人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2016年12月11日~15日/ジャン・ルノワール(後)

 フランスの映画監督ジャン・ルノワール編の後編です。ルノワールについての概要は前編の前書きをご覧ください。

12月11日(日)

ジャン・ルノワールラ・マルセイエーズ』(フランス'38)*132mins, B/W
・フランス人にとってはフランス革命劇は忠臣蔵みたいなものなのではなかろうか。全然内容は違うが圧制への反抗という点で。スリリングな革命劇ではなく宮廷、民衆をのんびり描いているのがルノワールらしいとも言えて、前後に力作『大いなる幻影』と野心作『ゲームの規則』があるから位置づけに迷う作品ではある。革命の酸鼻な側面はスルーしているのもルノワールらしいが、喧嘩両成敗的な描き方には中立的で部外者的な歴史観を感じてお手柔らかに過ぎ、訴えかけてくるものにやや乏しく感じる。登場人物も台詞も多い盛り沢山の映画で前後作に劣らぬ力作だが、セット内の場面ばかりなのが本作では人工的に過ぎてリアリティに欠けて見え、中心人物は多数だが数グループで同時進行するドラマに有機的な関わりが稀薄で散漫なように感じる。だがその重層的構成はゾラ原作の自然主義映画『獣人』'38を挟んで『ゲームの規則』で大成功することになる。

ジャン・ルノワールゲームの規則』(フランス'39)*106mins, B/W
・結婚していようが独身だろうが二股三股は当たり前の'30年代のパリ上流階級、館勤めの召使いたちも主人と同様。犠牲者になるのは恋愛ゲームをわきまえずひたむきになる中産上流階級。登場人物全員が発情しているような喜劇は時に残酷になり、事件が事件を生み、やがて思いもかけず陰惨な結末を迎えるのに何事もなかったかのように終わる。ルノワールのオリジナル脚本で監督自身がほぼ主演格の視点人物を演じる。悪夢のような魔術的コメディで公開当時大コケしたのもうなずける破天荒な作品だが、『素晴らしき放浪者』や『どん底』からの順当かつ飛躍的な発展とも言える。ルノワールでは長年『大いなる幻影』と『ゲームの規則』が2大傑作とされてきたが、かつては『大いなる幻影』、近年は『ゲームの規則』が重視されるのもわかる気がする。ルノワールの出演は本作きりなのがもったいないくらいのはまり役(『コルドリエ博士の遺言』冒頭に本人役で少し出るが)。ルノワール作品でもっとも真価が発揮された最高傑作、かつ抜群に面白くとんでもない発想の作品は本作で、『黄金の馬車』『フレンチ・カンカン』『恋多き女』はすべて本作のヴァリエーションといえるもの。


12月12日(月)

ジャン・ルノワール『自由への闘い』(アメリカ'43)*103mins, B/W
・『ゲームの規則』の後、第二次世界大戦の激化からアメリカに移住したルノワールジョン・フォードの名脚本家ダドリー・ニコルズの『スワンプ・ウォーター』'41をハリウッド第1作に、続いてニコルズとルノワールの共同脚本で制作されたRKO作品が本作。ドイツ軍占領下でジョン・ロートン扮する小心な小学校教師が抵抗精神に目覚めるまでを真綿で首を絞めるような占領政策の進行とともに描いて、アメリカ南部を描いた前作とは対照的な題材ながらこれもニコルズ脚本の巧さが生きた名作になった。レジスタンス活動を描いた派手なアクション・シーンが多いのもルノワールには珍しい。名優ロートンの説得力ある演技、モーリン・オハラのヒロインも一番美しかった頃で、これがアメリカ人監督の作品だったらアメリカ映画史上必見の異色傑作と伝説化したのは間違いない。反戦映画には違いないが本質的には皮相な反戦映画ではまったくないモラリストの映画で、大戦真っ最中によくこんな作品を商業映画で作れたものと感嘆する。RKOは商業ベースに乗らない映画を平気で送り出していた実績がある。

ジャン・ルノワール『南部の人』(アメリカ'45)*92mins, B/W
・本作はルノワール自身のプロダクションで制作、20世紀フォックス配給。小作人から独立して未開墾の借地を開拓しようとする若夫婦一家の、天候や病気や同居するガミガミ屋の祖母や気難しい隣人との戦い。本作はニコルズ脚本ではなくルノワールウィリアム・フォークナーら4名共作の脚本だが、舞台や題材、ストーリーどころか酒場のケンカまでジョン・フォードそっくり。題材はキング・ヴィダーの『麦秋』'34にも似ている。昭和27年日本公開で好評だったのは農場開墾物語が日本人の心に沁みたのだろう。イタリア人にも沁みたらしくヴェネツィア映画祭作品賞を受賞。次作『小間使いの日記』'45はゾラに続く自然主義小説家オクターヴ・ミルボー原作、ユナイテッド・アーティスツ配給で元チャップリン夫人ポーレット・ゴダード主演の自然主義映画、翌年の『浜辺の女』'46は再びRKOフィルム・ノワールを作ってアメリカ時代を締めくくり、アメリカ配給の最終作『河』へ続く。


12月13日(火)

