伝説的詩人として語り継がれてきたからです。
 しかし『わがひとに與ふる哀歌』に、評伝ではなく詩作品として決定的な解明を試みて成功したのは、杉本秀太郎伊東静雄』(筑摩書房「近代日本詩人選18」昭和60年7月刊)でした。伊東静雄の詩はほぼ同世代の三好達治中原中也立原道造と並び称されることが多いのですが、三好らや、さらに先立つ世代の詩人では高村光太郎宮澤賢治が混沌とした作品世界を秘めながらもごく一部には人口に膾炙した愛唱詩でポピュラーなようには、コンパクトに独立して親しまれる種類の抒情詩はほとんど皆無な難解さが敷居を高くしているのです。

 第2詩集『夏花』(昭和15年)からは伊東は意図的に作風の統一を図るので『わがひとに與ふる哀歌』だけが伊東の一回限りの実験的構成が見られますが、杉本秀太郎の論考以前にも竹内豊治(昭和37年)、長野隆(昭和54年)に「私」が「私の半身」に語りかける巻頭詩「晴れた日に」から詩集を「私」を語り手とする詩群とその「半身」を語り手とする詩群の交響に解釈する読解はありました。ただし竹内や長野は伊東静雄の全作品にその解釈を試みて無理があったので、杉本の『伊東静雄』は1冊を費やして『わがひとに與ふる哀歌』全編の注釈に集中したのです。同書は講談社文芸文庫で再販されており(平成21年)、新たな「あとがき」で杉本自身が簡略に『わがひとに與ふる哀歌』の特色をまとめています。
伊東静雄の詩集『わがひとに與ふる哀歌』は極端に対照的な二つのタイプの詩を包んでいる。高吟にふさわしいような漢文調の詩、ぶつくさとつぶやくような平俗な口調の詩。そしてその両極端の中間を占める詩には、フーガのような趣きを呈するもの、ドイツリートのような短くて声のよく透るもの、バラードのような語り物がまじっている。」
 杉本によれば、『わがひとに與ふる哀歌』全28編の各編に「擬作者」を仮定すれば、以下のようになります。
1. (私) 晴れた日に (「コギト」昭和9年=1934年8月)
2. (半身) 曠野の歌 (「コギト」昭和10年=1935年4月)
3. (半身) 私は強ひられる―― (「コギト」昭和9年=1934年2月)
4. (半身) 氷れる谷間 (「文學界昭和10年=1935年4月)
5. (私) 新世界のキィノー (「呂」昭和8年=1933年7月/「コギト」昭和8年=1933年9月)
6. (私) 田舎道にて (「コギト」昭和10年=1935年2月)
7. (半身) 眞昼の休息 (「日本浪曼派」昭和10年=1935年4月)
8. (私) 歸郷者 (「コギト」昭和9年=1934年4月)
9. (私) 同反歌 (旧題「都會」/「呂」昭和7年=1932年10月)
10. (半身) 冷めたい場所で (「コギト」昭和9年=1934年12月)
11. (私) 海水浴 (「呂」昭和8年=1933年11月/「コギト」昭和8年=1933年11月)
12. (半身) わがひとに與ふる哀歌 (「コギト」昭和9年=1934年11月)
13. (私) 静かなクセニエ (初出不明)
14. (半身) 咏唱 (旧題「事物の本抄」第9連/「呂」昭和7年=1932年11月)
15. (私) 四月の風 (「呂」昭和9年=1934年6月)
16. (半身) 即興 (「椎の木」昭和10年=1935年4月)
17. (私) 秧鶏は飛ばずに全路を歩いて來る (「四季」昭和10年=1935年4月)
18. (半身) 咏唱 (旧題「朝顔」/「呂」昭和7年=1932年10月)
19. (私) 有明海の思ひ出 (「コギト」昭和10年=1935年3月)
20. (半身) (讀人不知) (旧題「秋」/「呂」昭和7年=1932年11月)
21. (半身) かの微笑のひとを呼ばむ (「日本浪曼派」昭和10年=1935年7月)
22. (私) 病院の患者の歌 (「呂」昭和8年=1933年6月)
23. (半身) 行つて お前のその憂愁の深さのほどに (「コギト」昭和10年=1935年6月)
24. (私) 河邊の歌 (「コギト」昭和9年=1934年10月)
25. (半身) 漂泊 (「コギト」昭和10年=1935年8月)
26. (私) 寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ (「コギト」昭和10年=1935年1月)
27. (一老人) 鶯 (「呂」昭和9年=1934年2月)
28. (一老人) (讀人不知) (旧題「静かなクセニエ抄」/「呂」昭和7年=1932年12月)

