人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2016年映画日記10月11日~15日

 映画とあらばかたっ端から観てきた末にサイレント映画に流れついたら映画マニアも逃げ場はないと言われます。幸いマニアではなく単に自宅療養の暇にまかせてDVDやネット配信で鑑賞しているだけですが、たまたま11日(火)にサイレント映画ばかりを観たのがきっかけで、こうなったら10月中旬の10日間はサイレント映画の鑑賞に徹しよう、と長短さまざま38作品を踏破しました。エイゼンシュテイン作品ほか数本を除いて初見かつ輸入盤ソフトも多く、トーキー以上に集中力を要求されるのでこの程度の本数を観るのも体力と根性を要しました。年代が古い分画質はさまざまで、上映用プリントに適当なBGMをつけそのままDVD化しただけのソフトもあれば、精選したプリントをレストア作業し丁寧なサウンドトラックをつけた極上品もあり、その基準は映画の出来やヒット業績とは必ずしも一致しないのです。
 最近レストア版DVDが出たものは多くが上映当時の場面染色を再現しており、部分的に赤・緑の2色分解カラー撮影されている作品もあって、サイレント映画=B/W映像、という先入観を覆します。また近年のプリント精査とデジタル修復の向上やサウンドトラックの的確さは従来の上映用プリント、市販ソフトの大半に見られた不備を一掃して作品に新たな照明を当てるものです。もっとも、グリフィスほどの巨匠でも長編作品の半数は画質劣悪な市販ソフトしかなく、これは大したセールスが期待がかけられない作品にはレストア作業に十分なコストがかけられず、劣化した上映用プリントをそのまま原盤にしてディスク化するしかない、という世知辛い事情によります。映画というのは過酷な運不運をくぐって運ばれてくるものだなあ、と感慨ひとしおです。

●10月11日(火)

D・W・グリフィス『悪魔絶滅の日』(アメリカ'19)
・邦題は訳がわからないがグリフィスには珍しいメロドラマ西部劇で異色作。グリフィス1919年の長編6作では面白い方。本作は日本盤なし、かなりひどい劣化プリント起こしの海外インディーズ盤しかないのが難点。

溝口健二『折鶴お千』(第一映画'35)
・学生時代に観て感動した。だがどうも2本立てで観た『瀧の白糸』と印象がかぶっていたらしく本作だけを単品で観直すと記憶よりあっけなく、感動が薄れてしまった。十分佳作ながら翌年に『浪華悲歌』『祇園の姉妹』が控えているとなると、そつなくまとめた小品といったところ。16歳の山田五十鈴は可憐で良い。

ジャン・エプスタン『モープラ嬢』(フランス'26)
・こんなものまで家庭で観られる時代が来ようとは。エプスタンらしい実験性はほとんどない伝奇的時代劇で、娯楽映画としてはだんだん手練れになってきた。登場人物の性格と行動に一貫性がないのも大時代的でここまで来ると面白い。ちなみにブニュエルが助監督です。

●10月12日(水)

トーマス・H・インス『シヴィリゼーション』(アメリカ'16)
・まさかの日本盤。商売敵グリフィスの『国民の創生』大ヒットを受けて、新作『イントレランス』の事前情報で対抗策を立てたかのような第1次世界大戦中の平和主義的戦意発揚大作。決して反戦映画ではないのは大衆映画の常。

ルイ・デリュック『エルノアへの道』(フランス'20)
・名のみ高くしてほとんど作品が顧みられない夭逝(1924年、33歳)映画批評家・監督のフィルム現存作品4本(他3本散佚)のうちもっとも初期のもの。当時主流のアメリカ映画ともドイツ映画ともまるで異なる印象派的スタイルの源流といえる映画作家だった、と実物を観て確認。

ジガ・ヴェルトフ『キノ・アイ(キノ・グラーツ)』(ソヴィエト'24)
ジガ・ヴェルトフ『キノ・プラウダ♯21(レーニンのキノ・プラウダ)』(ソヴィエト'25)
1920年代のソヴィエト映画のスタイルは過激なモンタージュ手法を極めたもので、ヴェルトフは劇映画ではなくドキュメンタリーだった分だけ対象の解体・再構成の度合いがさらに過激。映像による映像論をすでに指向している。

G・W・パブスト『淪落の女の日記』(ドイツ'29)
・トーキー台頭真もない時期のサイレント作で、音声トラックがつけばトーキーで通じる演出に踏み込んでいる。ドイツ映画の表現主義的映像の癖がないのが新しく、濃厚な頽廃感のみを引き継いでいるのが巧妙。

●10月13日(木)

ルイ・デリュック『狂熱』(フランス'21)
・無字幕・25分強の短縮版が流通してきたがレストア版の44分染色版がオリジナルの忠実な復原だそうです。田舎の港町の酒場を舞台にした愛欲劇で、小粒ながら完成度の高い代表作。

アベル・ガンス鉄路の白薔薇』(フランス'23)
・前後編合わせて4時間半、サイレント期フランス映画の最高傑作とも、映画史上もっとも冗長な名作とも呼ばれる伝説的作品。2008年レストア版DVDの画質とサウンドトラックは素晴らしい。グリフィス、もとい普通の映画なら40分の中編程度にまとめる田舎町ドラマを270分まで引き延ばす偏執的な発想には恐れ入る。