ジャン・ルノワール『河』(アメリカ'51)*95mins, Technicolor
・ハリウッド最大の生花店組合がスポンサーについて実現したユナイテッド・アーティスツ配給作品で全編インド・ロケによるルノワール初のテクニカラー長編。本作完成後ルノワールはフランスに帰国するのでアメリカ時代は前作までか本作までか見方が分かれる。植民地時代のインドで大使館に育った女性の少女時代の回想録が原作で、インドのカラフルな風物がたっぷり。原作の性格からもイギリスの植民他政策ではなく、3人の少女たちの初恋模様がドラマの主軸になっている。記憶ではもっと淡々とした少女映画と思っていたが(英語字幕の上映を観たのもある)、こんなにナレーションが多かったのも、日本語字幕版DVDで観るとけっこう少女たちが大人びているのも意外だった。本作はもう何というか、カラー撮影のインド景物を観ているだけで陶然となる魅力がある。これもヴェネツィア映画祭受賞作。『スワンプ・ウォーター』から本作まで足かけ10年のルノワールアメリカ映画6作、すべて名作ではないか。

ジャン・ルノワール『黄金の馬車』(フランス'53)*103mins, Technicolor
・18世紀初頭、スペイン植民地の南米某国に成功を夢見て巡業しに来た貧乏劇団。一座のヒロイン(アンナ・マニャーニ)はたちまち3人の男に言い寄られ……という恋愛コメディだが、20代で観た時はマニャーニの海千山千の年増ぶりに興醒めしながら観た。すごい大女優なのだがこれでもかというくらい暑苦しい演技で閉口した。このマニャーニより年長になった今観ても暑苦しさに変わりはないし、マニャーニ演じるヒロインにはまったく魅力を感じないが、このヒロインがモテモテになるどこか昔の外国の文化もありだな、というのは理解できるようになった。ここからの3作はルノワール円熟の3部作でもあり、好き嫌いを超える。


12月14日(水)

ジャン・ルノワールフレンチ・カンカン』(フランス'54)*104mins, Technicolor
・19世紀末のパリ、フレンチ・カンカンの発祥とムーラン・ルージュの誕生をモンマルトルの興業師にジャン・ギャバン、洗濯娘からダンサーに抜擢される少女にフランソワ・アルヌールを配して描く。クライマックスの10分あまりにおよぶフレンチ・カンカン場面などとにかく華やか。ルノワールにとってはお膝元、日本だったら浅草レヴューや吉本新喜劇宝塚歌劇団の創立を映画化するようなものか。フランス人にとっても地方都市の市民には他人事でしかないだろうし、この映画の時点で国際的な観光名所化したムーラン・ルージュ像をなぞっているにすぎないきらいはあるが、千両役者ギャバンの魅力が企画の売れ線くささを帳消しにする。画面からも女好きがぷんぷん匂うルノワール映画だが、男を上手く描けた時にこそ成功作が生まれるように思える。

ジャン・ルノワール恋多き女』(フランス'56)*94mins, Eastmancolor
・原題直訳『エレナと男たち』。20世紀初頭、イングリッド・バーグマン扮する「あげまん」亡命ポーランド公女をめぐる取り巻き貴族たちの恋と出世のつばぜり合い。バーグマンはいつも何かで悩んでいるような役ばかりを演じてきたが、後にも先にもこれほどウキウキした表情・所作のバーグマンはない。演技ではマニャーニ圧勝だがしてやったりの風情になりがちのマニャーニと違い本作のもてもてバーグマンは実生活ではあまりモテた覚えがないのではないかというくらい嬉しそうにモテている。ルノワールの乗せ方の上手さがうかがえる。『黄金の馬車』から3作は『ゲームの規則』の発展型だが、この3部作は後になるほど素晴らしい。


12月15日(木)

ジャン・ルノワール『コルドリエ博士の遺言』(フランス'59)*97mins, B/W
・ジャン=ルイ・バロー主演の「ジキル博士とハイド氏」の改作。テレビ用特別番組として作られた映画だが、テレビ番組も生放送でなければフィルム撮影で作られていた時代なので十分映画のクオリティがある。冒頭はミキシング室にルノワールが現れスタッフに指示、映画の概要をナレーションする場面から始まる。すでに嫌な予感が走るが、演劇畑の俳優を起用してリハーサルを2週間行い、マルチカメラによる1シーン1カットで撮影されたそうで、この手法は裏目に出た。カットは細かくモンタージュされているので通し撮影ならではの緊張感はなく、むしろ間延びした演技に見える。ルノワール自身による原作の改作も原作以上に不自然な無理や矛盾が多く、映画として効果を狙ってかえって改悪になってしまった。マルチカメラ撮影と役者の演技に頼って演出に冴えがない。これまでも有能な助監督を起用してきたように、せめて『壁にぶつかる頭』'59、『顔のない眼』'62のジョルジュ・フランジュが助監督にでもついていたら、と残念な実験作。

ジャン・ルノワール『捕えられた伍長』(フランス'62)*106mins, B/W
・本作の後ルノワールは短編オムニバス作品『ジャン・ルノワールの小劇場』'69を最後にアメリカに渡り、1979年の逝去まで文筆に専念するので長編映画ではこれが遺作になる。ルノワール自身が映画監督になる前に第一次世界大戦で従軍経験があり、サイレント時代の『のらくら兵』'28、第一次世界大戦の捕虜収容所もの『大いなる幻影』'37、内戦(フランス革命)もの『ラ・マルセイエーズ』、第二次世界大戦レジスタンスもの『自由への闘い』があるが、従軍軍務や捕虜収容所を描いてもどこか切迫感がない(占領下のレジスタンスを描いた『自由への闘い』はまだしも)。106分の映画で6回の脱獄が描かれる第二次世界大戦の捕虜収容所ものが本作で、もうユルユルの映画だが巨匠の手すさびのような気楽な空気が漂っており、ラスト・シーンなどかつての盟友ルネ・クレールの『自由を我等に』'31のようでもあり、ジム・ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』'86のようでもある。次回作などもうないかもしれないし、軽いもので終わりたかったのかもしれないとしたら、その意図は成功している。