 語り手「半身」はパセティックなロマン主義詩人としての伊東静雄で、萩原朔太郎が激賞したのはもっぱら伊東のロマン主義的側面です。しかし伊東にはロマン主義を相対化するアイロニーの詩人の側面もあり、ロマン主義に醒めた語り手を「私」としたこと自体もロマン主義の詩集としては皮肉なことで、結果的に新たなロマン主義の提唱とロマン主義批判のせめぎ合う詩集になったのが『わがひとに與ふる哀歌』でした。巻末に「私」でも「半身」でもない詩人のなれの果ての「一老人」の独白を置いたのはテーマの上では「私」と「半身」の相克が頓挫したことを示すでしょう。
 作詩時期で見ると、ロマン主義批判である「私」の作品がほぼ昭和7年空8年に先行して書かれているのに対し、ロマン主義詩である「半身」の詩は作詩時期後半の昭和9年昭和10年に書かれているのが意表を突かれます。伊東静雄にあっては、ロマン主義はあらかじめロマン主義批判を通過した発想を消化した上でないとたどり着けなかった。歿後全集に収録された詩集1冊分あまりの生前詩集未収録作品も反ロマン主義的な初期のものです。杉本秀太郎の『伊東静雄』まで歿後全集からは25年、伊東の逝去からは30年、『わがひとに與ふる哀歌』刊行からは50年が費やされました。名のみ高くしてこれほど射程の長い詩集も滅多にないのです。

『わがひとに与ふる哀歌』(発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年=昭和10年10月5日発行)

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 歸郷者

自然は限りなく美しく永久に住民は
貧窮してゐた
幾度もいくども烈しくくり返し
岩礁にぶちつかつた後(のち)
波がちり散りに泡沫になつて退(ひ)きながら
各自ぶつぶつと呟くのを
私は海岸で眺めたことがある
絶えず此處で私が見た歸郷者たちは
(まさ)にその通りであつた
その不思議に一様な獨言は私に同感的でなく
非常に常識的にきこえた
(まつたく!いまは故郷に美しいものはない)
どうして(いまは)だらう!
美しい故郷は
それが彼らの實に空しい宿題であることを
無數な古來の詩の讚美が證明する
曾てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如として彼らの皆が
あそ處(こ)で一基の墓となつてゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである

(「コギト」昭和9年=1934年4月)

 反歌

田舎を逃げた私が 都會よ
どうしてお前に敢て安んじよう

詩作を覺えた私が 行為よ
どうしてお前に憧れないことがあらう

(旧題「都會」/「呂」昭和7年=1932年10月)

 冷めたい場所で

私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
眞白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷めたいこの岩石の
場所にこそ

(「コギト」昭和9年=1934年12月)

 海水浴

この夏は殊に暑い 町中が海岸に集つてゐる
町立の無料脱衣所のへんはいつも一ぱいだ
そして惡戯ずきな青年團員が
掏摸を釣つて海岸をほつつきまはる

町にはしかし海水浴をしない部類がある
その連中の間には 私をゆるすまいとする
成心のある噂がおこなはれる
(有力な詩人はみなこの町を見捨てた)と

(「呂」昭和8年=1933年11月/「コギト」昭和8年=1933年11月)

 わがひとに與ふる哀歌

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内(うち)
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒(つね)に變らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無邊な廣大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の發明の
何にならう
如かない 人氣(ひとけ)ない山に上(のぼ)
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

(「コギト」昭和9年=1934年11月)

 静かなクセニエ(わが友の獨白)

私の切り離された行動に、書かうと思へば誰でもクセニエを書くことが出來る。又その慾望を持つものだ。私が眞面目であればある程に。
 と言つて、たれかれの私に寄するクセニエに、一向私は恐れない。私も同様、その氣なら(一層辛辣に)それを彼らに寄することが出來るから。
 しかし安穏を私は愛するので、その片よつた力で衆愚を唆すクセニエから、私は自分を衛らねばならぬ。
 そこでたつた一つ方法が私に殘る。それは自分で自分にクセニエを寄することである。
 私はそのクセニエの中で、いかにも悠々と振舞ふ。たれかれの私に寄するクセニエに、寛大にうなづき、愛嬌いい挨拶をかはし、さうすることで、彼らの風上に立つのである。惡口を言つた人間に慇懃にすることは、一(いつ)の美徳で、この美徳に會つてくづほれぬ人間は少ない。私は彼らの思ひついた語句を、いかにも勿體らしく受領し、苦笑をかくして冠の様にかぶり、彼らの目の前で、彼らの慧眼を讚めたたへるのである。私は、幼児から投げられる父親を、力弱いと思ひこむものは一人も居らぬことを、完全にのみこんでゐてかうする。
 しかし、私は私なりのものを尊ぶので、決して粗野な彼らの言葉を、その儘には受領しない。いかにも私の丈に合ふやうに、却つて、それで瀟洒に見える様、それを裁ち直すのだ。
 あゝ! かうして私は静かなクセニエを書かねばならぬ!

(初出不明)

 咏唱

この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと來ないだらう
そして蒼空は
明日も明けるだらう

(旧題「事物の本抄」第9連/「呂」昭和7年=1932年11月)