ジャン・エプスタン『61/2×11』(フランス'27)
・ガンスとデリュック両者の強い影響下から出発したエプスタンは影響の受け方が上手かった。デリュック的な簡素さを基本にガンス的くどさをアクセントに加え、本作も単純な犯罪メロドラマを語り口の工夫だけで引っ張る。

●10月14日(金)

マルセル・レルビエ『エルドラドオ』(フランス'21)
・ガンスと並ぶ大物だけあり、デリュックやエプスタンとは比較にならない派手な作風で、映像の凝り方も物量作戦で大味なガンスより緻密で耽美的。ガンス、レルビエは大正時代の日本でも人気が高かったらしいが、アメリカ映画やドイツ映画より映像に美術的な高級感や上品さがあったからなのだろうか。

ルイ・デリュック『さまよえる女』(フランス'22)
・『狂熱』と並ぶ代表作とされ、放浪の女が一夜宿を借りたブルジョワ家の人妻の駆け落ちを思いとどまらせる、というだけの話で、およそ映画らしくないのがデリュックの発明だった。女性の放浪者をヒロインにした発想とひと気なく寒々しい田舎道のイメージはアントニオーニ的なムードがあって強い印象を残す。 ただし面白いか、感動があるかは別になる。

セルゲイ・M・エイゼンシュテイン戦艦ポチョムキン』(ソヴィエト'25)
・フランスのサイレント映画を続けざまに観た直後に観ると鈍器で頭をどやされたような衝撃を受ける。簡潔な字幕、次々とスピーディに展開する密度の高さ、ショッキングな映像と鋭いモンタージュが一斉に襲いかかってくる。グリフィスの技法を精製したものだが何より映像で五感を震撼させよう、観客に絶対伝えたいのだ、という気迫がすごい。同時代のフランス映画の対極にあるものだ。だからもちろん、エイゼンシュテインにはフランス映画的なあいまいさを見つけ出すことはできない。

ジャン・エプスタン『三面鏡』(フランス'27)
・三人の女が語る男との別れ話、実はそれは三つ跨かけていた同一の男で……という複雑な話法で、観客には時系列が明確に読み取れないトリッキーな構成。これを押し進めていけば『去年マリエンバートで』のアラン・レネにもなるが、エプスタン本人はどこまで意図的な実験だったのか。作品自体はフランス映画史サイレント末期の注目作といえる秀作。

●10月15日(土)

ルイ・デリュック『洪水』(フランス'24)
・洪水に見まわれたある田舎町の人間模様。デリュックは本作撮影中肺炎に罹って遺作になり、マルセル・レルビエの指揮で編集・完成されたもの。『狂熱』『さまよえる女』と最小限のストーリーに絞り込んできたデリュックだが、『エルノアへの道』の散漫さに戻ってしまったのはデリュック作品中最長(88分)なのもあるかも。人間ドラマよりも洪水が主人公の映画として観れば(他に見ようがないが)何だか観ているうちに終わってしまう良さがある。結局デリュックという人はどういう個性の人だったか、現存作品4本から断定してもいいものか。

セルゲイ・M・エイゼンシュテイン『十月』(ソヴィエト'27)
・『ストライキ』から『戦艦ポチョムキン』への飛躍もすごかったが、『ポチョムキン』から本作への爆発ぶりもすごい。モンタージュはますます細かく手が込んで、一瞬たりともスキを見せない凝った映像の奔流。あまりに重厚な内容に観ていて疲れるのが唯一の欠点。

衣笠貞之助『十字路』(衣笠映画連盟/松竹京都'28)
・これが『十月』とほぼ同時、『アッシャー家の末裔』より先に制作・公開されたのだから日本も誇れる。伊藤大輔斎藤寅次郎ら戦前は天才と謳われ戦後は普通の映画監督になってしまった例は多いが、『十字路』はトーキー以後の衣笠と同一人物かと思うくらい冴えまくっている。とにかくカメラが動く動く動く、表現主義を意識した『狂つた一頁』1926では意欲が型にはまって空転していたのが、『十字路』では既成の映画手法を突き抜けようというエネルギーに満ちている。20年代の他の衣笠作品、また溝口健二作品が散佚しているのが惜しまれる。

ジャン・エプスタン『アッシャー家の末裔』(フランス'28)
・一般的にエプスタンが知られるのは本作あってのことで、どうも毎回決定打に欠けていたが本作は原作、脚本、俳優、撮影、美術が調和した充実した作品になった。2014年のレストア版は61分だが日本盤は旧来の短縮版(44分)のみ、もっともこれまで長年短縮版で親しまれてきたのだから問題はないのかもしれない。今回レストア版を観て冗長に感じる箇所もあった。本作が後続の怪奇映画に与えた影響は大きく、また本作の原作の一部はゴダール女と男のいる舗道』で朗読されている。だが本作でゴシック・ロマン的作風の頂点を極めたエプスタンは、次作から突然作風を転換させるのだった。